一つ、春星口ずさめば

 灯りも何もない大海原にぷかりと浮かぶ羊船。
 ほんの少しの肌寒さと、満天に煌めいている星空が空気が澄んでいることを教えてくれる。なまえには両親と過ごした幼少期の記憶がほんの僅かしかないのだが、生まれ育った場所は、わずかな肌寒さや東風を孕んだ美しい春の気候の土地だったと、孤児院のシスターさんから聞いていた。記憶がないのも、事故にあったせいだとも──。
 
 だから、なまえは淡雪が降りそうな春島の空気と気候が一番好きだった。
「もうすぐ春ね」なんてこぼすが、ここは偉大なる航路 (グランドライン )。女心と秋の空如く、早変わりする海なためにいつまで続くか、優秀な航海士でさえも予測不可能だ。
 
「今日が不寝番でラッキーだったわ」
 
 柔らかな毛布に包まりながら、ホットコーヒーに手を伸ばす。
 深夜だから…とサンジが配慮してくれたミルクたっぷり入ったもの。優しいコックさんの些細な気遣いはなまえの心をも温かくほぐすのだ。
 
「素敵なお供もあることだし、絵の続きを描いちゃいましょう」
 
 女部屋から持ってきていたスケッチブックを開いて、描きかけだったレッドラインと水門のぺージを開く。まだ鉛筆で下書きをささっと残しただけのもの。その上からペンで大まかに形を取っていく。
 集中して続けていたら、ふとラウンジのドアが音を立てて開き、なまえはハッと顔を上げた。時計を見てみればまだ二時を回った頃。思ったより時間経過はしていなく、ほっと安堵のため息をついた。
 
「誰かしら?」
 
 スケッチブックとペンを置いて、なまえはひょこっと顔を覗かせてみる。ラウンジの小窓からはあたたかなオレンジが漏れて、すう…と人影がのびた。影だけではその人物が誰なのかは把握できない。
 
「もしかして、ルフィちゃんじゃないかしら?」
 
 ふと頭に浮かぶのは、ほぼ毎夜夢遊病のように徘徊をはじめて冷蔵庫のものを勝手に食すルフィのこと。サンジが随分とご立腹で、巨大ネズミ取りを仕掛けたり、ナミに鍵付き冷蔵庫を強請ったりしているのをなまえももちろん知っている。
 
「サンジくんは毎朝早起きして私たちのご飯を用意してくれるんだもの。彼の貴重な睡眠時間の妨害はさせないわ」
 
 柳眉を寄せて、さっと立ち上がる。
 これも、不寝番の立派な仕事だわ! 私がルフィちゃんを退治しなくっちゃ!
 年頃の男の子だとは言え、そんな言葉では済まないほどの食欲を持つ船長。あの食欲は、どこから涌いて出るのかしら?
 なんて、懐疑を抱きながらなまえはするりとシュラウドを使って甲板に降り立ち、ラウンジの扉を勢いよく開けた。
 
「こ〜ら、ルフィちゃん! 盗み食いはダメよ!」
「え?」
 
 むっすり、頬を膨らませながら冷蔵庫に目を輝かせると、視界に飛び込んできたのは船長の姿ではなかった。突然、そう声を向けられた“彼”もまさかなまえに怒鳴られるとは思ってもいなかったみたいで、作業の手を止めて、薄いブルーの瞳をくるりと回した。
 
「え、あら…サンジくん?」
「なまえちゅわん
 
 この神聖なるキッチンの守護神であるサンジは、一瞬だけ驚いて見せたが次の瞬間にはすぐにいつもの調子で甘い声をあげて、なまえにハートを振りまいた。
 
「ごめんなさい、サンジくんだったなんて…! 私、てっきりルフィちゃんだと──」
「お美しいなまえちゃんに怒られて幸せだァ!」
「もう、サンジくんったら……」
 
 何にも悪いことをしてないのに、急に怒られたことに対してムッとするのではなく逆にくねくね体を踊らせて、それをご褒美だと受け取るのだから。なまえも困ったように眉を曲げて、ずり落ちたカーディガンを肩にかけ直す。
 
「サンジくんって、いつか悪い女の子にいいようにされちゃいそうで不安だわ」
「レディになら何されたって構わねェ!」
「……はあ、」
「特になまえ様のような絶世の美女にならもう好きにされてェなァ〜!」
 
 安易に想像つく姿に、なまえも深くため息をついてラウンジの中に足を踏み入れた。
 ゆっくりドアを閉めて、キッチンの前に立っているサンジの元へと赴く。仄暗い外とは一変して、ラウンジの中は暖色を帯びていて暖かい。
 それは、角灯だけのものではなく、サンジが放っているようになまえは感じるのだ。全てを包み込むような、優しくて温かな空気。彼が作る料理によく似ている。
 
「サンジくん。もう朝ごはんの仕込み?」
 
 ひょっこりと顔を覗かせると、サンジはとろけた笑顔でふたつのグラスに丁寧にドリンクを注いでいるのが窺えた。トクトクと注がれる液体はすっきりとした美しいブルー。ふわりと鼻腔をくすぐるのは、柑橘系ようなフレッシュな香り。
 
「お酒?」
「うん。なまえちゃん、お酒強いよね」
「ええ。強い方なの」
「なら、明日に残らねェはず」
「これ、私に作ってくれているの?」
「もっちろんです! なまえちゃん、不寝番だろ? だから、何か差し入れしてェな。って思ってな」
 
