サカズキが仕事から帰宅すると、家の明かりが温かく迎えてくれる。大将になる随分前、中将時代から変わらないのだから、もう20年近くこの光景を当たり前のことと受け取っている。
「お帰りなさい、サカズキさん」
居間へ行けば鼻腔を擽る和食のいい香りと、優しい声音に柔らかい笑顔を伴い、お人好しそうな雰囲気の男が出迎える。サカズキの目の前に立つ男は今年で30半ばになる。大人としての落ち着きはあるが、まだどことなく子供特有の無邪気さの残る笑みに、サカズキは「あァ」と返した。
彼はナマエと名乗る少年だった。出会った当初、彼は要領を得ない話を並べては困ったように泣いていた。それはさながら、迷子のように。
海賊に襲われていたナマエを救ったのが始まりだったか、行くあても帰る場所も無いと言ったナマエをサカズキが手元に置いたのは、正に気紛れだった。
家事全般をそつなくこなす、サカズキから見て小さくて、ともすれば一般人よりも非力なこの男を、サカズキはどうしてか手放すという発想を持たない。1度気になって身辺調査をしたが、何の情報も出てこなかった怪しい男だが。
「これの整理を頼む」
「はい」
夕食後、サカズキが紙の束を差し出すと、ナマエは柔らかく笑って受けとる。何日かに1度の恒例の行動だ。これはナマエが、サカズキが見やすいようにと大量の書類を整理、ファイリングしたところに起因する。サカズキが助かっているのは事実で、海軍での文官の仕事を斡旋しようかとも考えたことが間々あるが、何故か嫌だと思うせいでそれは実行されていない。
「今日もお疲れ様でした」
サカズキが風呂を済ませ、縁側でぼうと夜空を眺めていると、ナマエが労いの言葉とともに熱燗を差し出す。サカズキは湯呑み1杯のそれを飲み干し眠りにつく。これは、毎日のこと。
「サカズキさん、月が綺麗ですね」
その度、ナマエは酒を啜るサカズキを見つめてそう呟く。サカズキは空を見上げ月を眺め、そうだなと毎回返すのだ。
「欠けてとるっちゅうんも、また風流か」
「ふふっ、……そうですね」
そして楽しそうに笑って、たまに何かを言いかけてはそうですねと飲み込む。サカズキはナマエの様子に首を傾げるも、追及はしない。
稀に、「僕、死んでもいいなぁ」などと囁くこともあるが、サカズキは多少機嫌を降下させるだけで何も言わない。
ナマエがあんまりにも切なそうにこぼすものだから、サカズキの心のどこかが、触れてはいけないと目を隠すのだ。
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サカズキは硬骨漢であるが、無愛想であるわけではなく、それなりに人付き合いをする。故に、押しの強く朗らかなガープの呑みの誘いを、渋々受け入れることがたまにある。サカズキの同僚も巻き込まれるが、一人はのらりくらりと自分のペースで付き合い、一人はガープに付き合わされて大概潰れる。
サカズキは前者と似たようなものなのだが、今日はガープの絡み酒が酷く、後者のように潰された。
「おっかしいねェ〜?サカズキは結構、酒豪の域にいる奴なんだけど〜……」
自分のペースを守る方、ボルサリーノがガープとサカズキの傍に転がる酒瓶を立たせながら溜め息を吐く。珍しいこともあるものだと、何気なく手にした酒瓶に目をやると“アルコール度数70%”の表記が飛び込んできた。
「おォ〜……こりゃあ馬鹿でしょうよォ〜」
こんなに度数の高い酒ならば、旨味よりも苦味の方が強かろう。にもかかわらず、真っ赤な顔で笑い上戸になっているガープと、そんな彼に突っ伏した広い背をばっしんばっしんと叩かれているサカズキを見やり。再度溜め息ひとつ、ボルサリーノは若干酔いの醒めた頭で、サカズキを送る方を選んだ。
「クザン、ガープさんは任せたよォ〜」
「え、おれが送るの?絶対やだ……って、じゃあおれ、まだこの人と呑まなきゃじゃない?」
「仕方ねえから、今日のはわっし持ちにしといてやるよォ〜」
「そういう問題じゃ、」
「おいクザン!付き合い悪いぞ!もっと飲まんか!」
明日は二日酔いどもがさぞ鬱陶しかろうなぁなどと思いながら、ボルサリーノはサカズキに声をかけた。
そしてサカズキ宅、出迎えたナマエは目を見開き、青い顔で慌てながらもボルサリーノとサカズキを上げた。
サカズキを布団に寝かせてあれこれと二日酔い対策をしてきたナマエを、出された緑茶を啜りながら待っていたボルサリーノは問いかけた。
「君は前にサカズキが拾ったって言ってたナマエで、合ってるかァ〜い?」
