トントントントン、とリズミカルに包丁がまな板を叩く音が意識の外から響く。それを聞きながらソファーに寝転んで、ナミから下げ渡された新聞を読む時間は最高だ。
 中身は当然興味深いし面白い。今回は紙面の片隅で連載されてる小説がまさかの展開を迎え、続きが非常に気になってしょうがなかった。
 けれどなにより、この状況が良い。午後の日差しが差し込むダイニングキッチン。ほどよく温められた船室。寝心地の良いソファー。遠くから肌に感じる好きな人の気配は、夢のように柔らかい。
 しかし横になりながらだらだら読むと眠くなってくる。一瞬だけ仮眠しようと顔の上で広げていた新聞を閉じて、そのまま目元を隠そうとした瞬間────「おい、ナマエ」とキッチンの方から低い声が飛んできた。
 ガサリと音を立てながら新聞を顔から下ろしてそちらを見る。サンジはワークトップに手を置いてこちらを見つめていた。視線が合うのは当たり前だが、いつ合わせても心臓が小さく跳ねて、気付かれやしないかと密かに焦る。
 努めて平静におれは呼びかけに応じた。

「なんだ?」
「暇なら魚釣ってきてくれねェか」

 ちょうどいいタイミングで頼んできたな。いや、暇になるのを待っていたのだろうか。寝ぼけた頭でそれを聞き取ったおれはあいまいに頷いた。

「いいけど、もしかして食材なくなったのか?」
「なりかけだ。なるべくたくさん頼むぞ」
「うーん、そんなに釣れるかァ?」

 サンジからの頼みなら断るはずもないが、残念ながらあまり釣りは得意じゃない。それに今の時刻はおやつ時を過ぎているし、タイミング的に晩御飯に出す予定なのだろう。間に合うか怪しい。
 思わず首を捻ると、サンジは呆れたように口から煙を吐いた。

「釣れるのか、じゃねェ。釣るんだよ」
「……んな無茶な……わーったよ」

 そう言われちゃあ、何としてでも釣りあげなくちゃならない。
 そこでようやく観念しておれは上体を起こす。新聞は電伝虫の傍に置けばいいだろう。たしか食わないはず。
 ソファーから立ち上がってサンジを見る。サンジは目を細め、なんとも見事に口角を上げてみせる。そのかっこよさといったら、眩しくてたまらず視線を逸らしそうになるほどだ。

「よろしくな」
「おう」

 やはり直視できなくて、手のひらを軽く振りながら、結局逃げるように踵を返した。





 夕方も近くなってきたがいまだ芝生甲板は賑わいをみせている。
 といっても、主におれの周囲だけだが。

「ヨホホホ。ナマエさんが釣りをするなんて珍しいですねェ」
「コックに頼まれたからな」
「相変わらず尻に敷かれてやがるなァ」
「……なーんでおっさんとおじいちゃんに挟まれながら釣りやんなきゃなんねェんだよ。お前らも釣り竿持ってきて手伝ってくれよ」

 ニヤニヤと愉快に笑いながら茶化す二人に文句を言って、ため息をついた。
 左にフランキー、右にブルックというむさ苦しい花に囲まれて、おれは手すりに肘を置いて釣り糸を垂らしている。
 しばらくは一人でうんともすんとも言わない海面をぼーっと眺めていたが、いつのまにか二人がやってきてこのありさまだ。
 あまりにも呆けていたからか近寄ってくる気配も、芝生を踏みしめる音すらも聞こえなかった。突然背後から声をかけられた瞬間は驚きすぎて、危うく竿を落としかけるぐらいだった。
 なにはともあれ人手が増えるなら、最悪おれが釣れなくてもこの二人なら釣るかもしれない。コックの要求を果たせる確率が上がるのだ。
 だから素気無く返すついでに提案したが、二人は肩を竦めておどけてみせる。

「いやァ〜サンジさんが直々にナマエさんに頼みましたしねェ」
「邪魔しちゃいけねェよなァ〜」
 ……なるほど、どうにも手伝う気はないらしい。
「言いたいことはわかったがすでに邪魔だ。散れ散れッ!!」

 釣りが下手なりに無心を心がけて魚の気を引いていたというのに、心が乱されてしまっては来るものも来ない。それに終始からかわれてしまってはこちらの身も持たない。
 おれは片手でしっしと追い払おうとするが、なぜか動く気配はなかった。結局フランキーもブルックも居座るつもりらしい。
 一体何が面白いのだろうか。男三人並んで海を眺めるだなんてそうそうない状況だろう。相変わらず寒い絵面だが、ひとまずは大人しくなったのでよかった。
 おれは二人から意識を離して竿の先を見つめる。ここまでかすかな引きがあったものの、引き上げる前に逃げられてばかりだ。手のひらに伝わるのは潮の流れだけ。やっぱり駆け引きはうまくないのかもしれない。
 するとややあってブルックが大きく動き出した。そちらに視線を向けると、彼は愛用のヴァイオリンを構えており、これみよがしに弦を振って注目させた。

「このままじゃなんでしょうし、お魚さんをおびき寄せる音楽でも奏でましょうか」
「ンなことできんのかよ!」
「はい、音楽家ですので」
「音楽家ってすげェ〜」

 フランキーのツッコミももっともだが、ブルックが平然と『音楽家だから』と言えば妙な説得力がある。あまりにも自信満々に言うからだろうか。
 そしてブルックはゆっくりとヴァイオリンを弾き始めた。いつも引き奏でるものと音色や雰囲気が違うのは魚のためだからか。それでも耳に心地良いから不思議だ。しかし聞いていると、だんだんとこの素敵な音に近づいて釣りあげられる魚が可哀想に思えてくる。

「どうだ、ナマエ。なにか手ごたえはあるか?」
 フランキーに聞かれておれは首を横に振った。
「手ごたえも気配もなーし。待ってたら来るのかな」
「それじゃあ曲を変えてみましょうか」

