3、夏に滲む

わたしは彼へのプレゼントを持って町に出た。
水色のトートバッグの中でかさりと袋が音を立てる。彼が一体いつこっちにやってくるのかわからないため、わたしはあの日からちょうど二週間である今日彼を探すことにした。
通っていた学校では土日が休みだったけど、のんびりしたこの島には特定の休日は存在しない。休みたい時に休み、働きたい時に働く。島全体が家族みたいなもので、定休日にでも必要なものを売買することも可能だから、島民は誰も定休日に対して文句を言ったことはない。ただ生活のリズムを崩さないため、うちの雑貨屋は毎週日曜日をおやすみにしていた。

今日はその前日の土曜日。金髪のおじ様、サンジさんに出会った日。
曜日に無頓着なこの島で彼が土曜日にまた訪れてくれるという保証はないけれど、わたしは出会えなかったら諦めて帰るつもりでしばらく街の中央部にある花時計と噴水の広場のベンチに腰掛けて待つことにした。

今日も変わらず夏日だけど、この島は湿気がないためにとても快適な夏を過ご過ごすことができる。さらりとした心地の良い風が、本を開いたわたしの髪をすっと攫った。シャンプーのにおいの中に、たばこの匂いもふわりと香る。この前の、彼に会ったときの感じ。思わず本を閉じてハッと顔を持ち上げると、笑顔を浮かべてこちらに向かってきている彼が瞳に映った。

前と変わらない白いシャツ。褪せた金髪、三つ編みにされた長いお髭。
この前と違うのは、口にたばこを引っ掛けてるところ。たばこの匂いが彼に染み付いていたから相当なヘビースモーカーなのだと思っていたけれど、実際に見てみると白いたばこが彼によく似合っていて、胸がどきりと音を立てた。

「こんにちは、レディー」
「こんにちは」

わたしは思わず立ち上がった。かぶっていた白い帽子を脱いでぺこりと会釈すると、サンジさんもにっこり笑って小さく返してくれた。

「足はもう大丈夫かい?」
「ええ。おかげさまでもうすっかり良くなりました」
「ああよかった。あれからずっと気がかりでね。きみの様子を見に行こうかと何度か悩んだんだが、見知らぬジジイに何度も訪ねられちゃ気味が悪ィかなって思ってな」
「そんな、気味が悪いだなんてまったく思わないわ。わたしも、わたしのママも」

彼はわたしを座るように言った。その言葉を押しのけるようにわたしは立ったまま反論したからか、彼は驚いた顔をして、それからどんどん花が開いたみたいに笑顔を広げていった。

「ありがとう。こんな美しいお嬢さんに、お世辞でもそう言ってもらえると嬉しいよ」
「お世辞なんかじゃありません」
「うん、ありがとう。隣、座ってもいいかな?」
「ええ」
「それじゃ遠慮なく」

わたしの隣に彼は腰を下ろす。
吸っていたたばこを潰そうとしたため、わたしは首を振って阻止をした。すこしためらった彼は、結局わたしの前ではたばこを吸わなかった。

「リリィちゃん、で合ってるかな?」
「ええ。あなたはサンジさん」
「おれの名前、覚えてくれたんだ。嬉しいなあ」
「とっても素敵なお名前だったから。どうしてか、胸に響いたんです」
「そんなこと初めて言われたよ」

ちらりと彼を見やれば、サンジさんはすこし照れ臭そうに笑った。
年を重ねた大人でも、こんなお顔をすることがあるんだってわたしはそこに感心してしまった。けれど、彼はすぐにあの甘ったるい笑みを浮かべて低く声を紡ぐ。

「きみの方がずっと綺麗な名前だよ」
「そうかしら」
「手紙にも書いたけど、とってもかわいいきみによく似合っている美しい名だ」
「……ん、」

こんなふうにわたしは甘い言葉をもらったことがないから、ぽっと赤くなってしまう。
ずっとずっと歳上の、きっと生きていたら今の歳のパパよりももっと上の彼の言葉がどうしてかわたしの心をくすぐって落ち着かなくなってしまう。 

「おれの……ああ、いや」
「……?」
「ううん、何でもねェよ。リリィちゃん、今日はお仕事は?」

一瞬何かを言い淀んだサンジさんだけど、誤魔化すように首を振ったからわたしは深く訊ねずに頷いた。

「母に任せてきました。今日はわたしが担当している発注や品出しもなくて、お店も暇なんです」
「そっか。おれも、午後まで暇なんだ。よかったらおしゃべりしよっか」

どうしてか、この人のいう“おしゃべり”にとてつもない色気を感じて、わたしの胸がざわついた。甘くてすこし掠れてて、響きのある声。聞いたことのあるこの低い声は遠い遠い昔の記憶をくすぐるような何かを感じる。それは、もう亡くなった父のことを思い出しているのかもしれない。
わたしがゆっくり頷くと、サンジさんは嬉しそうに微笑んだ。

