※アラビアンパロ


 瞬きの、その瞬間、惹かれていると気付いた。
 その男は長い廊下の先でおれを一目見た。数人の侍女に囲まれて宮殿内を歩いていたその途中で、一目だけ。輝きは瞬いておれから離れていってしまう。砂城へオアシスの風が吹いたようだった。実際に吹き込んだかもしれない。青と緑の混じった灰みの瞳は水の色香を含んでいて、水底に秘めた慈愛さえ感じた。きれいだ。そう思った。

 酷い砂嵐が去った、日差しが弱い曇天の朝のことだ。街の高台に夜通し何年もかけて建造されたこの宮殿から、更に高台にある別荘へと続く歩道を歩くそいつの姿があった。鮮やかな青の羽織を翻し大理石の柱に囲まれた広場を抜けて、宮殿の外へ悠々と歩いていくそいつの明るい頭を、格子のない大きな窓から見下ろしていた。髪や肌の色が明るいのは、お妃様の血統の祖のものだそうだ。顔立ちも脂っ気がなくてサラッとしている。顔だけでも、侍女から国中まで人気がある。
 モザイクタイルの美しい歩道から別荘へ出ると、比較的人目につかず街まで降りられる階段がある。そいつは籠や車に乗らず小姓も付けず、庶民と対等に、自らの足で城下の街のほうへ消えた。階段で見えなくなってしまったので方角は想像だった。二日前は同じように歩いていって、暫くして林檎を腕に幾つか抱えて歩いて帰ってきたからだ。玉座から万物に手が届く王族にも、息抜きが必要なのかもしれない。
 腰ほどまでの長い髪の色は太陽そのもの。ゆるく纏められて垂らされている。美しく透き通るほどに煌めいて見えた。おれの光の射さない真夜中とは正反対だ。聞きしに勝る美貌、聡明な頭脳、寛大な器量。突如暴君と化した父親である先代王の国政を打ち倒し、民からの信頼を回復どころか絶大なものとしたこの国の王子。即位戴冠式は間も無く執り行われる。もう王子じゃなくて、ほぼ王様だ。
 対しておれは、和平の交渉中に担保として敵国へ差し出された形ばかりの王子。妾腹だから、迎えに来られる保証は一切ない。元から迎えに来るつもりはないのかもしれない。悩みの種を二つ同時に処理できれば万歳だろう。
 そいつは陽で、おれは陰か。おれは丁寧にこの王国に賓客として扱われ、3年もこの国にいる。部屋からは自由にでていいし宮殿から街へ出てもいい。街で仕事をしてもいいしその稼いだお金で好きなものを買って食べていい。自分の国より人質の身分の方が、待遇が良いとはな。