 言うなりブルックは流れるように音色を変えた。さっきより荒々しい、まるでロックを彷彿とさせるような激しい音。ヴァイオリンでギターのような表現ができるのは流石としか言えないだろう。
 ノリのいい曲に身体を揺するとそれが嬉しかったのか、ブルックも骨を揺らして踊るように弾き、フランキーもあれこれポーズを決めながら踊り始めた。
 ──と、そこで突如、音沙汰のなかった海面に異変が現れた。
 その異変とは待ちに待った魚影だ。見た瞬間、音楽家ブルックのすごさにとてつもなく感動した。
 しかし念願のそれを認めたおれは思わず二度三度目を瞬かせて、手の中で感じる物体の凄まじさを感じつつ、おそるおそるフランキーに呼びかけた。

「あのさ、フランキー」
「アウ」
「あの大きさは甲板に乗ると思うか?」

 するとおれの意図に気づいたフランキーが近寄ってくる。そして海面を見ると目を丸くし、顎に手を当てて眉を寄せた。

「……ギリギリ、だな」
「そっかそっか。いやーまさかそんな、ハハ──はっ!?」

 この竿がそんな大物を引くはずがない。一瞬現実逃避をしたが、しかし現実は猛スピードで逃げるおれを捉えた。

「ウオオオオオッ!!」
「ナマエーーーー!!」
「ヤバイヤバイヤバイ!! 引きが強いってもんじゃない!! 持ってかれる!! いだだだ!!」

 あっというまに竿ごと海中に引きずり込まれそうになり、なんとか格子に引っかかるよう足を入れたが、乗り出しかけた腹に手すりの部分が食い込んで内臓が押し潰されそうになる。
 慌てたフランキーがおれの身体を掴んで引っ張るも、サイボーグの力よりなお強い。このままじゃ一人と一匹の力でおれの身体が真っ二つになるかもしれない。あらゆるところに強烈な力が加わって、悲鳴を出す余裕もないぐらい痛い。

「ああっ!! ちょっと二人とも見てくださいよ!!」
「何がァ!?」

 額に脂汗流しながら海の化け物と格闘していると、突如視界の端からブルックの声が響く。
 苛立ちも露わに顔を向けると、ブルックは涙を流しながら身体の側面に腕をピタリとつけて芝生に背中を預けており……いや、そもそも甲板はそれができるほどの傾斜じゃない。

「ライオンちゃんが傾いてるんですよォ!! 見てくださいこの斜め四十五度!! このままだと転覆しちゃいます!! イヤァ〜〜〜〜!!」
「だからサニーと呼べつってんだろ!! しょうがねェナマエ、竿を離せ!!」
「クソッ!!」

 お得意ギャグも真っ青な状況にご自慢アフロをブンブン振るほど取り乱すブルック。冷静に状況を判断を下すフランキーだけが救いだ。これ以上は船体もおれも耐え切れない。
 潔く竿を手放す。すると竿は見る間もなく海に吸い込まれていき────瞬く間に視界は海の蒼さから空の青さへと変わっていた。

「うおっ!!」
「ギャアッ!!」

 サニー号の復元力によって各々が宙を舞い、芝生甲板へと落ちる。身体の節々が痛くて動かせなかったおれは見事着地に失敗し、情けなくうずくまった。

「ウゥッ……揺れ戻しがすっげェ、オエッ」
「間一髪だったな」

 二日酔いの頭みたいにぐわんぐわん揺れる船体にあっけなく気分を悪くする。
 平然としたフランキーの声を聞きながら噎せていると、見えないところで慌ただしくドアの開け放たれる音がした。

「ちょっとちょっと!! さっきの傾きなんだったわけ!? 危うく頭ぶつけるところだったじゃない!!」
「オイオイどうしたァ!?」
「何かあったのか!!」

 測量室からナミ、男子部屋からウソップとルフィの声が次々に鼓膜に入り、頭を上げた。各自顔を青ざめさせたり輝かせたりしておれたちを見ており、当事者として居た堪れない気持ちになる。

「あー、実はァ……」

 なんとか立ち上がって理由を説明しようとした瞬間、フッとあたりが暗くなる。今の天気は突き抜けるような快晴だというのに急に曇ったのか。疑問に思った瞬間、医療室から出てきたチョッパーが「ギャアアアッ!!」と悲鳴を上げた。

「ナマエ!! 上ッ、上ーッ!!」
「えっ?」

 急いでチョッパーの指し示す方向を見上げると、なにやら巨大な物体が────巨大な魚が空を舞っていた。
 紫がかった青い鱗が陽光を弾いて輝く。突き出した目玉、立派なたらこ唇をひん剥いた先に尖った牙。凶悪を体現した口がこちらを向いていた。ああ、だからか。あたりが暗くなったのは……じゃなくて。
 このまま留まっていたらアレは確実におれを食う。
 一瞬で叩き出した予想図に、手に取るように血の気が引く。叫ぶよりも先に足を動かした。

「走れナマエ!!」
 すでに走っていたフランキーが急かすが、おれは歯を食いしばって頭を横に振る。
「無理だ!! 酔って走れねェ!!」

 完全に平衡感覚を失っており、いまだに回復していない。胸を巣食う不快感は足を鼓舞させるのを阻害しており、なんとか歩けても走り出せないのだ。
 フランキーがこちらに駆け寄るのを視界に入れながら歩いていると、その片隅でルフィが不敵な笑みを浮かべてブンブンと腕を回していた。隣にいるウソップはすっかり青ざめた様子で空を見上げている。

「よし!! ここはおれが──」
「ここは任せろ船長!!」

 ダイニングキッチンの方から鋭い声が飛んだ。
 そういう場合じゃないと理解していても、身体は勝手に反応する。
 振り返るとサンジはすでにデッキを蹴り上げて、魚の元へすっ飛んでいた。瞬く間に近づくとサンジは足に炎を宿す。