「はい、僕はナマエです。ええと、貴方はボルサリーノさんですよね。サカズキさんからたまにお話を聞きます。今日はどうもありがとうございました」
礼儀正しく頭を下げるナマエに、ボルサリーノは気にするなと返してまた一口茶を啜る。
「わっしもたまに君の話を聞くよォ〜……不可解なことを言うけど気がきくって」
ボルサリーノの言葉に僅かにはにかんだナマエ。ボルサリーノはまた問う。サカズキがナマエの話をする時、必ず意味を考えているあの言葉の意味を。
「月が綺麗なのは分かるけどよォ〜、死んでもいいってのは拾ったサカズキに失礼じゃないかァ〜い?」
きょとんとしたナマエは、「ああ」と呟き頭を掻いた。
「そういう意味ではないんです。これ、サカズキさんには言わないでくださいね。あの人が自分で気付くのを、僕、待っているので」
そう前置きしてナマエが語ったのは、故郷でのその言葉の含蓄。ボルサリーノはそれを聞き、そしてすぐに笑いだした。
「あいつは中々鈍感だからねェ〜。そんなんじゃァ、いつまで経っても気付かないよォ〜。君の故郷の話なら尚更ねェ〜」
「いいんです、気付かないならそれで構わないんです。知ってほしいけど、受け入れられるか分からないじゃないですか。拒絶される方が鮮明に思い描けるので、やっぱり今のままで充分です」
「気付くのが楽しみなんじゃないのかァい?」
「待っているだけで、あまり楽しみにはしてないです」
口では言うが、寂寥を抱えたように笑うナマエ。それに片眉を上げ、20年近くも手元に置いて離さないなら、つまりはそういうことなのではなかろうかと、ボルサリーノは思った。けれど、言わない方が面白そうなので、意地悪な彼は「ふぅん」と返したきり言葉を続けなかった。
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変わってしまったなぁと、ナマエは独り言ちた。ポートガス・D・エースの処刑、マリンフォード頂上戦争と呼ばれるあの日から2年。海軍の建て直しや世界徴兵、パンクハザード島での決闘などなど。
サカズキは元帥になり、周囲から見れば大将時から何も変わらない苛烈さを宿す彼だが、ナマエからするとどこかが変わってしまったらしい。正確には、1年ほど前から。
書類整理は頼む。夕食だって何の感想も無いが、平らげておかわりを要求する。寝る前に熱燗を飲むことだって同じだ。
「僕は何かしてしまったのかな」
サカズキ一人で住むには広い(ナマエが増えたところで広いことには変わりない)家を、日課の掃除をしてまわるナマエは、サカズキの寝室で、朝まではあったであろう布団の温もりを思いながら溜め息を吐いた。寝ていた跡を撫で、違和感を思い出す。
例えば、帰宅が毎日ではなくなった。忙しいからかと思えば、会話が減った。話をする時はお互いに目を見てするが、会話が減るにしたがってその、目を合わせる行為も極端に減った。
「寂しいなぁ……」
月が綺麗ですねと声をかけても、以前のような、ぶっきらぼうながらも温かみのある「そうだな」という返事がなくなった。そのあとに続く他愛ないサカズキのその日の話も、なくなった。
近々出て行こう、でもどこに行こう。ぐるぐると回る思考にじわりと涙ぐむナマエは、今日が満月だということを忘れている。
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ナマエがサカズキを変わってしまったと思った1年前、ナマエの知らないところで、確かにサカズキは変わっていた。
「サカさん、今日も帰らねえんで?」
世界徴兵で大将に就任した男、イッショウがサカズキにのほほんと問いかけた。サカズキはイッショウから書類を受け取り、不備が無いか確認しながら返事をする。
「お前にゃあ、関係無かろうがァ」
「待っている人がいると、小耳に挟んだことがありやして」
「……ふん」
「根詰め過ぎて倒れねえか、あっしも心配なんでさぁ……それとも他に、帰りたくねえ理由でも?」
サカズキはイッショウをその鋭い眼光で睨みつけるが、生憎とイッショウは光を失っている。
サカズキの雰囲気の変化に「怖い、怖い」と、のらりくらり笑うだけだ。
「…………昔っからァ、あいつは死にたがっちょった。最近では“死にたい”言う機会が増えてのォ、わしがおらん間にどこへなりとも消えさせてやろうと思っただけじゃァ」
面倒そうに返された言葉にイッショウは首を傾げ、何かに思い至ったのか忍び笑いをこぼす。
いら、とサカズキの眉間に皺が寄るも、イッショウに分かる筈もなく。ただ彼は、眩しそうに目元を和らげて、口を開くのだ。