「サンジさんは離島に住んでらっしゃるの?」
「うん、端の方にね。ここはいい島だよ。もう向こうの離島に行けば世界中の魚が釣れる海があるからね」
「魚……お魚がお好きなんですか?」
「リリィちゃん。敬語はいらねェよ」
「敬語」

突然、そう言われてわたしはすこしたじろいだ。ずっと年上の男性とお話しているから緊張して頭が回っていないのか、すぐにその言葉が飲み込めないでいると、サンジさんは笑顔をたやさずに続ける。

「うん。普通にお話してェなあって」
「でも……あなたは年上だわ」
「はは、おれが言ってるんだ。そこは気にしねェでくれよ。リリィちゃんともっと仲良くなりてェんだ」

この人はなんて綺麗に笑うのだろう。わたしはまた彼のそのお顔に見惚れてしまう。
とてつもない色気を持っている人。眉毛がくるりとしているのはとても可愛いけど、お顔の造形もとても綺麗で、若い頃はすっごくモテたんだろうなあ。とぼんやり考えていると、サンジさんは不思議そうに表情を変えたからわたしは慌てて取り繕った。

「え、ええ。では……えっと、敬語はなし、で?」
「あは。リリィちゃんは可愛いなァ。うん、敬語はなしで、な」
「うん」

やっぱり、年上の彼に敬語を外すのは変な居心地の悪さを感じるけど、でも嬉しそうに頷いたから胸の奥がぽっと何かが宿ったようなあったかさを感じる。
かわいいって、言われたのがまだ慣れなくて心がソワソワしてしまう。きっとおじいちゃんよりすこし若いくらいの人なのに。あ、そうね。そうよ。彼はきっと子供に接するような意味で使ったんだわ。でも、口説き慣れているのかしら?とやっぱりそれを感じさせる色気を持っている彼にちらりと視線をうつすと、撓められた青い瞳がより柔らかな線を見せた。

「リリィちゃん、お腹空いてないかい?」
「お昼ご飯まだだから、すこし」
「おれも小腹が空いててね。リリィちゃんが苦手じゃねェならあれ、食べようか」

そう彼が指を差すのは花時計付近のアイスクリームスタンド。
甘いミルクの、濃厚さのあるそれを売りにしているここのソフトクリームは子供の頃から大好きだった。だから、そのお誘いにわたしは思わず目を輝かせて頷いた。

「うん、アイス食べたい」
「ん、よかった」

じゃあおれ買ってくるねってサンジさんが席を立つ。
すこし先の方にあるアイスクリームスタンドの前に立つサンジさんは、やっぱりとても若々しさを感じる人だった。背も高くて体もがっちりしてて、あの背中に抱きついたら──。なぜかそんな思考に傾いてわたしはハッとする。

いくらわたしが女で彼が男で、性別が逆だとはいえ、セクハラなのは間違いないわ。

慌ててその考えを飛ばして、わたしは彼の帰りを待つ。
くるりとこちらを振り返るサンジさんにまたどきりと胸がうわずる。どうしてかこの光景を知っているような気がして、おかしな錯覚を覚えたけれど、彼の優しい低音に導かれてその意識はすっかり頭を隠してしまった。

「お待たせ、リリィちゃん」
「わ、ありがとうございます」
「どういたしまして。はい、どうぞ」
「あ、お金払うわ。400ベリー」
「さすがこの街のお嬢さん。値段覚えているんだ」
「ええ。わたし、ここのソフトクリームが大好きで何度も食べてきたの」

わたしに一本ソフトクリームを差し出して、サンジさんはそれからよいせと腰を下ろす。
受け取ったまま、わたしがバッグに手を伸ばそうとすると、サンジさんはそっとやさしく制した。

「リリィちゃん、受け取れねェよ」
「でも」
「老人のおしゃべりに付き合ってもらうんだ。だから、ね? ここはご馳走させてくれよ」
「……はい」
「いい子」

いい子、だなんて久しぶりに言われてどこか懐かしい気持ちになったけど、彼にとってわたしはやっぱり子供なのかしら。と変に拗ねてしまいそうになる。
お言葉に甘えてお財布をしまい、一口クリームの山を含むと口内いっぱいにひんやり冷たい甘さが広がって思わず声がこぼれてしまう。何年も変わらない味にほっこりしていると、サンジさんも美味しそうに低く声を振るわせてわたしも何だかほっとした。

