1、はじまり

はじめて彼に出会った時、一筋の風が吹き抜けていったことをよくおぼえている。
ほんのりと、そこにたばこの匂いが混じっていた。真夏の、肌を突き刺すような日差しの降り注ぐ光の中でのことだった。

「怪我はありませんか? お嬢さん」

すこしがらついている低い声。けれど、穏やかで品があって、そして何より甘美な響きのある声が鼓膜を揺らした。とても美しい音だと思った。
だから、最初その声が自分に向けられているものとは思わなくて、返事ができなかった。

「大丈夫かい?」

さっきよりもより柔らかな音色が届いて、その声がようやくわたしに向けられたものだとわかった。わたしの顔を覗き込むのは、すこし垂れた眦。その真ん中で青い瞳が宝石のように光ってわたしをどこか不安そうに見つめている。
すっと差し出されている手は分厚くて使い込まれている感じがするのにとても綺麗。どうしてこの人はわたしに手を向けているのかしら、と不思議に思ったが、意識がふと現実に戻された途端、ズキズキとおしりに痛みが走っているのを感じた。

「あ……」

そうだ。さっき、氷の水溜りの上を歩いて転んだのだ。
今はもう夏の気候に戻っているけれど、ここは偉大なる航路の後半に位置する夏島。真夏の季節には稀に冬雲がこの島にも流れてきて、こうして突如島の空気が凍ってしまうことがある。

「す、すみません。ありがとうございます」
「どこか痛むところは?」
「ええ、ありません」
「そっか。よかった」

彼の大きな手にそっと掴まると、見た目以上に大きいことが肌に触れた感触で分かった。
力のかからない、やさしい手取りですいっと体を持ち上げられて、わたしは再び地に足をつけた。彼はしっかり立つわたしを見て、ほっと安堵したようにため息をこぼした。
太陽の光に照らされた、褪せている金髪がまぶしい。顎のお髭は長く、綺麗な三つ編みにされている。白いシャツに隠された肉体には相当な筋肉量がうかがえて、背もわたしよりもぐんと高い。全体的に若々しさのある人だけど、でもお顔にはしっかりと皺があって、響きのある声は歳を重ねた深みがある。彼は初老のようだった。

「ごめんなさい。うっかりしていたもので」
「いいえ、お嬢さんが無事で何よりだ」

母におつかいを頼まれた、その帰り。
ここはとても小さな島。一周するのに1時間半で済んでしまうほどに。ぎゅっと凝縮された町はどこも近所で、わたしと母で営んでいる雑貨屋兼家からはどこでも自転車で行けてしまう。今日はお店のお金の両替のために銀行と、そして母と一緒に食べるサンドウィッチをパン屋さんで買って、帰路についている時だった。
お金を下げたポシェットは無事だけど、パンは……。視線を這わせると、金髪の男性が「ああ」と低く声を出した。

「濡れてしまいそうだったから」
「わ、ごめんなさい!ありがとうございます、お昼ごはんだったので助かりました」

彼らから紙袋を受け取って、わたしはぺこりと頭を下げる。
とんでもねェよ。と笑う彼の色気にぽ〜っと見惚れてしまいそうになった。わたしよりもずっとずっと年上の人なのに。胸がすこしあつい。

「本当に助かりました。それでは」

このまま彼と向き直っていたら、なんだか変な感じになりそうだったから、もう一度頭を下げるとくるりと彼に背を向けて、一歩踏み出したところ、足首にずきりと痛みが走った。
キーンと響くような痛みに小さく声が漏れてしまう。足を挫いちゃったみたい。おろしたての、ヒールの高いパンプスが仇となったらしい。お店を出る前はご機嫌に音を鳴らしていたのに。
このまま靴を脱いで、おうちに向かおうとした時。

「ひゃっ、」

体が宙に浮く感覚に無意識に変な声が出た。いつもよりも視界が高い。たばこの匂いがする。さっきまで見惚れていた顔が、近くにある。

「ええっ!」
「足、挫いたみたいだね」
「あ、あのっえっと大丈夫です! 挫いてないので、歩けます!」
「あはは、遠慮しねェの。このまま歩いて帰るとより酷くなっちゃうよ」
「でも……」
「大丈夫。おれは確かに歳食ったジジイだが体力はガキにも負けねェくらいだよ。ここはおれに甘えて、おうちに帰ろうな」
「はい、」

