※受主開いた目には極彩色のステンドグラスに抱きとめられ円やかにいなされた光が届く。この礼拝堂を満たす光は常に自然に任せられており、朝が明るく夜は暗い。僕はこの闇を残した鮮やかな朝の中でしか息ができない。そう、此処はこの世の牢獄。
この建造物は大きなステンドグラスから採光している。ヴォールトの高い天井を持ち、尖塔をふたつ背負った教会堂の形をしてるけれど、礼拝堂のこの壁の向こうに何が居るのか、祭壇の中に何があるのか、僕は知らない。朝の光が来る方角のずっと遠くに海があって、夕の光が来る方角に街がある。街の向こうはまた海らしいけれど本当かどうかは知らない。気がついたら此処に居た。街から遠く離れたこの教会堂は夜鷹さえ嘴を噤む静かな山奥に佇む、街の少ない寄付によって成り立ち孤児を暖かく受け入れる、何人かの小児性愛の司祭様による美しい形をした監獄だ。
毎日よくわからない壁の向こうだか屋根の向こうだかへのお祈りの時間と、毎週必ず殺さなくちゃいけない日があって、お祈りもその日も嫌いだった。殺されるのは司祭に選ばれた子で、殺される順番に決まりはない。僕みたいに比較的長く殺されない運のいい奴もいれば、入って六日で選ばれる子もいる。誰もがいつか自分もその順番が来るのではないかと口に出さずに怯えていた。新しい子がしばらく入らなければ何処かから嬰児が用意されていたし、どうやっているのか用意されるその量がすごく多い日もあった。そしてその日に必ず行われるのが、誰もが血に塗れて酩酊し誰を相手にしているのかもわからない悪魔と踊るような悍ましいセックス。誰が殺してるのか殺されてるのかさえ血と精液が混じってわからない。僕らが翌日にその掃除をする。掃除も嫌だ。しかし嫌だからといって僕らの誰かが逃げ出せば、僕らが捕まえに行く。そして殺す。そしてセックス。そして掃除。僕たちはこの収容所の中で息をしながら悲鳴を上げながら精液をぶち撒けながら、毎日死んでいた。
ある日、誰も目を覚まさない日があった。それは突然の事だった。
一番神経質で早起きの爺司祭まで食堂の椅子で寝こけていて、あいつの手にくっついてると思ってた僕達を叩く定規が床に取り落とされていた。忍び足で食堂で座って待っても誰も目を覚ましてこない。司祭の近くが僕の席だったから傍に座ったまま動けずにいたが誰もが部屋で寝息を立てたまま起きてこない。嗚呼いよいよ自分の脳が醒めなくなったのだ無理もない、そうも思いかけたが僕はいつ爺が目を剥き定規を掴むのかだけが怖くて長い時間椅子から立ち上がれなかったし一声も発声できなかった。目を覚ましてから七時間ほど経って、もう昼の十二時で教会の屋根の真上から眩しい陽が僕を見ているころ、僕はひとつの結論に達した。椅子を大きな音を立てて倒して一気に立ちあがり机を思い切り掴んでガタつかせた。しかし爺は反応を示さない。瞬時にそれを判断し食堂を飛び出した。僕の番なんだ。遂にもう、何処にいても駄目だ。僕の番なんだ。何処にいても、殺されるんだ。正面の扉を抜けて走る。教会の門柱がこんなに遠い。死にたくない。死にたくない。死にたくない。逃げなくては。何処まで。何処でも良い。死にたくない。助けを求めなければ。誰に。誰でも良い。死にたくない。どうか本当に眠っていて。本当に眠ってしまえ。永遠に。あの建物の中の人間全てが本当に眠り続ければいいのに。初めて心から永遠を祈りながら森に駆け込む一歩手前で、後ろからもう一度教会の扉が開かれる音が聞こえる。嗚呼、僕の番なのだ。