「"悪魔風脚" "熟成" "グリル=ショット"!!」

 強烈な黒足の技が魚を焼いて打ち上げる。空中を蒸気と煙、そして魚肉の焼ける匂いが漂い、一瞬にしてあたりが白く染まった。
 しかし蹴り上げたことで魚は再び高度を上げてしまった。追撃するようにサンジは空気を蹴って進んでいくと、そこで「わー待てサンジ!!」と焦ったウソップの声が轟いた。

「その高さで蹴り落としたらサニーに穴が開いちまう!!」
「ヤベッ、高く上げすぎた!!」

 冷静さを欠いたサンジは体勢を崩して宙に舞う。あのままだと海に落下しそうで、おれにできることはないのに焦りで背中を焼いた。
 その瞬間、びょんっという緊迫した雰囲気に合わない音が響く。

「今度こそおれの出番だな!! "ゴムゴムのォーーーー網"!!」

 気づけばルフィが飛び出しており、両腕を伸ばし指を交差させて格子状にさせると,
指先をフォアマストの柱に、同時に足も伸ばしてメインマストの柱に巻き付けて身体を水平に倒した。
 交差させた指が大きい網になって風に揺らめいた瞬間、それまで状況を悲壮な面持ちで眺めていたクルーたちはみな一様に顔を輝かせる。

「でかしたルフィ!! "粗砕"!!」

 意図を汲み取ったサンジは体勢を持ち直すと、そのゴム状のネットめがけて魚を蹴り落とす。するとこんがり焼けた巨体は空を切って、吸い込まれるようにゴム状の網に飛び込んでいった。
 質量に応じてゴムが伸び、無事に受け止められた────と思いきや。

「ギャアアアッ!! 船が転覆するゥー!!」
「イヤーーーーッ!!」
「サンジ君手加減しなさいよー!!」
「ナミさんすまねェ!!」

 落下した勢いで船が引っ張られ、再び甲板が壁になりかける。おれは慌てて傍らのフランキーの腕にしがみついた。フランキーもどうにか芝生甲板を掴んで姿勢を安定させる。
 あちこちで悲鳴が上がる中、ルフィはすぐさまゴムを調整したようで、あっというまに船体は元の角度に戻る。水平に戻った瞬間、フランキーを介して身体が宙に浮かび、急な激しい揺れで気持ち悪さが増大した。
 その後フランキーから離れてうずまっているあいだ、どしんっという鈍い音が響いて船体が小さく揺れる。顔を上げると船大工の見立てどおり、甲板ギリギリに収まるサイズの巨大な魚が芝生に鎮座していた。
 サンジの強烈な蹴りを二回も入れられたからか、はたまた焼かれたからかは知らないけれど、とにかくすでに事切れているらしい。凶悪な面をしているその魚はピクリともしない。

「すんげーうまそうな匂いだ!! サンジ、食べていいか!?」
「あとでちゃんと調理するから待ってろ。────おい、ナマエ。大丈夫か?」

 クルーたちが獲物に集まって物珍しげに見ている中、サニー号に戻ってきたサンジがこちらに歩み寄ってしゃがみこんだ。
 間近で見ると心臓に悪くて顔を逸らしそうになるが、我慢して問いかけに頷いた。

「どうにか大丈夫だ」
「そうか。よくやったな、大助かりだ」
「……!!」

 サンジは歯を見せて笑うと、ポンと肩を軽く叩いてくれた。好きな人に労われて現金な身体は、さっきまで具合を悪くしていたというのにあっというまに吐き気が収まっていく。つい破顔してしまった。
 それを認めたサンジは目元にゆるく弧を描いたあと、なぜかキュッと口元を引き結んだ。

「だがな」

 そして何と言えない表情でおれを見つめる。それには悲しみやら非難の色やらがないまぜになっており、とてつもなく複雑だ。しかし心当たりがなく首を捻ると、サンジは重たいため息をついた。

「最初の傾きで鍋がひっくり返って仕込みが無駄になった。後片付けも手伝ってくれねェか?」

 言われて納得するも、力なく項垂れる。今回の原因はおれ自身にあるので、そう言われてしまっては断れない。しかし犯人は他にもいる。

「ハイ……でも元はといえばブルックの手柄でもあるんです。あいつも道連れにしてください」
「ええっ!? 私もですか!?」

 魚を眺めてはしゃいでいるブルックを指差すと、巻き添えを食らったブルックは驚きの声をあげる。けれど彼自身も思うところがあったのか、それ以上は何も言わず大人しくこちらに駆け寄ってきた。

「よし、二人ともこい」
「はーい」

 指示されてブルックと並んで素直にサンジの後ろをついていく。金髪の端から紫煙がゆるく漂うところをぼんやり見ていると、傍らのブルックが背中を曲げてこちらに顔を寄せてきた。

「次は別の曲にしますね」
「当分は勘弁してくれ……」

 改善してくれるという心優しい音楽家の提案を聞いて、おれは気遣いに感謝するも首を横に振った。ブルックの奏でる曲ならなんでも嬉しいが、しばらくはご遠慮願いたい。





 ここは新世界。楽園と称される偉大なる航路の前半と比べてはるかに過酷な船旅を、幸運にもサウザンド・サニー号は特にこれといった障害もなく進んでいた。
 しかし何事もないのは良いが、なさすぎるのも困る。かれこれ一週間ぐらい海上で過ごしているが、一向に次の目的地である島の影すら見えない。
 頼れる天才航海士ナミの判断に間違いはないが、けれど算出した日数より長引いているのは事実らしく、今も測量室で頭を捻っている……とはロビンから聞いた。
 先日の騒動で大量の肉を手に入れしばらくは困らないはず。問題は野菜だろうが、最悪ウソップのポップグリーンが犠牲になるだけだろう。
 そうした長旅で暇を持て余すのはどのクルーもそうだ。ここぞとばかりに自分の得意分野を極める者も多くいるが、しばらくすれば気分転換に繰り出す。
 それは青年が多い麦わら一味でも少数派である、酸いも甘いも噛み分けた大人たちも変わらない。
 今夜はアクアリウムバーでいろんな話に花を咲かせているらしい。それに偶然出くわしたのは、おれがルフィが吊り上げた魚たちを眺めようと足を向けたからである。


