月華に黙す

 世界が藍色にどっぷり染まった時刻。まんまるなお月様が放つ淡いひかりが舷窓からすう…、と伸びてサンジの金色をより明るく染めている。ふわりと動くたびに集めたひかりと散りばめている頭を見上げてなまえはくすりと笑った。
 
「え、なあに?」
「サンジくん、とっても綺麗だなあって」
「おれが綺麗? まさか。綺麗なのはなまえちゃんだよ。月に照らされて綺麗な肌がいっそう滑らかに見えて……ああっなんって美しいんだ、なまえちゃんは! まさにかわいいの化身だなァ」
「その方がまさかよ。サンジくんは大袈裟だわ」
 
 ふたりっきりのキッチンには甘酸っぱいレモンの香りが漂っていて、ふたりっきりだというこの緊張感にほろりとした苦さが全面に押し出され、涼しげな顔をした裏でふたりはドキドキと鼓動を鳴らしていた。それを悟られないように、サンジはレモンの皮を器用に剥きながらそっと彼女に視線を向けた。
 
「…もうすぐ日付変わっちまうが…なまえちゃん、まだ寝なくていいのかい?」
「ええ。今日はもうちょっと起きていたいの」
「そっか。そういう日もあるよな」
「うん、えへへ」
「……!(か、かわいい……っ、)」
 
 あまりの可愛さにドキンと胸を抉られた。相手が相手だからメロリン!もできずにフイと目を逸らし、手元に向ける。綺麗に切り落としたレモンの皮は砂糖で煮てピールにするもの。このほのかに苦く香り高いレモンピールはパウンドケーキや朝食のマフィンにしてもいいし、紅茶やカクテルに浮かべるのもいい。もちろん、お茶請けやおつまみにもなるし保存も効くからレモンを使うたびに作っているのだ。
 果実の方は明日の朝食に使うもので、今のうちにできるところまで仕込んでおいてから男部屋に戻る予定なのだけれど。なまえはいつまで起きているのだろうか。最初はレモンピールの味見をしたいのだろうか、と思ったけれど「おいしそ明日が楽しみ」と朗笑するだけでおねだりする素振りはみせない。
 ルフィたちだったら「おい、つまみ食いすんなよ」と目を光らせているのだけれど、相手はレディーでそれも“唯一”を抱く…つまり、本気の恋をしている女の子だから彼女が望むのならばつまみ食いはもちろん、全てを食べられたって構わねェ!なんて思ってしまっている。そのくらいに、自分を出せなくなってしまうくらいに、彼女に心底惚れていて。いい加減セーブしねェとやべェだろ、なんて相手が麗しきレディだというのに日々危機を抱いていて、それは“抱く”にとどまり想いは嘲笑うかのようにサンジの胸をどこまでも恋に連れていくのだ。この想いをいい加減、どうにかしなくては。
 
 またうじうじ悩んでしまいそうな思考を飛ばして、なんでもないように彼女に問うた。
 
「……なまえちゃん、お茶のおかわりはいかが? ──……なまえちゃん?」
「……へ、あ、……う、うん、ありがとう。いただこうかな」
「かしこまりました」
 
 慌てたように顔を持ち上げてにこっと笑みを浮かべたなまえの小さな手に触れないように慎重にティーカップに手を伸ばした。反応が薄かったのは、日記を書いていたからだろうか。紳士として日記に目を落とすことはしないけれど、彼女がいつもここで日記を書いていることをサンジは知っていた。
 彼女のカップを持ち上げるとほのかなジャスミンの香りがサンジの鼻腔をくすぐった。なまえの大好きな茶葉で、もう一度抽出しようとしたところで、あ、と彼女に振り返る。
 
「なまえちゃん、もうすぐ寝るだろう? 寝付きにいいカモミールティーにしようか」
「わ、カモミールティー大好き。じゃあ、それでおねがいします」
「うん、おれもそうしようかな。えっと、カモミールティーは……ああ、あった。なまえちゃん、はちみつ入れようか……」
 
 棚の奥から綺麗な缶を取り出し、片手に握りながら彼女に視線を向けるとまた下を向いていた。ああ、真剣な時に声かけちまったな。と申し訳なさに眉を下げたけれど、手は動いていないし、こころなしかからだがカクンカクンなっている。ん? もしかして。そう思い、近づいてみるとやはりな光景にサンジの頬はゆるく弛んだ。
 
「かっわいいなあ……」
 
 力をなくした首はゆらゆら彷徨っているのに、長いまつ毛は伏せられて夢の世界に旅立っている。居眠りをしている姿はとびきりかわいく、おさなごのようでいじらしい。このままずっと眺めていたい気持ちになったけれど、不安定な場所で夢を見るのはかわいそうだとそっと肩に手を乗せる。
 
「なまえちゃん、なまえちゃん…」
「……ん…、」
「こんなところで寝てたら風邪ひいちまうぜ」
 
 びっくりさせないように優しく揺らすのに彼女は一向に起きる気配はない。吐息をこぼし、まぶたをぴくりとさせたが、重たくのしかかった睡魔にそれ以上意識も瞳も開かないみたいだ。
 彼女がこの時間まで起きているのは珍しい。いつもはふかふかのおふとんに潜って眠っている時間なのに、今日はどうして付き合ってくれたのだろう。
 
 ──もしかして、ここ連日遅くまで仕込みをしているからか?
 
