犬もくわない


「いい夫婦の」と同じふたり


 午後8時。シズちゃんが帰ってきた。
 鍵が勝手に開いて、ドアが開き、靴を脱ぐ音。
 部屋に入り、ベストと蝶ネクタイ、カバンをソファに投げ、その隣にどかっと腰を下ろす。
 この間、シズちゃんはもちろん、俺さえも終始無言のままだ。

 昨日の朝、本当に些細なことで喧嘩した。
 それからほんとど碌に話してもいない。必ずしていた出迎えもしない。
 正直、喧嘩の原因はもうどうでもいい。でも、話しかけるタイミングが全くつかめなかった。
 こういう時、一緒に住んでるってつらいものがある。嫌でも顔を見なければならないからだ。

 それでも前よりは全然いいとは思う。喧嘩していてもこうしてつながっていられる。
 昔は、本当にいつ接点がなくなってもおかしくなかった。

 それでもどうして人間はこうも欲深くなれるんだろう。
 シズちゃんと話せない。笑ってくれない。抱きしめてくれない。
 それだけで悲しくてつらくて仕方ないんだ。
 
 俯いたまま顔をあげられなくて、ズボンをギュッと握りしめる。
 怒られたらどうしよう。嫌われたら、離婚するって言われたら。

 普段の自信はどこにいったのやら、不安ばかりが俺を苦しめる。
 だいたい、シズちゃんはなんで俺と結婚してるのかわからないんだ。いきなり結婚って言われて、そのままこうなってるけど、俺の事、好きなの?
 
 どのくらい考えていたんだろう、はぁぁぁぁという重い溜息が聞こえてきた。 
 びくっ
 肩が大きく揺れる。

「なに突っ立ってんだよ。飯にしようぜ」
「あ、うん。用意する…」

 疲れてるシズちゃんを立たせたまま、何やってるんだ俺は。
 急いでキッチンに行き、作っておいた夕食を温める。
 少しでも機嫌がよくなってほしくて、シズちゃんの好きなものばかり作った。ちゃんとプリンも作った。

 手早く温めて、そっとシズちゃんの前に置く。自分の分もよそって、テーブルの反対側へ置く。量はシズちゃんの半分だ。
「いただきます。」
 シズちゃんが食べるのを、つい見つめてしまった。もし美味しくないって言われたら、俺本当に死んでしまう。
 そんな俺の視線に気づいたのか、シズちゃんは気まずそうに目をそらし、「…うめえよ」と言ってくれた。
 …よかった

「っ!臨也、なに泣いてやがる!」
「え…?」

 自分では全く気付かなかったが、ほほに暖かな感触。そっと触れると、確かにそこは濡れていた。
 気づいてしまったら、もう止まらなかった。泣くな泣くなと思っても、勝手にこみあげてきて止まらない。しまいには、たまらなくて声まで出てしまって。
「うっ、ひっく、うぅっ」
「大丈夫かよ?どっか痛ぇのか?体調悪ぃとかか?」
「ちがっ、ふっ、うぅ、」
「ほらタオル。ゆっくりでいいから。どうした」

 シズちゃんが俺の背中をそっとなでる。その手つきが、いつも通りで本当に優しくて、ますます嬉しくて涙が止まらなかった。
「シズちゃ、美味しいっていってくれた、ひっぅ、やさしくしてくれっ、うっうれしっ」
 必死の思いで伝えると、俺を力強く抱きしめ、はああああと、本日2回目の溜息。
 ひくっとなって、恐る恐るシズちゃんの顔を見上げる。
 そこには困ったようなシズちゃんの笑顔。
 
「謝んなきゃとは思ってたけど、わりぃ泣かせちまった」
「違うよ、俺が悪いんだよ!…ごめん」
「泣かせた俺が悪い。ごめんな臨也」
「…ほんと?もう怒ってない?別れたいって言わない?」
 シズちゃんが怒ってないのは、もう十分わかったと思う。でも、俺はどうしても聞いておきたかった。

 シズちゃん、俺と別れる気、本当にないの?

 そう言うと、おでこに指。がつっという音で、自分がでこピンされたんだと気付いた。
 うん、結構痛い。
「いたたた、なにすんの」
「馬鹿なこと言ってるからだ。いつ俺が別れたいっつったよ」
「だって…」
「だっても何もねぇ!喧嘩はしても、お前を嫌いになったことはねぇよ。好きだから結婚してんだろ?」
「シズちゃん、俺の事ちゃんと好きだったんだ…」
「…怒るぞ」

 そう、だよね。確かに言葉で言われたのは初めてだったけど、言われてようやく気付いた。
 シズちゃんは、ずっと態度で伝えてくれていたこと。ずっと好きだって言ってくれていたこと。
 言葉じゃないから不安になっていた。でも、本当はちゃんと、わかっていたんだ。
 シズちゃんが俺を大切にしてくれていることも、愛してくれていることも。
 でもやっぱり、言葉でくれたのは嬉しかった。だから俺もちゃんと返そう。

「おれもシズちゃん、大好き」
 そう言って強く抱きついた胸の中は、今までで一番暖かかった。



結局喧嘩の原因ってなんだったんでしょう?支離滅裂になってしまった。