思えば、数日前の夕飯に出されたフルーツが口の中で腐った玉葱のような匂いを発していて、舌触りは野生の猪の毛皮を舐めさせられてるように不味かった。悪くなりかけの食事はよく食べていたし、大地のお恵みを皿の上に残すわけにいかないのですぐに飲み込んだのだった。僕を助けに来てくれたのは、祈りという空虚な時間を捧げた相手ではなかった。海の悪魔がこんなに山奥まで僕を助けに来てくれていたのだ。
僕に向かって草刈り用の鎌を振りかぶってきた若い司祭はあと数メートルというところで膝を折り、地面にそのまま崩れ倒れた。何が起きたのかわからずに腰を抜かして漏らした尻餅をついた体勢のまま放心していると、少年二人と少し後ろから爺が此方に駆けて来るそれも同じくらいの距離で倒れる。樹の根が地面から盛り上がっているのに躓いて転んでから、死にたくないと繰り返すばかりで僕は頭の中では何にも考えていなかったけれど、倒れた司祭の髪の毛の薄い頭頂部を見つめながらやっと、死んだのか、死んでくれたのかと思った。肺が何処かに穴が空いた袋みたいな音を立てて、体中に酸素が足りなかった。暫くその体勢のままたくさん息を吸って吐いていた。鼻は鼻水で詰まっていたし泣いていたのに気がついたけれど拭っている場合ではなかった。殺されなくて済むならなんでも良い。なぜ倒れたのかは二の次でそのまま誰も起き上がらないことを一心に願った。次の朝には裏切る友達も、俺の尻に腕を入れたくて仕方ない司祭も、嬰児の局部を舐めて興奮する爺も、誰も目覚めなければいい。その願いはそれから2年経った今でも叶い続けている。
あの後も僕に近づいたやつは次々と眠った。僕が教会内にいれば、内部の生き物は全部眠った。巣を作っていた燕さえも眠っていて可愛かった。帰ってきた親鳥が驚いてしまうなと思うと、もぞもぞと雛鳥たちが動き出して口を開けだしたのを切っ掛けに、この眠りは操作可能なことに気がついた。それとあまり起こさないと死んでしまう事も段々とわかってきた。年齢が一番高かった爺が一番最初に死んでいた。その時は片付けと掃除は慣れていたのが役に立った。歳に関係なく何も食べさせなければより早く死ぬ。今では若い1人を残して司祭はみんな死んでしまった。何人か死んでしまってこの眠りについては大体理解出来た。これを死なせてしまうと、街からのご寄附を受け取れないし買い出しに行く足がなくなるから気をつけなくてはならない。でも眠るだけの少年たちはもう少し減らしても良さそうだ。そうすればベッドが広くなる。この力が授けられたのが何かの間違いなのか知る術はもうないし、別に知らなくていい。
ある早朝に、礼拝堂の扉が開く音で目が冷めた。酷い音がするようになってきてしまって気になっていたけれど、誰も開けないので最近は忘れかけていた。僕以外が教会内で瞼を開けているなんて不可能なのに、信仰深い風が入りこんだのだろうか。誰も起きないのにきちんと息を殺してベッドを抜け出し生成り色の麻の寝間着のまま、扉が開け放たれた礼拝堂へと向かう。この寝間着は汚れたら洗い替えしやすいし捲ればすぐに悪戯できるし眠い時に被るだけですぐに眠れる優れものだ。裸足でも足音を立てずに廊下を歩いて礼拝堂を覗くと、随分と背の高い侵入者が最前列に座っていた。高めの背凭れもこの侵入者には小さすぎるようだ。正面のステンドグラスを見上げたまま動かない。眠ったのかもしれない。油断は禁物だと思う気持ちと裏腹に、薄っすらと埃の積もった礼拝堂の床に裸足の足を一歩置いたところで巻き上がった埃にくしゃみが2回も出た。口元を抑えたが侵入者は振り向かない。よし、眠ったんだ。そのまま眠っていて。