「ナマエは素直だけど奥手よね。それじゃあサンジは気づかないわ」
「まずは具体的なアプローチから始めましょう」
「いーや、まだコツコツ好感度上げていった方がいいんじゃねェかァ?」
「まさに骨だけにコツコツと!! ヨホホホ!!」
「ナマエはまだ骨じゃないわよ」
「待て待て待て、好き勝手に喋るな。そんで絶対遊び半分で言ってるだろ」

 入るなり早々大人たちは笑顔で出迎えてくれたが、ロビンの言葉を皮切りに口々と喋り始めた。
 矢継ぎ早に放たれる指摘やらアドバイスやらで頭がこんがらがるも、確実にわかることを言えば、先に反応したのはロビンだった。彼女はさも悲しそうな顔をしておれを見つめる。

「ひどい言いがかりね。失礼だわ」
「……手に持ってるのがワイングラスじゃなけりゃ受け入れた」
「あら、残念」
「おれの恋路を肴にするな!!」

 指摘するとすぐさまロビンは微笑を浮かべて肩を竦めた。酔っ払いの冗談は真に受けないに限る。
 カウンターに座っている彼らの前にはグラスやらつまみが広がっていた。量が少ないとはいえ凝った品物が多いのは、ほかならぬコックがロビンを思って作ったのだろう。羨ましいといえば羨ましいが、それがサンジである。
 しかしきつく言ったが嫌がってはいない。彼らは二年前からおれの想い人を知っており、そして今に至るまでの状況を把握している上での密かな気遣いは、どんな形であれありがたい。少々お節介がすぎやしないかと思うが。
 するとブルックは、なぜか呆れの滲んだような空気を纏ってこちらを見つめる。

「だってねェ、ナマエさんわかりやすいですから」
「サンジを見る時の目も顔も輝いてるしな」
「気づいていないのはきっとルフィとチョッパーとサンジだけね」
「あれ、それ言っちゃっていいんですか?」
「…………は?」

 次々と寄越された内容に目が点になり、素っ頓狂な声をあげておれは三人をただただ見つめた。
 これまでおれの気持ちを知っているのはこの三人ぐらいだけだと思っていたが、いや、え? いつのまに?

「なんで周知の事実になってんだよ!!」

 言葉の意味をちゃんと理解した瞬間恥ずかしさが込み上げてきた。つい頭に血が上り、思わず吠える。

「いやだからおめェがわかりやすいからだって」
「そんなに!? そうかァ?!」

 フランキーがため息をつきながら言うので感情のまま噛みつくと、今度はニヤニヤと笑いながらこれみよがしに指を見せて折り始めた。

「言ってやろうか? まずサンジの次にダイニングキッチンに居座っているだろ。次にサンジがいなくなったらさりげなく探し回ってるし、他には──」
「わー!! わー!! 言わなくていい!!」

 聞くだけで羞恥で過敏になった神経が過剰反応してしまう。言葉に重ねることでフランキーの声を遮ると、サイボーグは肩を竦めておどけてみせた。

「なんだ。自覚してんじゃねェか」
「してもしなくても普段の行動を聞かされたら恥ずかしいだろ!!」
「ふふっ、まるで犬みたいで可愛いわよね」
「い、犬……、…………」

 くすくす笑うロビンはさきほどのからかうものとは違って無邪気であどけない。しかし放たれた内容は、言われた本人としては刺さるものがあった。

「あっ、ナマエさんフリーズしちゃいましたよ。もしもーし」
「褒めてるのよ?」

 ロビンの言うとおり奥手なのでさりげなくアピールしているつもりだが、もしサンジに犬みたいに付きまとっていると思われていたらどうしよう……と一瞬だけ思考に意識を飛ばしてしまうとブルックに心配された。
 目の前を横切る白い骨が目に入り、ロビンの甘い声が脳に響いたところで現実に引き戻されたおれは、とりあえず心を落ち着けるために深呼吸をする。

「……よし、わかった。おれの恋心がみんなにバレるぐらいわかりやすいんだろ? お前らがついお節介かけたくなるぐらいにはよ」

 他の面々といえばゾロとウソップとナミだ。ナミならまだしも、男である二人なら彼女より一緒にいる機会があるというのに、なぜ今のいままで気づいていることに気が付かなかったのだろうか。変に気を使われていたのだと思えばその配慮にまた気恥ずかしさが沸いてくる。
 しかしそれならば、とひとつの疑問が思い浮かぶ。

「だとしたらよ、どうしてサンジは気づかないんだ? あいつの人を見る目がありゃおれの気持ちもすぐにわかるだろ」

 そう。サンジは元はレストランで働いていたし、そもそも人の機微に敏いはず。女性限定かもしれないが、ナミとロビンに終始気を回していることからも確かだ。一応男たち相手でも異変があればなにかと気にかけてくれるのは、チョッパーの次にこの男が多いし、認識に違いはないはず。
 だからルフィやチョッパーはさておき、この人たちと彼らが知っているのだとすれば、どうしてサンジは何も言わないのか。気づいたら何かしらの反応ぐらいしそうだが。
 そう思って尋ねると、急に三人は各々難しい顔つきへと変わる。素朴な疑問だったのにあまりにも深刻な問題だっただろうか、と逆にこちらが心配になってしまうぐらいだ。
 口に出さず焦っていると、最初に口火を切ったのは目を伏せたロビンだった。