「ワノ国に、本好きの間じゃあ有名な掛け合いがごぜぇやす。サカさん、その人“自分は死んでもいい”と言っとりやせんでしたか?」
「あァ?……確かに、そう言うとったが」
イッショウはその返事に笑みを深める。
「とある作家先生お2人が、ある言葉を違う言葉へ言い換えたそうで。それが、“月が綺麗ですね”と“自分は死んでもいい”だったと。……サカさん、あんた随分と、その人に想われてやすね」
「……回りくどいのォ、分かるように言わんか」
サカズキが低く言うと、イッショウはどこか面白さを含んだ声音で白状する。これを言えば、サカズキがどんな反応をするのかと、わくわくしているようだ。
「へぇ……意味は、」
その日の夜、拾った彼の真意に気付き、サカズキは途端にどう接していいのか分からなくなった。
「何故自分を?」「命の恩人だから?」「まさか憧憬と恋愛を取り違えているのでは?」……色々と浮かぶ憶測、その度にサカズキを見るナマエの目が、確かに“そういう意味”だと告げている。長い年月をともに過ごし、何故今まで気付かずにいたのか。サカズキは自分の鈍感さに頭を抱えた。
幾日も悩み、ふとナマエではなく自分自身を顧みて、疑問が生じる。「何故、得体の知れない者を20年近くも傍に置き続けていたのか?」
書類整理をしてくれるから。家事をしてくれるから。優しさが心地好い、気遣いが心地好い、子供の無邪気さの残る笑顔が好ましい。
理由を上げ連ねて、おやと首を傾げた。もやもやと胸中を満たすのは、感じたことの無い“何かしら”。
「何じゃあ、サカズキ?恋する乙女みたいな顔して」
答えをくれたのは、意外にもガープだった。彼の言葉に一瞬思考停止させると、頭が熱くなり、同時にすとんと納得してしまった。
それからだ。サカズキが中々家に帰れなくなり、ナマエと顔を合わせられず、温かく和らげられるその目を見られなくなったのは。……50を過ぎ、ようやく“初恋”とやらを経験したらしいサカズキは、ナマエとの接し方が分からなくなったのだ。
長く同僚をやっているからか、それともナマエ本人からその真意を聞いたからか。サカズキの変化に気付いたボルサリーノはにっこりと、それはそれはいい笑顔で悩むサカズキを焚き付けた。
「言いたいことがあるなら、さっさと言いなよォ?見てるこっちがいらいらするからさァ〜」
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満月の夜、空を見上げて今日の告白を最後にしようと決意したナマエは、常より早い帰宅のサカズキを出迎えて驚いた。
いつもの3割増しで険しい表情、今更「迷惑になったか」と考えるナマエに、サカズキは口を開く。
「……随分と待たせて、悪かったのォ」
「? 今日はいつもより、お帰り早いですよね?」
ナマエの返事が聞こえているのかいないのか、サカズキは唐突に帽子のつばを引き下げた。俯き加減に再度口を開く。紡ぐ声は、平常の堂々とした彼に似つかわしくない、小さく震えているもので。
「わしゃあ、鈍いけぇ……素直に言うてくれんと分からん」
「……えっと?」
頭の隅で“もしや”と思うも、打ち消すナマエ。はてと首を傾げたナマエに、サカズキは今まで後ろ手に隠していたある物を、ナマエの目の前に突き付けた。
「わ!?」
それは大輪の、真っ赤な薔薇の花束だった。突然のことに目を見開くナマエは気付かないだろうが、数えてぴったり108本ある。
「ナマエ……つ、月が綺麗じゃのォ……」
呆然とサカズキを見上げたナマエの目に、やっぱり険しい顔が映る。けれど、明るい満月に照らされたサカズキの耳は、能力を発動したのかと見紛うほどに赤いと気付く。
あ、と呟きが漏れ、そして幸せを顔いっぱいに溢れさせたナマエ。どこか泣きそうにも見えるその笑顔で、サカズキに抱きついた。
「僕、死んでもいいです……!」
サカズキは平常よりも高い体温を自覚しながら、僅かに口角を上げて「あァ」とだけ呟いた。
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後日、サカズキ直々に本人の文官に任命されたという男が海軍に入隊した。
並ぶ2人を見かけたボルサリーノは、溜め息混じりに苦笑する。
「やっとかァ〜い」
いつもと変わらないようで、けれども柔らかい雰囲気をまとう2人は、その声を耳聡く聞きつけ振り返る。
むっと口をへの字に曲げたサカズキと、照れながらも幸せオーラを撒き散らすナマエを見て、ボルサリーノはまたやれやれと苦笑した。