 綺麗なグラスになみなみ注がれたブルー色のカクテルの上に、贅沢に金粉を散らしていく。そして、数的ローズシロップを。
 手際いよく仕上げていくサンジを、なまえは目を大きく見開かせて見つめていた。だって、不寝番は誰にでも平等に回ってくる当番だ。海賊として、この船に乗る一クルーとして、それはもうなまえの中では当然のものになっている。その上、サンジはこの船のコックさん。毎朝早朝に目を覚まし、みんなのためにバランスのいい朝食を作ってくれている。だからサンジにとって睡眠時間というものは、とても貴重なものであるはずなのに。なのに──。
 
「はい、なまえちゃ……えッ!? アリエラちゃん!?」
「んん…」
 
 爽やかな優しい笑顔でカクテルを手渡そうと、くるりと顔を向けたサンジだったが、隣にちょこんと立っていたなまえは何故か瞳をうるうる潤わせてギュッと唇を噛んでいる。
 え、ええ!? 何で泣きそうなんだ!? いやでも、なまえ様の泣き顔……クッソ可愛い!! って違ェくねェけど違ェだろ!
 ぷるぷる震えている小さな彼女が愛しくって可愛くって、でも何故泣きそうなのかはさっぱりで。でも可愛くて。サンジの心情は大忙しだ。
 
「え、すまねェなまえちゃん! 泣いてるなまえちゃんクソ可愛い……! じゃなくて、おれなんかしちまったかな?」
「さ、さんじくん……なんて優しいの、貴方は」
「え?」
「貴重な睡眠時間を削ってまで…私のことを想ってこんな、こんなにも素敵な差し入れを…」
「や、待ってなまえちゃん。いやほんとクソ可愛くてぶっ倒れいまいそうだが、泣かないでくれ」
「……ふふっ、さっきから心の声が漏れてるわよ、サンジくん」
「なまえちゃんが麗しすぎてつい……」
 
 水分を含んだ瞳はより煌めいて美しく青く輝いている。それはまるで海のように大きくて、燦々としたもの。金色のたっぷりとしたまつげも微かに濡れていて、つい見惚れてしまいそうになったが、なんとかセーブをかけて心を平常心に保たせる。
 
「ごめんなさい。困らせちゃったわね、でもサンジくんがあまりにも優しすぎて…」
「ああっ、そうやっておれのために涙を流してくれるなまえちゃんも、素敵だ」
「サンジくんも。とびっきり素敵な殿方よ、ありがとう」
「いやァ〜〜もうっ、なまえちゃんのためなら喜んで!」
 
 彼の手からグラスを受け取る。
 鮮やかな青に散りばめられた金粉は、さっき見上げた星空のようだった。
「いただきます」と呟いて、そっと口に含む。その姿をサンジは愛しそうに目を細めて見つめていた。
 やっぱり、動作の全てに気品があって…食べ方や飲み方が綺麗だ。まるで、絵画を見ているよな優雅な美がそこに存在している。この雰囲気や身性はそう簡単に身につくものではない。この子は、心からの…芯からの美を見つけて身につけ、自分のものにしたんだと。そう心から感じるのだ。気高いレディだと、心底思う。
 
「美味しい〜! これ、とっても美味しいわ、サンジくん!」
「お気に召したようで、何よりです。プリンセス」
「うん、と〜っても! ご馳走ありがとう、プリンス」
 
 最近、なまえへの意識が変わりつつあるのを感じていた。
 最初は「類稀なる美貌を持つ絶世の美女ちゃん」だと、そう感じてはいたがそれまでだった。彼女と過ごすたびに徐々に知れていく、その品格と内面的な美しさ。彼女を包み込んでいる…いや、内側から放たれそうして全体を包み込んでいる光。そこに強く強く惹かれていくのだ。
 わざとらしくなく、素直に心から美しい言葉を紡いでくれる彼女。「サンジくんの料理は温かいわ」「サンジくんって、とっても強い心を持っているのね。あなたの目を見ていると、それを強く感じるの」惜しみなく愛と光を降り注いでくれる彼女。胸底に微かに沈んでいる、深い深い哀を溶かしてくれるような、眩いもの。
 
「やっぱり、サンジくんの作るものってとてつもない愛を感じるわ。サンジくんは本当に料理を…食材を愛しているのね」
「同じようになまえちゃんも……」
 
 続きを言えなくて、ぷつりと噤んだ言葉。
 やっぱりそうだ。なまえにたいしての意識が──。
 レディはみんな大好きだ。この世のレディを平等に愛するという信条だって強く持っている。だけど、だけど。あの自然と出てしまうメロリンな自分を出せなくなってしまう時があるのだ、それは本気故なのか。
 
「私も愛してくれているの?」
 
 この小悪魔は、グラスに口をつけながらくすりと笑っている。
 クソ〜〜っ。可愛いけど、クッソ可愛いけど! 何も言い返せねェ自分に腹が立つ。
 ゾロの気持ちが痛いほどによく分かる。悔しいが、おれもあの剣士同様にこの光に満ちた女神に心を奪われちまった見てェだ。
 
「……なまえちゃんには、まだ言えねェ」
「まあ。ふふ、じゃあ愛してるって言っていただける日を楽しみに待っているわ」
 
 また冗談めいてそう返すものだから、サンジはほとほと眉を下げて笑って見せる。
 ふと剣士の顔を脳内にチラつかせ、お前も大変だったんだなァ。なんてライバルであるのに同情の念を送らずにはいられなかった。
 
 
 END.

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