「ひどいことは言えないわ」
「私もとてもじゃありませんが口が裂けても言えません。あっ、もう裂ける口がありませんでした。ヨホホホ!!」

 今ほどスカルジョークが生きる場面もないだろう。沈んでいたロビンも、今回ばかりは口角を小さく上げて笑った。
 いつのまにか気を張り詰めていたおれも、途端に気が緩んで肩の力が抜ける。切り替えるよう小さく息を吐きだして、なるべく慎重に尋ねた。

「そんなに言いづらいことなのか?」
 するとフランキーが神妙な面持ちで、身を乗り出すようにこちらと向き合った。
「おめェを思えば当然だろうがよ。いいか? サンジは女好きだろ」
「おう」
「そんでおめェは男だ」
「うん」
「そもそもはなから眼中にねェ。ということは、あいつは自分が男から好かれるのを微塵も想像しちゃいねェのさ。どういうことかわかるか?」

 フランキーの言葉の内容は至って当然で、真摯だった。何を今更とも思うが、しかしそこを丁寧に考えたことはない気がする。
 少しのあいだ頭を捻り、そのあとおれは自信なさげに口を開いた。

「……つまり、サンジは自分が男を好きになると考えていないから、おれからの好意も恋愛じゃないと思ってるわけ?」 
 するとどうやら正解だったらしく、フランキーは小さく頷いた。
「まァ、そうだな」
「サンジ、あなたのことを弟分みたいに見てるから」
「可愛がってはいますけどねェ」

 サンジがおれを悪く思ってないとは知っていたが、第三者だとそんな風に見られているのだと痛感させられる。
 犬だの弟分だの可愛がってるだの、そもそも恋愛対象じゃないだの。なんとなくうっすら思っていたり、身に染みて感じていることだ。
 けれど。

「そんなの、この感情に気づいた時から承知の上だ」

 今まで好意を抱いてきた相手はすべて女だった。しかしどういうわけか、今回は男を好きになったのだ。
 最初は当然戸惑った。けれどぶっきらぼうなのにさりげない優しさも、頭の回転が早いとこも、所作が綺麗なところも、他にも些細な気に入ったポイントがある。それがいつしか日々積もり積もって『好き』という形になったのだ。
 言わば人として惚れている。そこに性別は関係ないと身を持って知っているからこそ、俗に言う両思いが叶わなくてもおれは好意を抱えていける。そう信じている。

「それでも好きなんだからしょうがねェよ。これまでどおり仲良くできりゃ十分」
「ナマエ……」

 サンジの好きなところを思い浮かべたらつい顔の筋肉が緩んでしまう。
 へらりと笑ってみせると、三人はなんとも言い難いような表情をしていた。悲しそうじゃないけれど、安心してもいない。そんな感じの曖昧さ。
 せっかくブルックがスカルジョークで紛らわしてくれたのに、また辛気臭い空気に包まれてしまった。妙に居心地が悪くなり、おれはカウンターに向かって手を伸ばす。

「あーあ、やめようぜ! 湿っぽい空気なんてらしくねェし。おれも酒飲もうかな」

 そして適当なワインボトルを手に取る。飲む前に赤か白かどんな種類のワインか確認しようとラベルを見たその時、突然ブルックが立ち上がった。
 ぎょっとして視線を向けると、彼はふるふると全身の骨を震わせ、次第に涙を流し始める。

「ナマエさん……なんて、なんて純粋な想いなのでしょうか!! 私感動いたしました!! この高ぶりをメロディーにしたためてもよろしいでしょうか!?」
「何時だと思ってんだよ!! やめろ!!」

 感極まったブルックがさっとヴァイオリンを取り出して構える寸前で慌てて止める。今の時刻はたしか酒も美味い日付が変わる前だ。それに夜だから空気が冷えて日中より音の通りが良くなる。すでに休んでいるチョッパーや他のクルーが起きてしまうかもしれない。

「そうよブルック。いい加減寝なくちゃ不寝番に響くわ」
「ん? 待てよ。おれァいつ船番だったか?」

 今度はロビンの注意を聞いてフランキーが顎に手を当てて首を傾げた。相手が相手だったら怒りそうな発言に心配すると、にわかに慌ただしい足音が聞こえてくる。

「おい、フランキー!! どこにいやがる!!」
「あっゾロだ」
「ちょうどお迎えが来てよかったですねェ」

 どうやら次はゾロとフランキーの当番らしい。しかしゾロはアクアリウムバーのそばに来るも、そのまま通り過ぎていった。
 すぐ近くに探し人がいるというのに遠ざかる足音がなんとも虚しい。しみじみと呟いたブルックの言葉も意味をなさなかった。ゾロの行動に笑いながら、フランキーはおもむろに立ち上がる。

「ちょっくら行ってくる。グラスグラスーっと」
「いいわよ。片づけておくわ」
「アウ! ありがとよ、ロビン。んじゃあな」
「いってらっしゃーい」

 手をあげて別れを告げると、フランキーはゾロが消えていった方向へと早歩きで向かっていく。広い背中を見送った後、ロビンは空いた皿を重ねていった。
 残っている物はおれとブルックに勧めたのでありがたく頂戴した。オリーブとアンチョビを乗せた薄いビスケットは、塩が利いてて美味しい。残り少ないワインボトルも飲み干して空にする。酒と合わさると味の深みが増して、コックの技量をしみじみと感じた。
 その後ワインを片付けてブルックが空いたグラスを持ったところで、ロビンが優しく微笑んだ。

「それじゃあ、ナマエの熱い想いも聞けたところでお開きにしましょうか」
「茶化さないでくれよ」

 ちょっとしたからかいへはにかみながら返す。するとブルックが「ヨホホホ」と柔らかく笑った。

「しかし、いつかナマエさんの想いが報われるといいですねェ」
「それが目的で好いてるわけじゃねェからいいよ」
「うう、なんと健気なんでしょうか……グスッ」
「涙流すほど?」

