在る日の夜


「なあ、なまえ。おれ達恋人同士になって結構経ったよな」

そう訊ねられたのは、お付き合いと同棲をはじめてから三ヶ月経った頃。

お風呂から上がったばかりのサンジはほかほか湯気を揺らしながら、なまえの隣に腰をおろした。彼の重みでそっと沈むソファーすら愛おしく感じて、こういうのを屋烏の愛っていうのかなあ。と思案しながら、なまえは彼に視線を向ける。

「うん、ちょうど三ヶ月と二週間だね。恋人同士になってすぐ同棲して…気がついたらもうひとつ季節をこしてたんだ。早いなあ」
「あァ…本当に。幸せすぎてあっという間に過ぎちまう」
「えへへ。何だかわたし今でも信じられない気持ちがあって、ずうっと夢に見てきたことだから今人生で一番、夢みたいに幸せ」
「ああ、そうだね」

ドキッと、胸の奥が締め付けられた。彼から恋の目を向けられるようになってまだ少ししか経っていないけれど、最近彼の表情からあらゆる想いを受け取れるようになってきて、この顔は…。
たれ目がちな目はすうっと細められて、ひげをたくわえた口元はゆるりと弛んでいる。愛おしくて恋しくて仕方がないといったその表情は、ひどく蠱惑的で目をそらしたくなってしまった。

何だか背負っている雰囲気が違う。そう感じたのは気のせいだろうか。思案を逸らすように、テーブルの上のマグカップに手を伸ばした。
数口に分けてハーブティーをこくりと飲むと、香り高いにおいに癒されてふう、と心もほぐれていく。その様子をサンジは目尻を撓めさせ愛おしそうに見つめていた。

「…なあ、なまえ」

マグカップを戻し、落ち着いた様子でテレビに目を向けた彼女の名を慈しむように低く呼び、もう一度こちらを向かせる。なあに?って、いつもの、あのかわいい笑顔を向けられたけれど。サンジの瞳に宿るあついものに気が付いたのか、なまえはすぐに笑顔を弛ませて不思議そうに目をぱちくりさせた。

「なんだかサンジさん…。ちょっと変」
「そう? あァ…なまえがすっごく愛おしいなァってな、思っちまって」
「えへへ?」
「ふと、そう思っちまったら止まらなくなってな」

いつもの色っぽい笑みを浮かべたサンジは、低く囁きながらなまえのやわらかな絹のような髪の毛をそっと手で取った。同じシャンプーのにおいが、ふわりと鼻腔をくすぐる。何も知らない純真な双眸はサンジの言動をきょとりと見つめていたが、同じくくすぐったい愛おしさを胸の奥に宿したのだろう。ややあって恋する、サンジしか知らないその笑みをみせてうなずいた。

「うん、うれしい。サンジさん」

夢みたい。ってまた心底こぼす彼女がかわいくて仕方ない。
ここのところずっと胸の奥底で揺蕩っている想いを告げる前に、なまえの柔らかなからだをぎゅうっと抱きしめてから慈しむようなキスを前髪に送る。ふふ、とかわいらしい笑い声が鼓膜をくすぐって、胸をあまくしながらそのまま蕾のような唇に口付けた。

ふわりと強いハーブのにおいがサンジの鼻をくすぐる。彼女が飲んでいるのはジャンミン茶。白くてかわいいあの花は「優美」とか「愛らしさ」の裏に「好色、官能的」という意味も持っている。ああ、今の状況にぴったりだな。とサンジは食むようなキスをしながらふと思う。
ぎゅうっと身を固めてキスを受けてくれる彼女は相変わらずうぶでかわいい。物心がついた頃からずうっとサンジに恋をしていた彼女は、初恋もファーストキスもサンジだった。おれが彼女の恋の全てを奪っちまったのか。って、得も言われぬ高揚した感情に見舞われたことを思い出す。
だから、なまえ自身はもちろん。温めてきた宝物のような彼女の恋心も大事に大事にしたいという想いもあったから、彼女はまだ唇を重ねるだけのキスしか知らない、純真のままだった。

長く重ねていたくちびるを離してみると、なまえはふっととろけた顔をしていてぐっと胸が疼いた。ふわふわしているのだろう。ソファーの背もたれに右半身を預けてぽーっとした顔を見せている。愛おしくって仕方のないその姿。サンジはおでこに最後のキスを送ると、小さな頭を撫でながら続けた。

「…なまえ」
「ん…、なあに?」
「嫌なら大丈夫。無理しないで、そこはきちんと断ってほしいんだが…」
「え、うん…?」
「なまえが良ければさ、キス以上のこと…してもいいかい?」
「キス以上??」

わあ、何だろうってすこしわくわくした面持ちを見せたなまえは、紡がれたサンジのことばに、ん?と首を傾げた。「そう」と頷き「キス以上」、もう一度反芻してみるが、彼女は「きす、」と不思議そうに同じ言葉を繰り返している。

「…おれ達付き合いはじめて三ヶ月経ったし…そろそろえっちしてェなあって」
「…えっ、あっ……、」

頭のどこかでわかってはいたけれど。いざ口にされるとあまりのインパクトにドキンと心臓が荒ぶって、どくどく、全身の血液が奔流していくのがわかるくらいに体が熱くなる。
サンジとは年は離れているけれど歴とした恋人同士。いつか、そうなるのかなあ。って思ったことは何度かある、けれど、──。