慎重に、しかしもう足音は気にせずに侵入者の前に回ると、残念ながらその目元は大きく隠され表情は殆ど見えなかった。なんだろう。司祭のしていた眼鏡とは随分形が違う。ものすごく目が悪いとこうなるのだろうか。何度瞬きをして角度を変えて覗き込んでも奥は見えない。僕よりもずっと色素の薄い金髪は柔らかそうだ。そっと触れてみると、逆立てられている短い髪は硬かった。見た目はちゃんと髪の毛なのにと自分の毛先に触れて触感を確かめてもう一度そっと触れ、恐恐と後ろへ撫でる。猫の髭みたいに硬い。変なの。眉を覆うほど大きな眼鏡で目元は見えないが、男らしい骨格に、健康的な肌色の額と頬には皺もシミも無い。若そうだ。高い鼻。張りがあって柔らかそうな唇。肌を見つめながら自分の唇に触れる。左耳にピアスがふたつ。魔除けのお守りかなにかかな。金色の飾りにだけ少し触れる。肌には触れない。着ているものは白いシャツの上に麻の黒のジャケットと揃いのパンツ。大きく後ろへ腕を回したその先端には手袋までしていて、肌の露出が少ないのはこの島が一年を通して雨が少なく空気が乾燥しがちなのを知っているからかもしれない。背凭れの向こうを覗きこむのをやめて、また表情を窺い見るがやはり動きはない。胸ポケットに入れられた薄桃色のハンカチをつついたついでに細手の糸で密に織り上げられている前襟へ触れると、しっかりとノリが効いていた。寝て起きたせいだけではなくしわくちゃな寝間着の僕に対して、同じ繊維から出来てるはずの男の服には余計な皺は一切ない。この侵入者は、別の世界から来たのかもしれない。直感的にそう感じた。
艶やかに光沢を放つ絹の赤いネクタイを結び目から下に指先でなぞりながら、男の太い腿を気をつけて跨いで、そうっとそれに座る。ジャケットの合わせ。黒蝶貝のボタンひとつ。ふたつ。何の匂いだろう。近くに寄るといい匂いが男のジャケットの奥底から立ち上る。ベルト。小熊が親熊へ甘えるようにおでこを男の胸につける。この布、邪魔だな。ベルトの金具。その、した。
殺されそうになったら眠らせてしまえばいいのだから、時折司祭を起こしては自分の気が済むまでだけセックスをする。昨日も遅くまでした。慣れた体が欲するままに、見せつければ眩い月さえ飛んで雲に隠れてしまうような邪淫。あの頭が真っ白になっている間だけは確実に僕が必要とされて、僕も必要としてる感覚がする。それを時折無性に感じたくなる。こんなの、と掌と指先でうっとりと麻布越しに触れていると、聞いたことのない低い声が左耳に諭しを囁く。
「随分と物好きな天使様だな」
宛ら夢魔である自分を天使のようだと言った男は、天使を祭壇に押さえつけてその腹を3度も精液で汚した。
男は外していた黒いぴっちりとした手袋を嵌め終えるとタイを整えながら立ち上がって、余韻の波に弄ばれて動けない僕を祭壇から軽々と抱き上げた。腿の当たりを片腕で纏めて支えるのは子供を抱き馴れている感じだ。こんなに背の高い人の視線が少し下からくる。浮遊感が怖くて肩に手をつく。こんな風に抱き上げられたりなんかされたことない。居心地が、悪い。
「最近寝付きが悪いんでな、おまえを探してた」
そう僕に言うとゆったりと大きな歩幅で歩き出す。この人は僕を探していたと言う。一体どうやって僕の存在をどうやって知ってくれたのだろう。僕のこの能力を探して何処から此処まで来たのだろうか。それに寝付きが悪いなんて理由で僕を探しに来るってとんでもなく非効率だ。もしかして、人を眠らせることが出来る人間がこの世にはザラに居る?この人も近くのあの街に住んでいて僕のことを知っていたのかな。でもこの人は僕を探してたと言った。僕がセックス以外で果たして人の役に立つのか。
