Holy

※2021.10.11発売.WJ1028話のネタバレ有りです。
単行本派の方はお気をつけください。あまり明るくないです。
 
 
 

 こぷ、こぷ、どろり──…。
 胸の奥から押し上げられるドロリとしたもの。むせ返るほどの嫌悪、気持ちの悪さ。
「イヤだ…ッ、」胸が苦しい。体が熱いくらいに熱っている。喉の奥までのぼってきているつっかえをどうにかしようとシャツがくしゃくしゃになるほど握りしめた。それでも、拭えない身体の違和感。突きつけられたような現実、逃げられない血筋、どうにもできなかった過去。
「イヤだ……助けて、お母さん…」低い声が真っ暗な中に反響した。鉄の臭いと埃っぽさがツンと粘膜を刺激する。
「お母さん…」、脳は意識は声は大人なのに、ふと見下ろした自分の身体は子供の頃の自分だった。光を知らない真っ白い小さな手、立ち向かうこともできなかった小さな身体。手のひらを開いて握ってみると、しっかり脳の指令を汲んだ手はサンジの思うままに動いた。
 
「え……ガキ、?」
 
 どうしちまったんだ…。体の違和感は縮んだことを感じとったからだろうか? いや、違う。さっき自分の手のひらが温かいことにほっとしていた。これは、きっとユメだ。夢の中なのに、未来に対する不安への気持ちは悲しいくらいに正常に動いている。もう泣きたくなった。吐き気がするほどにあんなにも嫌っていたものに、おれは──。
 
「おかあさん…、」声が震えた。
 
「……なまえ、ちゃん…、」
 
 次いで、焦がれるような相手を無意識の内で口にしていた。
 
「なまえちゃん…」
 
 薔薇の花の名を持つ彼女の名をもう一度、意識の中で呼ぶと真っ暗な暗闇の中に一筋の光が差した。慣れない光に目が酷く痛む。眩しくて、ぎゅうっと拳を目に押し当てると「泣かないで」、とっても慈愛に溢れた柔らかな声が鼓膜を揺らし、あたりは嫋やかな花のにおいに満たされた。
 ぎゅうっと全身に包み込まれる温かさ。心に注がれるたくさんの愛。
「…お母さん…?」
 花のにおいもぬくもりも愛も、全て母を想起させるもの。もう、彼女に何年会えていないだろう。自分に夢を見せ、与えてくれた人。誰よりも深い愛情をくれた人。ずっとずっと大切で愛おしい人。
 気がつけば、大人の姿に戻っていた。すっかり慣れた身体の大きさにどうしてか一気に寒気を覚えた。ここは暗いし寒いし悲しい場所だ。だけど、まだ温かなぬくもりはそこにある。ふと顔を持ち上げてみると、母のような表情を浮かべ真っ白なドレスを着たなまえちゃんがおれを力強く抱きしめていた。その優しさに触れたくて、必死に腕を彼女の体に回す。
 
「…なまえちゃん、」
「サンジくん、泣かないで。大丈夫よ、私たちがいるわ」
 
 もう一度、優しい声が鼓膜に満たされる。泣かないで。そう言われたのに、頬には何度も温かな涙が流れて止まらなかった。
 
 
 
「──え……、」
 
 ふと意識が戻される。ぼんやりとした現実。自分の息遣いと頬に流れる温かなものを感じ、ギョッとした。
 何で泣いてんだ…? むくりと身体を起こし、気だるさを飼い慣らしながら首の裏に手を回す。ぽやぽやした頭で、夢の中での記憶を反芻させるが、悲しいことにほとんど思い出せなかった。胸が苦しくなったこと、なまえがいたこと、自分が小さかったこと。それだけしか思い出せない。どうして泣いたのか、胸が苦しいのか、なまえがいて自分が小さかったのか。何にもそこにが答えが見出せずに首を傾げた。ただ一つ、明確に思い出せるのは場所だった。鉄のにおいに満たされ、ひんやりとした刺々しい空間。あそこは…北の海──国家の──一家の──。
 嫌な記憶が蘇り、じっとりとした汗が額に浮かんだ。なんでこんな夢を今更…。負に向かってしまいそうな思考を慌てて修正する。
 
「なんの夢だったんだ…?」
 
 追憶しても浮上しない答え。キリがないとふみ、サンジはボンクから降り立った。残る6人はいびきをかいて爆睡中だ。壁掛け時計は5時を指している。もう朝の仕込みをしなくては朝食に間に合わない。なんせクルーは10人なのだが、消費量はその3倍はあるのだから。
 
