純潔レインリリー


 なまえはお気に入りのコスメブランドのリップとマスカラの新作を受け取るため、大学終わりご機嫌に電車に揺られていた。新作コスメをこんなにも待ち望んでいたのははじめてで、何だか心がそわそわする。
 歳の離れたサンジと付き合い始めてからよりお化粧が楽しくなったのは、彼が些細な変化にもよく気づき、砂糖菓子のような甘ったるいことばで褒めてくれるからだろう。

 お気に入りのプレイリストを聴きながら降り立った新宿は、つんと雨の匂いがした。
 まさか、雨が降るのかな? ふと見上げた空は雲は多いけれど、所々に澄んだ青を望めて、気のせいかなあ。と思い直し、なまえは目当ての百貨店に足を向けた。

 予約していた旨を告げ、商品を手にするとなまえはさらにご機嫌になってるんたるんたと今度は上階にあるカフェに向かっていく。ロイヤルミルクティーを注文して、半分飲んだところで突然胸がキュルンとうわずった。

「そうだ、今日サンジさん帰ってくるの早いんだった」

 今朝、今日は夕方には上がれそうだから。と言って、キスをしてくれたことを思い出す。甘くて、くらくらしてしまう彼のキスに意識が向いちゃって曖昧に頷いたけれど、そうだそうだわ。
 思い出すと途端に嬉しくなって、ここが公共の場だというのににんまりと口角を持ち上げてしまう。これは自然現象で下げようと思っても下げれないから、もうスマホで顔を隠す作戦で諦めてしまおう。

 サンジさんが帰ってくるの早いなら、わたしももう帰っちゃお
 残り半分の紅茶を飲み干してお会計を済ませたところ。カフェの前を歩くお客さんたちが手に傘を持っていることに気がついて、ぱちりと目を丸める。
 ──え、もしかして雨が降っているの?
 不安を抱きながら早足でビルから抜け出すと、さっきの雰囲気とは代わり、空は鉛色で言葉通りバケツをひっくり返したような土砂降りに見舞われていた。

「ええ、うそ……」

 突然の大雨に人々はかばんや自分の腕で頭を覆ったり、友達や恋人が差し出した傘の中にお邪魔したり、屋根の下に飛び込んだりしている。女子高生たちはこんな状況でも楽しそうにきゃあきゃあ声をあげていて、なまえもつられてふふっと笑みを描いてしまうけれど、この状況をどうやってくぐり抜けようか悩みものだ。
 傘を買うのもいいけれど、ここのところ予想外の出費が重なっているからできれば遠慮したい。かといって、愛おしい人を迎える時ずぶ濡れの自分では嫌だし。雨宿りするにも、この雨が上がる頃にはきっとサンジは帰宅しているだろうし。

「……はあ、傘買っちゃお

 もう、またビニール傘が増えちゃうなあ。と空とおなじどんより色のため息をついて、駅ビルの中に引き返そうとした時、すっと大きな影が横で伸びた。
 ふわりと鼻をくすぐるのは、どうしてか安堵するたばこの匂い。愛おしい人の匂い。わ、好きすぎてついに幻嗅まで。とおもったその瞬間、

「美しいお嬢さん、よろしければ私の傘に入っていきませんか?」
「え…、…!!」

 柔らかな低音に耳がきゅんとくすぐられて、ふ、と声のした方向に目を向けると大きな黒い傘の下で緩くウェーブがかった金色がふわりと揺れた。今日は黒縁の眼鏡をかけていて、その下で綺麗な瞳がふわりと弧を描いた。

「さ…っ、」
「やあ、なまえちゃん」
「サンジさ…っ、えっ……はっ、夢…??」
「ん?夢じゃねェよ。ほら、触ってごらん」
「ん……サンジさんだあ…、!」
「あははっ、なまえは相変わらずかわいい反応するな。そんな驚いてくれるとは思わなかったよ」