「さっき、眠らなかったよ」
睡眠導入剤として僕を使うつもりなら、役に立たないよ。人違いかもよ。暗にそう伝えても男は止まらずに低く鼻でフッフッフ、と笑った。
「さっき寝てたらお前だけいい思いするつもりだったろ」
どうやら眠らずに持ちこたえることも出来るらしい。この建物の中には運良くそういう人間はいなかったということだろうか。よくわからない。男は踵の音をさせずに身廊を抜ける。片方手が塞がっているからか礼拝堂の扉を閉めていかない。このまま外に出るとあの子達が目を覚ましてしまう。もしこのまま外に出るつもりなら僕は入り口で下ろしてもらわなくてはならない。ねぇ、下ろして、と口に出した要求に返事はなく滑らかな足運びは余所見もしない。さっきまでもっとしてと言えばしてくれて、おねがいと言えばそうしてくれたのに。教会の屋根が終わる。聖なる陽が裸足の足を照らしてしまう。火傷しちゃうよ。ねぇ、と腕に手を置いてもう一度お願いしようとすると、男はもう片方の手で軽く空気を纏めて握るような動作をする。刹那、鮮やかな色硝子も白く焼けた煉瓦も天井も柱も、さいの目状に砕けて崩れ落ちていく。教会の形をしたものが瓦礫に成り下がる。僕だけが振り返ってそれを見た。僕を作った場所は、みっともなく悲鳴を上げたりせず静かに地に沈んでいく。擦れるよう低い音ばかりで劈くような高い音は聞こえなかった。男の肩は心地よく揺れ続ける。
「割っちゃったの」
「もう見たからいいだろ」
教会に思い入れのあるかもしれない僕の思いは関係なく、男自身が存分に見たからいいだろうと言う。そう言われればそんな気もしてくる。次にご寄附を届けてくれる街のおじさんは様変わりした風景を見てどんな反応をするのだろうか。とびきり驚いて腰を抜かせばいい。あんなに遠く思った鉄柵製の門をこれもまた開けっ放しのまま抜けて、急ぐ様子もなく颯爽と教会敷地内から去る。門柱の間を抜ける時に何か持って来たかったかと聞かれて首を振る。皮肉だ。だってもう粉々に割ってしまったじゃないか。割ってしまったから、もうこれであの神秘的な光に苛まれることはないのだ。毎朝誰も起きていないか各部屋をチェックして回ることもない。もう楽になれるのかもしれない。ならもう、死んでもいいかも。どうして何もかも叶えてくれるのだろう。
「ねぇ、あなたが僕らの父なの?」
「ンン?」
顎を傾げて聞き返されたので少し嬉しくなり、天にいるという我らの父に食事の前に毎回必ず捧げる口上を最初から暗唱する。すると男が途中から可笑しくて堪らないというように笑い声を上げて笑いだしたので途中でやめた。やめると続けろよと短く促される。やめたところまで口の中でもう一度言ってから続けた。我らの罪を許し給え。我らを悪より救い給え。言い終わっても男の口角は上がりっぱなしだ。どこか、間違えているだろうか。聞いて笑っておいて男は何も言わなかった。
突然森が開けると切り立った崖だった。下に森と穏やかにそれを飲み込もうとする海が見える。本物の海だ。思っていたよりも教会からずっと近い。白い太陽が海を焼き切ろうと照らしている。硝子越しの光の中にいた僕には眩しすぎる。大袈裟に目を細めて、固く丁寧に織り上げられたジャケット生地の後襟をしっかりと掴む。答えるように抱かれた腿が少しだけ抱き直されて、何か不思議な力に体を結び付けられた気がして安心する。この直後にここから飛び降りて空を滑空するとは夢にも思わないし説明もされない。
「おっと、船についたらパパとは呼ぶなよ」