 ボンクの柵にかけていたタオルを手にし、男子部屋の中にある洗面台で顔を洗う。この洗面所はサンジとウソップにフランキー、ブルックしか使っていないため綺麗だ。顔をふわふわなタオルで拭き、次に髪の毛を整える。ブラシで寝癖を梳かし、ワックスで髪の毛を整える。19歳の頃はそのままストレートに流していたが、最近はしっかりセットするようになった。
 髪の毛も終えると、今度はロッカーで着替えを済ませる。うちの野郎たちは己の身だしなみに全く無頓着、そんなことサンジにとってはありえないことだった。料理人として清潔感は欠かせないものだが、それを抜きにしてもだ。だってうちには究極の美女様が三人もいるし、何より気持ちがしゃんとする。
 
 今日は青いシャツに黒いネクタイ。なまえからもらったネクタイピンをつけて、スーツを身に纏うと歯磨きを済ませて外に出る。今日は春島のぽかぽかした春気候だ。
 
「いい天気だなあ
 
 ぐーんと伸びをすると、見張り台から人影がふわりと揺れた。シュラウドをつたって芝生甲板に降り立ったのは、光を湛えた女神だった。
 
「あら、サンジくん。おはよう」
「なまえちゃん…!」
 
 今日はなまえが不寝番だった。今日一番になまえを拝めたなんて…今日はとってもいい日だ。泣いて目覚めたから嫌な日だ、と思ったが。一瞬で塗り替えてくれた唯一の愛を抱く淑女に満面の笑みを向ける。
 
「おはよう、なまえちゃん」
「サンジくんは毎朝早いわね」
「あァ。仕込みをしねェといけねェから」
「お疲れ様、私お手伝いするわ」
「いや、大丈夫だよ。なまえちゃんは優しいなあ
「みんなが起きてくるまで暇だもの。なんでもお手伝いするわよ?」
「なまえちゃんは大変なお仕事を終えた後だ。ゆっくり休んでくれ」
「……ふふ、ありがとう」
 
 この誰よりも優しいコックさんは絶対に手伝わせてくれないわ、となまえは困ったように愛しむように柔らかな笑みを浮かべて頷いた。その了解が嬉しかったのか、サンジは口元をとろけさせたままラウンジへと入っていく。
 なまえもサンジの後を追って踏み入れると、温かな木の温もりが二人を迎えてくれた。これは世にも珍しい“宝樹アダム”というらしい。メリー号の意志も組んだこの船には不思議なあたたかさを湛えているように捉えられるのだ。
 
「なまえちゃん、眠気覚ましにコーヒー淹れようか? それとも、紅茶かオレンジジュースがいいかな?」
「うん…オレンジジュースがいいわ」
「承りまりました、お姫様」
「ありがとう、プリンス。お願いします」
「ええ。さあ、どうぞ」
「まあ、ありがとう
 
 サンジがカウンターの椅子をなまえに向けた。くすりと笑ったなまえが腰を下ろすと、サンジはゆっくり椅子を回転させてなまえをテーブルに向かわせた。
 
「ちょっと待ってね、なまえちゃん。すぐに作るから」
「うん、嬉しいわ。忙しいのにありがとう」
「いえいえ」
 
 ブラッドオレンジとナミのみかんを使った特上ジュースがなまえは大好きだった。ビタミンも豊富で栄養価も高いし、何より美味しい。一から作ってくれるコックさんの愛情に心もほぐれていく。そんなことを考えながら、キッチンに立つサンジを見つめる。腕まくりをして口元に笑みを浮かべているサンジ。本当に料理を愛しているのだと窺えて嬉しくなる。
 
「うふふ」
「ん? なに?」
「サンジくんは本当に素敵な人ね」
「え? どうしたの、急に」
「こんな朝っぱらなのにキラキラ輝いているわ」
「そうかい?」
「うん。サンジくんを見ていると元気になるの」
「おれもだよ、なまえちゃんを見ていると笑顔と元気と愛をもらえるなァ…。あと、温かな……」
 
 温かな光。そう言おうとしたところで、ふと思い出すことがあった。そう、夢でなまえに会ったことだ。どうしてか、泣いていた自分を女神のような慈愛のある光で抱きしめてくれたことを…。
 
「はい、どうぞ。なまえちゃん」
「わあありがとう!」
 
 カウンター越しに受け取って、一口飲むと爽やかな味が口いっぱいに広がった。一気に目が覚めるようだ。ほんの少しうとうとするだけで終わってしまう不寝番の睡眠後の朝は、サンジのジュースに限る。
 