 導かれるまま、そっとスーツの上から目の前に見える胸を触ると、いつものサンジさんの感触が触れてぱああっと瞳を輝かせる。その様子にサンジは愛おしそうに笑って、なまえの小さな肩をぎゅうっと抱き寄せて傘の中に迎え入れた。
 この黒くて大きな傘は、ふたり兼用の傘だった。「相合い傘してみたいなあ」とつぶやいたところ、サンジが買ってきてくれて、いつでも雨が降っていいように車に乗せているものだ。だから彼は仕事終わりに一度家に帰って車できたのだろう。

「このままあっち側行ってもいいかい?」
「うん…。サンジさん、あれ、お仕事…ここ、あら?」
「ふふ、混乱してるな?今日は雨模様だから客足も少なくてな。特に大きなこともねェし、あとはあいつらに任せて早上がりしてきたんだ」
「そうだったのね…あれ、でもどうして新宿にいるの?」
「なまえ、今日新宿寄るだろうなって思ってな。きみの行きそうな場所に足を向けたらちょうど外に見つけてラッキーだったよ。いなかったらメッセージ送るつもりだったが、どうせなら驚かせたかったからな」

 歩きながらなまえの肩を抱いて楽しそうに笑うサンジはまるで少年のようで、その可愛さになまえの胸が高鳴る。いつもは色っぽくて大人を感じてドキドキバクバクしてしまうのに、この可愛さのあるギャップがたまらなく胸にくる。
 そして、ここにいると当てられたことにも驚いて情けなくあんぐりと口を開くと、サンジはクスクス笑って「なあ、可愛い反応するからキスしたくなってきた」と低くささやくからぽっと顔が熱くなる。

「…サンジさん、外でいじわるしないで」
「いじわるしてるつもりはねェんだけどなあ。なまえちゃんがあまりにも可愛いからつい で、欲しいものは買えたかい?」
「…サンジさんにはなんでもお見通しなのね。予約をしていたからなんとか手に入れられたの。でも、すごい人気でもうほとんどなくなっていたみたい。ここのブランドどれも可愛いし、機能も優れているから」
「そっか、よかったな。それでメイクしたなまえを早く拝みてェな。ものすっげェかわいいんだろうなあ……」
「ふふ、また使ったらサンジさんに教えるね」
「おれ、たぶんすぐ気付くと思うぜ。なまえに関しては誰より熟知してるし、見てるからな」
「ん、」

 人混みの中だけれど、たまらなくなったサンジは傘で前を隠しながらちゅっと彼女のおでこに口付けた。その時でもなまえが濡れないように自分が犠牲になっているのだから、その紳士ぶりに感心してしまう。
 傘があるとキスするのに便利だろ?と口角を上げるサンジにくすぐったくなって、頬を赤らめるとよしよしと頭を撫でられた。
 今日のなまえは朝からうきうきご機嫌だったから、気になってるって言ってたコスメの発売日なんだろうな。とサンジは踏んでいて、自宅からいちばん近い都市の新宿に来たのだ。これを言ったら彼女はええっと大きな目をぱちぱちさせるだろう。感情を隠せない彼女がたまらなく愛おしいからこれは黙っておくことにした。

「サンジさん、」
「ん?」
「これからどこ行くの?」
「ああ、なまえ疲れてねェ? 大丈夫?」
「うん、わたしは全然平気。サンジさんは?」
「おれも。だから、晩飯食って帰りてェなって。なまえ今日は肉の気分だろ?」
「わ、うん…っ!」
「よかった。じゃあ予約するな。一時間後くらいでいいかな」
「うん、大丈夫。お腹もぺこぺこになって美味しく食べられる時間よ」
「じゃあ、ここ予約するよ。いい?」
「サンジさんが選ぶお店はどこも最高だからぜひっ! わあ、楽しみっ」
「喜んでくれてよかったよ。時間までお店見て回ろっか。行きたい場所はあるかい?」
「うんと…あ、文房具屋さん寄ってもいい?」
「もちろん。おれも見てェと思ってたんだ」

 横断歩道を渡り切ってビルの中に入ると、傘に包まれた二人きりの世界が消えた気がして少し寂しさを覚えたが、ビニールに包まれた傘を反対側の腕にかけたサンジがそっと手を差し出してくれたのでその寂しさはすぐに飛んでいって、楽しく愛に溢れた夕方を満喫したのだった。