 当然のことを言ったまでだというのに、ブルックは再び涙を浮かべている。一度流すと涙腺が緩んでしまうのか、はたまた年なのか。おれにはいまいち判断できなかった。
 けれど、ふと考えるのだ。
 『もしサンジと両思いになれたなら』という甘美な空想は、殊勝なことを言っても頭をよぎる。
 もし手を繋げたら、抱き合えたら、キスができたなら……と一通り妄想してははしゃぐ。その時はふわふわと心が踊って、とても楽しい。しかし終わった後は気持ちが静まり返って、いつも虚しくて、辛くなる。
 だからおれは、叶うはずのない願いを忘れることにした。思いついてもすぐさま掴まえて、封じ込めたのだった。





 それから三日後。無事サニー号は島に上陸を果たした。
 久々の陸は無人島でも凶暴な生物が住み着いている島でもなく、人が生活を営んでおり活気あふれる港町が栄えていた。石畳で舗装された道と、小高い丘にだんだん連なっていく赤レンガの家屋、白い屋根が秋島の春の青空に映えており美しい街並みを作り上げていた。
 ようやく辿り着いてみな一様に喜んでいたが、特にナミのはしゃぎっぷりはこれまでの苦労が報われたと言わんばかりだった。
 各自がいそいそと準備して船から抜け出していく中、おれはのんびりと身支度を済ませる。
 ナミから渡された小遣いで何を買おうかどこへ行こうか、と予定を膨らませながらリュックに荷物を詰め込んでいると、遠くから「ナマエー」と間延びした調子で呼ばれた。
 顔を上げると、そこにはすでに出ていったと思ったサンジが男子部屋の入り口に立っていて驚いた。

「どうした?」
「買い出し付き合ってくれ。今回は荷物が多くなりそうだからよ」
 なるほど、そこで頼られてしまっては断る理由もない。
「おう、了解」

 さっきまで頭に思い描いていた予定はこの瞬間霧散した。二つ返事で頷く。
 すると誘った側だというのに、サンジはきょとりを目を丸くさせた。不思議に思い首を傾げると、サンジはすぐに笑みを零す。

「サンキュー。お前はいつも断らねェから助かる」
「まァ、暇してるから」
「ちったァ趣味作った方がいいんじゃねェのか?」
「考えとくよ。それより準備できてんの?」

 一応あれこれ考えてはいたが、サンジに比べたら後回しにしていいことばかりだ。それに暇つぶしなら山程あるが、恋愛以外に熱中できる趣味はしばらく見つかりそうにない。
 当然それを言えるはずもなく、はぐらかすついでに尋ねると、サンジは口角を上げた。

「お前待ちだ」
「そりゃお待たせしてすみませんでした」

 からかう声音に同じくおどけて返して、急いで必要な物を詰め込んでサンジに駆け寄る。

「じゃあ、行くか」

 そしてサンジが歩き始め、おれも半歩下がってついていく。
 船内だから距離が近いけれど、外に出れば今よりもっと距離が開く。買い出しはいつだってサンジが先頭に立って、おれは後ろで荷車を引くから当然だ。
 けれど時折。その背中を見つめるたびに果てしなく遠いと感傷的になるのは、たとえ手を伸ばしても届かないとわかりきっているからだろう。
 

 今回も事前にリストを作っていたようで、サンジはそれをチェックしつつ店を探し、商品を見つけては購入を繰り返した。おかげで荷台は瞬く間に重くなっていく。
 二年間の修行で鍛えられたからなんなくこなせるが、以前なら動かせていたかどうか怪しい。それぐらい買い込んでいるので、意外と状況は切迫していたのだとさっき気づいた。
 しかし追加の速度が容赦ない。顔には出さないが冷や汗が背中に滲む。この後どれだけ購入するかわからないが、場合によっては一旦サニーへ帰還した方がいいかもしれない。

「あとはフルーツ類だな。リンゴパイナップルマンゴーその他……久々の上陸だし奮発して痛みやすいものを買うっつーのもありだと思わねェか?」

 重くなった持ち手の感触を感じながら考えていると、不意にサンジに尋ねられて少し反応に遅れる。痛みやすい果物類か。最近食べてないのはたしか。

「いいね。イチゴやブドウとかどうよ」
「おっ、じゃあそれに……ん?」

 そうして提案したのも束の間。急にサンジが立ち止まる。
 危うくぶつかりそうになり、慌てて足を止める。サンジの後ろにいるので今の状態がわからず、横から覗こうとしても持ち手が身体を囲っているから見れない。
 すぐさま諦めて向けているはずの視線の先を見て──おれはようやく納得した。

「あー!! あそこにとびっきり素敵なレディがいるゥ〜!!」

 注目しているだろう対象人物を認めた瞬間、にわかにサンジは歓喜に満ちた声を上げる。
 やはりその人たちに違いなかった。彼女たちは服屋のウィンドウを眺めながら楽しそうに喋っている。艷やかなブロンドや黒髪は輝き、遠くから見てもその横顔は美しく、思わず目を引きつけられるほど。美人に間違いない。
 しかし買い出しは終わっていないのだ。引き止めようとした瞬間、ぐるりとサンジはこちらを振り向いた。両目はしっかりハートを描いており、嫌な予感が脳裏を掠める。

「よし、ナマエ。ちょっとここで待ってくれ」
「はっ!?」
「大丈夫、すぐ戻ってくるから。絶対戻ってくるからここで待ってろ」
「いやちょっ……ええーっ!!」

 腕を引っ掴もうとしたがそれすらもできず、華麗に身を翻し、恐るべき速さでサンジは駆け出していった。
 巻き上げられた砂塵が目に染みる。なんとか顔に纏うそれを払うと、おれは誰に向けるでもなくため息をついた。