そう言われてはもう反論はできないで、わたしは大人しく彼に体を預けることにした。
清潔感のある白いシャツからは、たばこの匂いがする。それがひどく落ち着いて、出会ったばかりのおじ様の胸の中なのに、寝てしまいそうになった。

「重くないですか?」
「きみが? まさか」

驚いたように目を丸めたおじ様は、どこか子供みたいに見えた。
わたしと何歳差なんだろう。いきなり歳を聞くのは失礼よね。そう思案しながら、わたしは彼の肩に頭をつける。お姫様抱っこをされるなんてはじめて。
肩もがっしりしててとても心地が良かった。思わず目を瞑った時、はっとする。

「ごめんなさい、案内を忘れていたわ。わたしの家は」
「うん、知っているよ。雑貨屋のお嬢さんだ」
「え……、」
「前にちらっと見かけてね。とびきり美しい子だったから、よ〜く憶えているよ」
「う、美しい……」
「こんな美しいお嬢さんがいるなら憶えているに決まってるんだが、きみのお顔は先日はじめて見たよ。最近この島に越してきたのかい?」
「いいえ、元々ここの生まれです。雑貨屋を営んでいるのはわたしの母で、わたしは10年ほど外に出ていたんです」
「ああ。学校かい?」
「ええ」

この島には、ここよりもずっと南東にある島にある10年生の学校に通う風習がある。もちろん全員ではないけれど、この小さな島には同年代の子供が少なく、同世代の人と関わりを持つため、集団行動を学ぶために通う意味合いの方が、お勉強よりも強い。
そこでわたしはたくさんの友達を作り、たくさんのことを学んで帰ってきた。
そういえば、と思う。ここは観光地でもあるけれど、住民は全員ほとんど知っている人ばかり。なのに、このおじ様は初めて見る気がする。わたしこそ、こんなにも色っぽいおじ様がいたばら必ず憶えているはずなのに。
どうしてか、彼に質問をするのが怖い気がする。舌に言葉を乗せると、感じ取って欲しくない気持ちが彼に届いてしまいそうな気がして、何も聞けなかった。

「さあ、着いたよ」

真っ白の建物の中に彼は踏み入れた。ひんやりとした室内の風が気持ちいい。
どこに下ろしたらいいかな。そう迷っている彼にお礼を言おうとした時、奥から母が出てきた。

「いらっしゃ……えっ、リリィどうしたの?」
「帰り道、転んじゃって……」
「安静にしてないとダメだよ」

そう言いながら、彼はわたしをお店の奥にある椅子へと下ろしてくれた。お礼を言う前に、彼は母に何かを告げてすぐに出ていってしまった。

「リリィ、よかったわね。親切な方が運んでくれて。お医者さんを呼びにいってくださったわ」
「ママ、あの人また戻ってくるかしら。わたし、お礼を言いそびれちゃった」
「急いでいたみたいよ。また今度、会ったときにしっかりお礼しなくちゃね」
「そう……。はじめて見る方だったわ。うちの雑貨屋を知ってたからこっちに越してきた方?」
「ええ、花の離島にね。ここにもたまに来てくれるからきっとまたすぐ会えるわ」
「離島に?」

この雑貨屋の上の階はわたしと母のおうちになっている。その三階のわたしの部屋からは、あの花の離島がよく見えるのだ。この雑貨屋から少し歩いた先から出ている遊覧船に乗って、5分もかからないくらいの距離。花の離島はその名の通り、花に満ちた小島で、住人も数えられるほどしかいない。その、ひっそりとした陸に彼は住んでいる、らしい。

やはり、お医者さんがやってきても隣に彼の姿はなかった。
全治二週間。わたしはそう告げられた。
名前も知らない、初老の男性にどうしてこんなにも惹かれているのかわからないけれど、わたしはもう一度彼に会える口実ができたことがどうしようもなく嬉しかった。