「美味しいね、ここのソフトクリーム」
「ええ、とっても。ここの島の奥には牧場があって、そこで取れたミルクを使用しているの」
「へえ。愛情たっぷりに育てられてるのがよーくわかるな。おれそこで卵を買ったことがあってね、すっごく美味くて虜になっちまいそうだよ」
「ふふ、とってもわかります。わたしも卵や牛乳が恋しくてたまらなかったの」
「女学生の時?」
「ええ」
「そっか。リリィちゃんのお気に入りってなるとますますおれも食いたくなってくるよ。あとで買って帰ろか。この島一の美女のおすすめだもんなあ」
「こ、この島一の、美女、!?」
「うん。リリィちゃんクソ可愛いよ」

半分になったソフトクリームに口を寄せながら言うサンジさんはまたそんなことを言うから、わたしの顔はまたたちまち赤くなっていく。それを見て、「お、かァわいい」って甘く歌うように言うから思わずわたしはうめいてしまいそうになる。

「サンジさん、わたしをからかっているでしょう?」
「まさか。おれは本心でしか話してねェよ」
「う、うそだわ」
「あはは。本当だって。こんなジジイが口説いてるなんて気味悪がられるだろうがな」
「そんなことないわ。サンジさんとびきりかっこいいもの」

自傷みたいに言うサンジさんに何だか切ない気持ちになってわたしは真剣な面持ちで思わず口に出してしまった。ばちっと目があったサンジさんは、そのわたしの言葉にとても驚いたみたいだけど、どこか照れたように目尻に皺を寄せた。

「まいったなァ。こんな美しく純粋なレディーに言われちまうと照れちゃうよ」
「わたしも、本心でしか話していないわ」
「うん。すっげェ嬉しいよ。ありがとうな」
「ん……」

今度はわたしが照れ臭くなってしまって、ぺろりと残りのソフトクリームを黙って食べ続ける。サンジさんも、くすぐったいような笑い声をこぼしてから完食した。

「ごめんなさい、食べるのが遅くって」
「ううん。ゆっくり食べな」

わたしが食べ進めるのを、サンジさんはやさしく見守ってくれている。
最初はその視線にドキドキしたけれど、不思議とすぐに安堵を覚えて、すこしお話をしながらわたしも完食をする。

「ごちそうさまでした、サンジさん。とっても美味しかったわ」
「それはよかった。おれも、きみとお喋りしながら食うソフトクリームは絶品だったよ」

噴水付近にある時計を見てみれば、もう13時を過ぎようとしていた。
母と店番を代わる時間まであと30分だからそろそろ帰って支度をしなければならない。

「あ、ごめんなさい。もう時間だわ」
「お、奇遇だね。おれも予定の時間が近づいてきたよ」
「サンジさん」
「ん? なあに」
「わたし、お礼がしたくてあなたを探していたの。お口に合わないかもしれないけど……わたしが焼いたクッキーとお手紙。小さなお礼しかできなくてごめんなさい」
「え、いいのかい? こんな素敵なプレゼントをもらって」

きょとりとサンジさんはたれ目を丸くして、それからほんわりとした笑顔を見せてくれた。
わたしが見ても、そこにお世辞なんてないと感じる温かな笑顔。まるで少年のようにきらりとした表情でサンジさんはわたしが渡した袋を受け取ると、大切そうに手に下げた。

「ありがとう、リリィちゃん。大切に食べるね」
「本当に大したものじゃないけど、お口にあったら嬉しいわ」
「すっげェ楽しみだよ。ありがとうね」

彼の大きな手のひらが一瞬わたしの髪をさらった。
ふわりと香るのはたばこに混じった甘く胸をくすぐるような微かな香水のにおい。ぎゅっと目を瞑ってしまったから、嗅覚はダイレクトに彼を感じ取って、耳が熱をもったように熱くなる。

「それじゃあリリィちゃん、またね」
「はい、また」

短い会話を交わしてからわたし達は別れを告げて反対の道へと進んでいく。
またってことはもう一度彼とこうして話す機会があるのかしら。クッキー渡せたけどお口に合うかしら……。ソフトクリームを一緒に食べて、たくさんお話して、それから髪の毛を──。

彼が触れてくれた束に指を添えてみる。一瞬の出来事だからそんなことありえないのに。まだそこに彼の熱とたばこと香水の匂いがじんわりと残っているような、気がした。