「せめて買い出し終わってからにしろよ……しょうがねェ」

 本人に言わなきゃ意味のない文句を言って、仕方なく荷車を引いて大通りの路肩に停める。待ってるあいだ少しでも食材が傷まないように、白い布をかぶせて紐をくくりつけて固定する。これで大丈夫だろう。
 サンジと一緒だから楽しんでいたが、肉体は思ったより疲弊していたようだ。小休憩と理解した途端、身体の節々にしっかりとした疲労が落ちる。
 その場でできるストレッチで腕や肩を伸ばし、足を揉んだところで煉瓦仕立ての家屋の壁に寄りかかった。
 あまり視線に熱や力がこもらないように気をつけつつ、サンジの様子を伺う。今は話しかけて間もないのか、彼女たちはちょっと遠慮がちの様子だ。けれどサンジの立ち振舞や話の内容が良いのか、外向けとは違う笑みを見せつつある。次第に心が開かれて嬉しいのか、サンジも屈託のない爽やかな笑顔で饒舌に語っているようだ。
 かわいいなぁ。
 料理している時の真剣な姿も、リラックスしている様子も好きだけれど、女の人と接して生き生きとしているサンジがなにより輝いている。自分に正直に生きていて、おれより年上なのに年下の子どもみたいにはしゃいで、無邪気でとてもかわいい。……やばい。思ったより集中して見ていたかも。
 急に自覚すると、意識して視線を逸らす。口元が妙に痛いから、無意識でだらしない笑みを作っていたかもしれない。通行人に見られていたら恥ずかしいな。

「よォ、兄ちゃん」
「ん?」

 羞恥を覚えて口を隠すと、ふと頭上から男に呼びかけられる。上から降ってきたそれに反射的に顔を上げれば、使い慣れた風のフードを被った見るからに怪しい風体の男が居て、咄嗟に距離を取った。といっても荷車があるからたいして離れやしない。
 おれより頭何個分か、ブルックに近い身長だ。衣服で肉体は隠されているが、布の上から見ても筋肉隆々だと思わせる体格の良さ、体幹の良さを感じる。只者じゃないのは確かだ。

「なんの用だ」
 
 警戒の色もあらわに問うと、男はクックッと喉で笑ってこちらを見つめる。フードの影ではっきり顔を伺えない。しかし眼光の鋭さだけは伝わった。

「そう睨むんじゃねェよ。しっかしずいぶんとしまらねェ顔してやがる。せっかくの美形が台無しだろう」
「んん? そう、か? イケメンに見える?」
 
 唐突に褒められてつい気を緩めてしまう。お世辞だろうが普段容姿を褒められることはないので(ナミ曰く可愛い系だけど地味)素直に嬉しかった。

「ああ、おれ好みだな」
「……へ?」

 耳に届いた言葉は、正直何を言っているのかよくわからない。いや、理解できるのだ。けれどこの状況でのそれは聞き馴染みがなく、実感が湧かなかった。
 咄嗟に聞き返そうと口を開こうとしたが、それより先に男が言葉を続けてしまう。

「お前、あの金髪の男をずっと見ていただろう。ああいう野郎が好みなのか」
 
 そうして顎で指し示されたのは、さきほどまでおれが観察していた想い人のサンジである。
 男が尋ねているのはサンジの容姿もとい、好きな男の外見だろう。しかし男を好きになったのはあいつしかおらず、比較対象がいない。
 容姿は特に気にしないからわからないが、まぁ、歴代の好きな人は金髪が多かったと思う。一応頷いておく。どうせ明日には忘れる世間話だ。

「おう、大好きだ」
「ならこういう男はどうだ?」

 すると男はフードを取り去った。昼下がりの太陽に照らされたそいつは、手入れのされたくすんだブロンドの持ち主で、下でゆるく髪を束ねていた。
 眼光が鋭いとは思っていたが面持ちも厳つい。壮年の男で、しかし粗暴な印象はなく偉大さを感じさせるのは、おれの審美眼からすると容姿が整っているからだろう。右目に斜めに走った傷跡はかっこいいと思う。
 かっこいいがおれの好みでないのは確かだ。ここで改めてサンジだけ例外なのだと思い知らされた。

「えーと……悪くはないけど、好みじゃないかなーって、おい」
「なんだ?」
「手ェ出すのはダメだろうが」

 ずいぶん上背のある男を睨みつけ、低い声で唸る。勝手に掴まれた腕を振りほどこうとしたがびくともしない。
 おれの二回りほど大きい手は、その一本一本すら太い杭のように食い込んでいる。痛みはないが到底解けそうになかった。
 男は口角を上げた。……偉大さを感じさせる、という感想は撤回しよう。なぜならこの男は今、日の降り注ぐ往来に似つかわしくないほど下卑た顔をしているからだ。

「いいじゃねェか」
「何がだ! よくねェ、離せ!」

 どうにか身体を捻って反抗の意志を示すが、男にはなにも通じない。それどころか思い切り引っ張って、まるで後ろから支えるように空いた手で肩を抱いた。
 なぞるような抱き方に、言葉にできない怖気が走って頭が痺れる。叫ぶ勇ましさも、抗う力も、一瞬にして恐怖に抑え込まれてしまった。

「あいつは女にご執心だ。お前のことを見向きもしねェ。そうだろう?」

 おれにしか聞こえない声で悪魔の囁きが落ちる。背後の巨大な気配に怯えつつ、おれはおそるおそるそちらに視線を向けた。
 サンジは心から嬉しそうに喋っている。そりゃそうだ。目の前の美女たちは完全に打ち解けた様子で、サンジとの会話を楽しんでいるからだ。
 久々のクルー以外との交流に夢中で、おれが暴れても気づかないのはしょうがないだろう。途端、目頭が熱くなって、胸が苦しくなる。
 ────ああ、どうしておれは女じゃないんだ。
 女だったら、あの身体に手が届いたかもしれないのに。
 女だったら、こちらに手を差し出してくれたはずなのに。
 おれたちの距離は手を伸ばすどころか、飛び越えられない崖を挟んでいるかのようにあまりにも────遠い。