「さ、…ううっ、」
「大丈夫、答えはゆっくりでいいよ」
「…わ、わたし…。サンジさんと恋人同士になれたってことが本当に夢みたいな奇跡で、これ以上にないくらいに幸せなことで…。だから、毎日が満たされ過ぎててね、その…それ以上のこととか、あまり考えてなかったの…」
「うん、そうだよなァ。なまえは特に“夢みたい”な現実なんだもんな」
「うん…、」
「でもな、いいかいなまえ。気持ち悪いかもしれねェがおれはそう思ってるってこと、頭に入れててほしいな。おれとそういうことをするかもしれねェってことを考えてみて、それで嫌なら嫌だってはっきり教えてくれ。なまえはおれの大切なレディだ。絶対に無理や無茶はさせたくねェから嫌なら引くし…行為を拒否したからっておれは絶対になまえを嫌いになったりなんかしねェよ。きみの心の準備が整うまで…若しくは一生、プラトニックに恋愛するってのもまたオツだしな」

そう、安心させるように笑って頭を撫でてくれるサンジに、ドキドキ高鳴っている心臓はより激しさを増していく。うるさいくらいの心音に喉がどんどん渇いていくのを感じて、唾を飲み込んでみようとするけどうまくいかない。唇が震えて、でも言いたいことはあって。サンジの大きな手のひらをぎゅうっと握り締めながらおずっと顔を持ち上げ、精一杯首をふって否定を示した。

「サンジさん、気持ち悪くなんかないよ」
「え、…あははっ。ああ〜ほんっとなまえってかっわいいよなァ…ありがとう」
「サンジさんの、その気持ちうれしいくらいなの、」
「…うん?」

黙りこくってしまいたいほどに照れているだろうに、そこを否定したくてしっかりと目線を合わせて首を振った彼女があまりにも愛おしくって、サンジはつい笑い声を上げてしまった。
ほんとに愛しすぎるとな、人って笑いが出ちまうんだぜ。って顔をして。
あまりこの話題に長く浸けさせるのは可哀想だと、このまま抱きしめてもうお話をおしまいにしようとしたけれど。もう一度なまえが強く首を振ったからサンジは手を止めて、耳を傾けた。

「サンジさんと、そういうことするのわたし嫌じゃない。絶対にそれだけはないけど……でも、」
「でも?」
「…は…はずかしすぎて、ううっ死んじゃうかも、なの…っ」
「あー…何それクッソかわいい…ああ、ほんっとうに、」

やっべェな、この子。
小さな手で顔を覆ってぎゅうっと身を縮めている姿にぐうっと喉が鳴ってしまいそうなのを必死に耐え、サンジはゆるりと口角を持ち上げた。背中をさすりながら改めてこの子が愛おしいと、好きだとおもう。毎日毎日、これまでの長い人生の中で味わったことのない幸福ですべてを包み込んでくれる。
そんな美しい愛を持つ子とひとつになれたらな。って自分の欲だけで持ちかけてみた恋愛展開の話は、彼女の可愛らしさを交えて明るい方向へと進んでいく。

「その恥ずかしいって気持ちも愛故だもんなァ、あ〜すんげェ幸せな未来が見えちまう。はずかしさもおれがぜ〜んぶ愛に変えちまうから、なまえは何にも考えずにただおれに全てを委ねてくれたら嬉しいよ」
「…恥ずかしいのも、愛…」
「ああ、そうさ。おれもね、なまえのこと愛してるから恥ずかしいって感情はな、ちょっとあるよ」
「サンジさんが??」
「はは、意外?」
「うん、」

顔から手をはずして驚いた目を向ける彼女はすこし心が安らいできたみたいだ。ほっと安堵して、サンジはより落ち着かせるために彼女にマグカップを渡した。受け取った小さな手は震えていて、ああやっぱり。この愛おしい人のこと、喉から手が出るほどに欲しいと思う。

「…サンジさん」
「ん?」
「勇気を出すので、! また、また後日にサンジさんから誘って、ください…」
「うん、分かった。受け止めてくれてありがとうな、なまえ」

へへ、可愛すぎてどうにかしちまいそうだ。って、それは狂おしいくらいの本心だけど、この雰囲気のなか真面目にこぼしたらそれこそ収拾つかなくなってしまいそうだから、おちゃらけながら言った。ふふ、っと可愛らしい笑い声が返ってくる。

「さ。ジャスミン茶のおかわりにお風呂上がりのフルーツジュース、いかがでしょう? レディ」
「う、うん…いただきます」
「かしこまりました。あ、マグカップもらうな。なまえは座ってテレビ観ときな」
「ありがとう、サンジさん」

最後におでこにキスをおひとつ。それからもうこの話題には触れずに一瞬にして雰囲気を切り替える。じんわりと広がるあつい熱、おでこにぴとりと手のひらをあてて「サンジさんって…やっぱり大人ぁ…」って爆発してしまいそうな昂った気持ちを抱き締めた。


→ 決意の夜