「おい、なまえ。おれの嫁になれ」

なんでも無い日。なんの前触れも、なんのムードもない。
まるで、一緒に飲まねェか。なんて何度も受けてきた晩酌の誘いのように、今思いついたことのように、重たいことばが薄い唇から軽やかにこぼされた。

「え……?」

もう長いことこの船で冒険を続けてきた。あらゆるものを目にして、あらゆる冒険を経て、麦わらの一味は世界を知った。本当に色々なことがあった数年後。まだ穏やかに航海を続けている麦わらの一味の海賊船“サウザンドサニー号”のアトリエで、なまえはふしぎなことばを吐いた男の灰緑の瞳を見つめていた。



今朝描いた絵の続きを仕上げていると、コンコンと乱暴にノックをされて「ああ、ゾロだわ」と口元を緩ませ「どうぞ」と招くと、重い靴音を響かせて昔よりも更に筋肉をつけた身体をすっと潜らせた。

「ゾロ、会いにきてくれたの? 嬉しいわ」
「ああ…」

この時間は、大体お昼寝か筋トレをしているゾロがこうしてアトリエを訪ねてくるのは珍しいことだった。だからここで会えたことがとても嬉しくて、作業の手を止めてふわりと微笑みを浮かべると、ゾロは入り口で突っ立ったまま僅かに双眸を見開かせた。
それは昔からのゾロの癖だ。愛しいと感じた時、こうした僅かな素振りを見せる。きっと愛いを抱いた信号の反射的なもので本人にその自覚は無いのだろうけど。
自分だけが知っている愛おしさに胸がぎゅうっと締め付けられて、ゾロのことが大好きだわ。なんてもう何万回も芽生えた愛を抱いた時、ゾロの口から冒頭のことばをもらったのだ。

あまりにも突然で、単語はしっかりと脳髄に届いたのだけど、その意味を理解できないでいた。
嫁ってなにかしら? なんて当然幼い子でも知悉している単語をこの歳になって深く考えるだなんて思いもしなかったけれど、小さなパニックに陥っているのだ。仕方がない。

「え…あの、ごめんなさい。もう一回言ってもらってもいい?」
「なんだ。聞こえなかったのか?」
「ええ…ごめんね、」

もしかしたら聞き間違いかもしれないわ。ともう一度耳を傾けてみるが、やはりこぼされたものは「おれの嫁になれ」その一言だった。
しっかり構えた意識のなかで、ふわふわと舞っていた甘露がすうっと頭に入ってきた。もちろん、意味を理解していて飲み込んだ途端、どくんと心臓が大きくうねりをあげた。

「……どうして…?」
「あ? そりゃお前と結婚してェからだ」
「ん…っ」

“結婚”するりと吐き出されたものは、またもやしっかり脳髄に届いて甘い余韻を漂わせながらぱちりと弾けた。

「おれはなまえと一緒になりてェ。お前はどうだ」
「い、今までそんなこと一言も言わなかったじゃない? どうしたの?」
「どうもこうもねェ。ただふと思っただけだ」
「そんな“ふと”だなんて…! もっともっと真剣にお話をして…」
「なんでだ?」
「なんでって、だって結婚ってことはその…重たいものでしょう?」
「重たいも何もねェだろ。おれはお前を嫁にしてェ。それだけだ」
「うう…っ」
「おれァ、なまえ以外の女はいらねェし、なまえだから一緒になりてェんだ。今更話し合うも何もねェだろ」

ぎらりとした双眸からは意志の強さと愛がひしひしと伝わってくる。
彼はこうも唐突だけど至って真剣なのだ。誰よりも一途で愛に対して誰よりも誠実だ。
それはもちろん知っている。こんな素敵な男性とお付き合いができて、私は世界一幸せな女だと心底思っている。結婚だって、彼の彼女ではなくお嫁さんになることも実は何度も夢に見てきた。きっと彼には結婚願望はないのだろう。だから半分諦めていたもう一つの夢だったのだけど──。

「本当に…? 本当なの?」
「本当に決まってんだろ。おれがこんな冗談言う男に見えるか?」
「見えないわ。だけど、だけど……動転しちゃって…」
「で、返事は?」
「……もう! どこまでもムードがないわね」

思わず拍子抜けしてしまうくらいに。
いつもの調子で淡々と口にするのはとおってもゾロらしいけれど…ゾロらしくて愛おしいけれど。

「ふふ……もちろんよ、ゾロ。ずっとそのお言葉をいただきたかった……」

落ち着いてくるとふわふわした心地から華が咲きはじめて、全身がかっと熱くなる。これまでにないくらいに胸が、身体が歓喜に震えている。こんなにも、こんなにも幸せなことってあるかしら。
駆け出す気持ちのままに筆を机に置いて、ゾロの胸にダイブすると彼は当たり前のようにぎゅうっと受け止めて腕を回した。

「私をあなたのお嫁さんにしてね、ゾロ
「おう」
「ふふっ、大好き」

驚きに戸惑ってはいたけれど、その答えは一瞬の逡巡もなく透明な色で返された。当然この反応は自惚れだろうか、分かり切っていたことだが、やはり想像が現実になると嬉しいもので。ゾロはひっそりと胸を躍らせながら、愛に満たされ目を細めているなまえの小さな顎を指でとり、顔を近づけてそっと口づけを落とす。
じわりじわり広がっていく新しい愛。それに応えるようになまえもこちらからも舌を絡ませていく。何度も愛を送り合ったあと、幸せを噛み締めるためにもう一度大好きな胸元に頬を擦り寄せると、激しい鼓動が鼓膜を揺らした。



夢が叶った日。


2021.6.6.プロポーズの日