「…………」

 まるで鉛を飲み込んで腹に溜めたようだ。胸がつかえて、重たくて、足はびくともしない。
 必死に溜め込んで隠していた地獄の釜が開いてしまう。じりじりと確実に開くそれを押さえようと意識するが、意識するほどに速度は早くなっていく。釜の中身が眼前に晒されていく。
 たまらず怖くなって自分の腕をきつく抱きしめた。その圧迫感と痛みだけがおれを現実に引きとどめてくれる気がしたから。
 たとえ一般的に強がりと呼ばれようと、おれは本当にサンジのことがただ好きで、好いていたいだけなのだ。両思いなんて叶わぬ願いだとはなから諦めたんだ。
 それでも時折夢を見てしまって、いつか現実に打ちのめされる日が来るとは思っていた。けれど、なにもこんな形でなくていいのに。
 ────ひどく、惨めな気分だ。

 こちらの纏う雰囲気でわかったのだろう。背後から小さく、男の愉快そうな笑い声が聞こえた。
 頭がぐらぐらする。足がふらふらとして覚束ない。酒を飲んだわけじゃないのに、飲んだかのような酩酊感だ。自分で自分を触っているというのに、現実味が薄れていく。

「わかったならこっちへこい」

 元から掴まれている腕を強く引かれる。ろくな抵抗もできずなすがままにされると、男の懐になんなく飛び込んでしまった。
 そのまま肩に置かれ、流れるように脇下に手を突っ込まれる。まるで腰を抱くような感触に、ああ、身長差があるからか、と他人事のように思った。
 そうして男に誘われるまま、近くにあった路地裏に連れて行かれる。

 はずだった。



「おい、変態クソ野郎。おれの仲間に何しやがる」


 背後からドスの利いた声が届く。
 普段より低すぎて一瞬わからなかったが、あまりにも聞き馴染みのあるそれに、おれは地獄のような絶望から現実へと引き戻された。

「サンジ!」
「てめェ、いつのまに!!」

 たまらず名前を叫ぶと、おれを掴んだままの男が駆け出そうとする。
 しかしそれより早く、目にも止まらぬ速度でサンジの足が飛び出た。
 黒足は男の腕を下から蹴り上げる。蛙が潰れたようなうめき声が漏れた。その攻撃で一瞬だけ身体が浮くも、男が手を放せば地面に足が着く。
 地に足が着いた瞬間、真っ先にサンジのいる方へ走り出す。と。

「わっ」

 体勢を崩したのは躓いたからじゃない。さっきの男に掴まれた腕をサンジが掴んで、強引に引き寄せたからだ。
 たたらを踏みながらサンジの傍に寄る。細くて力強い芯の通った指。手を伸ばしたらしがみつけそうなほどの近い距離。鼻を掠めるタバコの香りに、不意に胸が高鳴った。こんな状況だというのに顔が熱くなり、居たたまれない気持ちになってしまう。どうしよう、すごく嬉しい。
 低く唸りながら男は蹴り上げられた腕を押さえている。脂汗を額に滲ませ、苦悶の表情を浮かべた男は、おれとサンジを交互に見やった。
 するとなぜだか目を丸くした。理由がわからず困惑していると、そのあいだにだんだんと身体から力を抜いていき、やがて呆れ返ったといわんばかりに重たいため息をついた。

「ッチ! 面倒くせェ男だな……」

 誰に向けたかわからない捨て台詞を吐くと、男はそのまま路地裏へと入ってしまった。
 徐々に薄暗さへ消えゆく背中を見つめていると、いつのまにか寒くなる。不思議に思うと、サンジはすでに腕を放し、おれと真正面から向かい合っていた。サンジから移された熱が空気に攫われてしまったのが残念だ。
 久々にまともにサンジの顔を見たと思えるぐらい、あの男との出来事は長いように感じた。
 目があった瞬間へらりと笑うと、一瞬でサンジは眉間に皺をぐっと寄せる。そしてあの男に負けないぐらいの大きさで息を吐いた。

「ったくなァ、あれぐらいてめェで追い払えるだろ」
「ごめん、手間かけさせたな。ありがとう」
「礼を言われるほどじゃねェ」

 サンジはそっぽを向いて煙を強く吸い込むと、唇の隙間から紫煙を吐き出す。それから流し目でおれに視線を向けた。
 思わぬ色っぽさにドキリとして、身体が固まってしまう。それがわかったのか、わからなかったのか。サンジは曖昧に薄く笑うと、踵を返した。

「おれだけを見てりゃいいんだ」

 背中越しに寄越された、吹けば飛ぶぐらいの囁き声に、今度こそ身体が動かなくなった。思考回路も停止する。
 今日一番、何を言われたのかわからない。
 理解できる。できるけど、できない。
 どういう意味で言ったんだ?
 そういう意味で捉えて良いのか?
 そもそもサンジが言ったのかも怪しい。おれの空耳かもしれない。
 それぐらい、目の前の現実を信じられなかった。

「え? サンジ、今なんて言った?」
「なんも言ってねェよ。行くぞ、晩飯に間に合わねェ」

 だから聞き返したというのに、サンジははぐらかした。なかったことにした。いや、本当になかったのかもしれない。
 ぐるぐると考えて感情が渦を巻くが、結局ここは抑えて追求しなかった。
 だって本当に信じられないから。あのサンジがそんな思わせぶりなことを、男であるおれに言うはずがない。天地がひっくり返ってもありえないのだ。
 気のせいだと思い込んですぐさま思考の彼方に投げると、寄越された言葉のおかしさに気づいて、たまらず吹き出して笑ってしまった。
 
「ナンパしなけりゃすぐ終わっただろ」
「しょうがねェだろ。恋はハリケーンなんだ」

 サンジの言葉も態度も理不尽で横暴だ。まるでサンジの言う恋みたいに。
 柄にもなくそう思ってしまったのは、隠していた地獄の釜の中身を覗き込んでしまったからかもしれない。

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