「美味しいわ
「よかった」
「目が覚めるの。とってもありがたいわ」
「そうだね、お疲れ様。なんとも無くてよかったな」
「ふふ、うん」
 
 なまえのジュースを作り終えると、手を洗い野菜の皮を剥きはじめた。サンジはやんわりと口元を弛ませたまま、なまえに続ける。
 
「なまえちゃん。今日ね、」
「うん?」
「キミの夢を見たんだ」
「わあ、本当に? 嬉しいわ、サンジくんの夢にお邪魔したなんて!」
 
 ストローから口を離してにっこりと、本当に嬉しそうに微笑んでくれるなまえが心底愛おしい。心がじわじわほぐれていく。漠然と胸に揺蕩っていたイヤな靄がすうっと消えるようだった。
 
「その内容はもうほとんど忘れちまったんだけどさ。おれが……何故かは分からねェが泣いてたんだ」
「……まあ。悲しいことがあったのかしら?」
 
 しゅんと眉を下げてオレンジジュースのストローをゆっくりかき混ぜるなまえは、夢の話なのに酷く胸を痛め、心配そうにこちらを見つめている。その親身な姿がとても愛おしくて優しくて、またサンジの心をほぐすのだ。
 
「そんな悲しい顔をしないでくれ、なまえちゃん。夢の中の話なんだ」
「でも、夢でもサンジくんが悲しんでいるなんて…とても辛いわ」
「うん、でも肝心の内容がなァ…。確か、おれの身体に異変が起こっちまって…」
「サンジくんの身体に?」
「うん。何だか…そう、化け物になったような夢だったよ」
「化け物…?」
「そんな無茶苦茶な夢の話だよ。だから、そんな顔をしねェでくれ」
「うん」
 
 ハッとして笑顔を見せたなまえにサンジも安堵してキャベツの千切りを作っていく。
 トン、トン、トン──規則正しく包丁の落とされる音が綺麗に静けさの中に響いている。どうしてかしら。サンジくんと一緒にいるとこんなにも心が落ち着くのは。彼がそれはもう度を超えるほどの優しさを持っているからかしら。
 
「──でも、」
「ん?」
「たとえ、サンジくんが化け物になったってサンジくんはサンジくんだわ。化け物なんかじゃない。どんな姿になったって、あなたは誰よりも愛を持っている気高きサンジくんよ」
「え……、」
「私はどんな姿になっても、あなたを愛するわ。これはね、仲間としてじゃなく本当にサンジくんとして見て言っているの」
「……」
 
 胸の奥の霧がふわりと晴れていく。お世辞でも綺麗事でもなんでもない、真っ直ぐな本心から生まれた言葉。何があってもサンジくんはサンジくん。どんな姿になってもあなたを愛するわ。その言葉がどうしてか、ものすごく嬉しかった。別に化け物になったわけではない。だけれど、ゆらゆら揺れている真っ黒な部分に光が差した、そんな気がした。気を緩めたら涙が出そうだ。
 
「……ありがとう、なまえちゃん。おれも…そんなキミだからなまえちゃんに惚れたんだよ」
「えへへ、嬉しい」
 
 頬にピンクを乗せてにっこりと微笑むなまえには一切の邪気がなく、とても無垢で美しくて胸をぎゅうっと締め付けられる。本当に、女神みたいだ。この愛に抱かれる日が来るなんて…。過去の自分に伝えてあげたくなった。
「お前、辛いことしか経験してねェよな。だけど、きっといつか素敵な仲間と女神の光に包まれるから…」と。
 
 
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「…なまえちゃん……、」
 
 辺りでは人々の騒がしい声、銃声、金属のぶつかる音、煙たいにおい、血のにおい。その全てが漂っている。臙脂色のスーツを身にまとったサンジは全身創痍しつつも、敵のクイーンと向き合っていた。身体の異変を感じたとき、あの日に見た夢を思い出したのだ。
 
 怪物…化け物になってしまった自分…。受け入れられないこの異変。吐き気のする嫌悪。
 イヤだ…いやだ…! あんな怪物になるのは…!
 お母さん、おれはあなたの美しい心を──。助けてくれ、こんな現実受け入れられるはずがない。なまえちゃん…、なまえ…ちゃん?
 ふと、思い出したのはなまえの言葉だった。
 
 『たとえ、サンジくんが化け物になったってサンジくんはサンジくんだわ。化け物なんかじゃない。どんな姿になったって、あなたは誰よりも愛を持っている気高きサンジくんよ』
 
「…なまえちゃん」
 
 四皇を相手にした、生と死を酷く感じるこれまでにない究極の闘い。彼女は今どこで誰と対峙しているだろう。無事でいるだろうか。
 この心はいずれ兄たちのように冷えゆくのだろうか……。
 この悪夢を断ち切ったあと、あの愛の溢れる女神を抱きしめて、抱きしめられたいと心から願った。そうしたらきっと、強ばった心も雪が溶けて動いてくれるから──。
 
 
 END. 21.10.19

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