 彼女はよく心配をしてくれている。サンジくん遅くまで起きていたのにそんなに早く起きて大丈夫? ごはん、サンジくんの分ちゃんと取り分けてる? みんなの健康のために毎日朝早くから夜遅くまでお仕事してくれてありがとう。
 春の陽光のようなやわらかな笑みを浮かべて、毎食律儀にお礼と感想を告げてくれる彼女に触れるたび、ああ…作ってよかったなァ…。料理の糧になるなァ。と心のそこがじんわりするのだ。
 
 起こさないようにそっと身体に手を滑りこませ、器用に椅子から持ち上げお姫様抱っこをする。こうして全てに触れる機会は少ないけれど、そのたびに「なまえちゃんはなんて軽いんだ……」と羽のような軽さに感心を通り越して少し心配してしまう。
 そんな軽やかさとは相反してサンジの胸はこの密着に激しく重たい高鳴りを感じていた。ふわりと香る甘いシャンプーのにおい、直に伝わる体温、可愛らしい寝顔。その全てが近くってサンジの脳は考えることをやめてしまいそうなくらいに沸騰してしまいそうだ。
 
 ドアを開けてみれば涼しい風がスーツの脇をすり抜ける。それが今は心地がよくってほっと安堵するが、なまえには寒かったのか苦しそうにまぶたにしわが寄った。
 
「あ……ごめんね、なまえちゃん。寒ィよな」
「……さんじく…?」
「うん、おれだよ。なまえちゃん寝ちまってたからお部屋まで運んでるんだ」
「よかったあ……さんじくん」
 
 とろんとした目でサンジを捉えると、彼女は心底幸せそうに表情をとろけさせた。そんな顔されたら、変に期待を持っちまう。豪快に胸を抉られた気がして愛にぐっと下唇を噛む。だけど、それを阻止するように小さな手がジャケットをぎゅうっと掴んだ。もう完全にまどろんでいるから力はほとんど込められていないのが見てわかる。
 
「なまえちゃん、相当眠てェんだな。付き合わせちまってごめんな」
「まだ、ねない……さんじ、くんに…、」
「うん?」
「さん、じ…くんに、いちばんにプレゼント…わたさなきゃ…、」
「え──、」
 
 プレゼント? まさか麗し女神天使様がこのおれなんかにプレ、プレゼントを渡してくれようとしてたのか!? だけど、なぜ?と疑念を抱いたところではっとする。ここのところ時化や敵襲に見舞われてあまりの忙しさにすっかり忘れていたけれど──。
 ああ……そっか、それで彼女は眠たい目をこすってまで我慢して起きててくれたのか。そっか、おれ誕生日だったなあ。そういえば、明日はおれの誕生日パーティーをするってルフィが言ってたっけな。サプライズだったみてェで、ナミさんからゲンコツ落とされていたが。
 
「……嬉しい。嬉しいよ、なまえちゃん。明日一番にプレゼントもらってもいいかな?」
「…うん、」
「ありがとう。楽しみにしてるよ」
「うん…。サンジくん……おめでと……うまれてきてくれて…ありがとう」
「……なまえちゃん…」
 
 慈しむような表情から途切れ途切れにこぼされたことばはサンジの胸の奥をひどくくすぐり、ぎゅうっと締め付けた。いつもいつもほしい言葉をリボンに結んでプレゼントしてくれるなまえからこれ以上何を貰えばいいのか。きっとどこかにおれへのプレゼントが隠されていて、なまえちゃんは明日それをおれに渡してくれるだろうが、もうこんなにもガキの頃から欲しかった愛のことばをもらったのだからこれ以上に受け取るのがどこか申し訳なく感じてしまう。
 しあわせに泣きそうになって、もう一度ぐぐっと唇を噛むと彼女の甘い吐息が空気を揺らした。フイと視線を下げると安心し切ったのか彼女はもう完全に夢に落ちてしまっていた。
 
「……さんじくん、だいすき」
 
 一体どんな夢を見ているのだろうか。しあわせそうに、愛おしそうに微笑みを浮かべる彼女のやわらかそうな唇からこぼれた愛の囁きはきっと、この世で何よりもほしかったものでサンジの胸は熱く甘くとろけてゆく。
 
「……なまえちゃん、おれも、おれも。おれも…大好きだよ、世界でいちばん大好きだ、なまえちゃん」
「えへ、…」
「好きだよ、なまえちゃん」
 
 恋に触れ、好きだ好きだと心が唸る。誰にも渡したくない大好きな特別な唯一な女の子。明日、みんな揃った中でのいちばんではなくって、三月二日午前〇時 二人っきりのいちばん目のプレゼントが欲しくなって。──迷った後にそっと顔を近づける。
 
「……なまえちゃん、今プレゼントもらっていいかい?」
「……ん…、うん」
「…ありがとう。なまえちゃん大好きだよ」
 
 顔を照らしていた月の光がふっと遮られた。たばこのにおい、至近に感じる彼の気配に夢の中でとくんと鼓動が高鳴ったけれど、ほっぺたに触れたやわらかな感触は今のなまえには想像もできないものだった。
 
 

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