//

 夜明けまえ、宮殿内に倒れて壊れるような物音が響いた。次いで、大理石の床で何か割れる音。男の声。回廊を数人が走る音。おれは耳がいい。王の宮のほうだろうか。体を起こすと、同時くらいに、窓の上の人が一人通れるかって形の天窓から白っぽいものが飛び込んできた。
 予想してないところからの敵襲に反射的に寝台から飛び降りた。それは屋根から勢いを付けて飛び込んだらしく、床で転がって受け身を取って、片膝をついて止まった。しゃり、と装飾の金属が擦れた音がした。腰に細身の湾曲した剣を携えているのが見えた。おれを一瞥した瞳が一度瞬く。奪われるようなあの瞳だった。
 そいつは素早く視線を切り、立ち上がり剣を抜くと、出入り口脇に背をつけて付近の回廊の様子を窺った。長かった髪が肩よりも上で斜めに切られてる。腕や胸に血の跡も。何事かが起こり、彼が渦中にいるのは間違いない。物音を立てれば、こいつか、おれかが、危機となるかもしれない。唇を引き結んで息を飲んだ。すると幸運にも声や足音は離れたようだ。そいつが刃の薄い剣を鞘に元通りに収めると、また連なった細かい宝石たちがまたしゃりりと鳴いた。装飾が華美なのでもしかしたら飾るための剣かもしれない。それにしても穏やかな王様が武芸にも通じているとは聞いていなかった。何度か謁見と、すれ違い様に声をかけてもらったことがある。この距離で見て流石に間違いない。
「お、う、さま、だよな」
 腰の帯まで白を基調として纏められて、金の装飾と刺繍が細部に踊る。きっと寝間着かなにかのはずなのに、おれなんかのより数段格式高く誂えられている。ガウンも羽織っていないでかなり軽装だ。閨から刀だけ掴んで飛び出してきたような格好だった。胸から締まった腰までの体のラインが薄着でよく見えた。厚すぎない肩も、浮いた鎖骨も男の線なのに艶やかだ。娼館のカイナのあられもない姿よりもこの男の極上の肌をよく見ていたい。
 じっと見てしまっていたおれの目をそいつは正面から見つめ返した。瞬きは少なく、まるで狩りをする鷹を思わせた。唇が薄く開かれた。
「王は不在だ」
 凛とした体の奥に届く声だった。なのに、声の底には悲しみと絶望が数滴落とされて、さざ波を立てていた。
「しばし混沌とする、何処なと消えよ」
 責めるものは居らぬ、そう言って踵を返し廊下へ出ようとした。
 王が不在ならば、眼の前にいるのは誰だ。
 ひとつだけわかるのは、死ぬ気だ。
「待て!!」
「ぐっ!」
 咄嗟に一房残っていた後ろ髪を掴んだ。
「あ、わ、悪ぃ!」
 そして急いで離した。王様なんてものは死の淵から遠いところに座っているはずだと思っていた。だから、その行動はおかしいと思って、咄嗟に捕まえてしまった。修羅の谷底へ落ちて行ってしまうのを引き上げるような気持ちで、帯から垂れた生地をしっかりと掴み直した。
「よい、離せ」
 首をちょっと気にしながらも非礼を赦す言葉と命令が同時に飛んでくる。言葉がどこか冷たい。投げ遣りだ。強く裾を握った。
「駄目だ、王様に何が起きてるのか話してくれ」
 そいつは、静かに溜息を付いて、おれがさっき掴んだ髪の長い部分を緩く掴んで、剣の刃を滑らせて切り落とした。人に切られたのか。それとも今みたいに、誰かに掴まれ、金輪際不要と即断し自ら切り落としてきたのか。後者であった。
 王様は、不自由のない地位と暮らしを与えられているはずの叔父が月に魅せられ玉座を欲したこと、叔父の傭った砂漠の賊が北側の門から無数侵入していること、つい先程王が殺されたこと、その母も殺されたこと、そして自分は寝返った者共と賊を屠りに戻る、と粛々と話した。口を挟む隙がなかった。だって殺されたはずの王様は、おれの目の前にいるぞ。今掴んでる。おれも混乱しているが、そいつはおれよりも混乱していたのだ。かつてキラキラとしていた眼の奥が濁って、今にも赤い呪いが溢れ出しそうだ。
 そこまで話してやっと息を吸ったと思ったら、そいつは自分を叱責するように吠えた。
「彼奴等に背を向けるなど言語道断!罷り通らん!一人残らず縊り首を撥ねてくれる!!」
「っ、オイ!」
 今度はおれが廊下の外へ顔を出して確認する番だった。そんな大声出したら賊が来るんじゃないのかと思ったが誰もいない。大声は王宮を中心にあちこちから時折上がっていた。女の長い悲鳴が微かに聞こえて胸が痛んだ。部屋を振り返るとそいつはその場から動いていなくて安心した。また窓から飛び降りていってしまったかと不安が過ったからだ。
「なぁ、」
 正面に回り、若干俯いた顔を覗き込むように話しかけようとして、持っている言葉を全て忘れた。
「目の前で母を、兄を、おれは」
 しっかり立っているはずなのに、そいつが今にも大理石の床に崩れ落ちそうな顔をしているから、抱きとめてしまった。腕を伸ばして、ざんばらに切られた白金の頭に手をやって、肩口で顔を隠してやるようにぎゅっと抱きしめた。とにかく何かが起きていて、それは王様の、こいつの世界がぶっ壊れるような事なんだ。
「泣くなよ、王様だろ、泣くな」
 耳のあたりで、おれの黒髪と金髪が触れあう。白檀の香り。光と影がこんなに簡単に交じる。なんでかおれのほうが泣きそうだ。零れるな、零れるな。

「ナマエ様、此方で御座いましたか」
 どれくらいかそうしてると、突然廊下側から男の声がした。棒立ちのそいつの腰からおれが剣を抜き、突き飛ばして後ろに庇い立った。部屋の入り口に、賊にしては小綺麗な身なりをした壮年の男が弓を背に、手には刀も携えて立っていた。踏み込んでくるかと切っ先を男へ向けたが、庇った背中の裏からは鼻を一度強くすすって目元を拭い、見栄を立て直した声が聞こえた。
「ああ、ハシム、エースも宮殿から逃がせ」
「御意に、東門が手薄です故、どうかお二人でそちらより」
「ならん、おれは」
「ナマエ様、どうか」
 ハシムと呼ばれた男もこいつも、おれの名前を知っていた。ハシムは王室に仕えるの最も歴史ある家の長ではなかったか。すると聞きなれない名前がひとつある。
「"ナマエ"?」
 少なくとも臣民が讃え、憧れ、足の甲へと口付ける、かの王の名ではない。
「"ナマエ"って?」


「弟だ」
「い!?」
「顔はよく似ている、目以外は特に、性格はおれのほうが少々奔放だ」
「そ、そりゃ似てるってーか、瓜二つってーか、目どころじゃないぜ」
「お前が会っているのが全部おれなんだろう、おれは兄の影だ、幼少より兄は病に臥せることが多かった故にな」
 男に簡易的に腕の傷を手当をされながら、おれにやっと状況がわかるように話をしてくれた。淡々と王様みたいな口調でだ。
「今日も、臥せっていてくれたならこの首くれてやれたものを」
 そいつはその夜、そう言って歯噛みしながら、尊敬する兄の代わりに命を投げ出せなかったことを悔いていた。そのために生きていたと言っていた。
「陽が全てを見ております、中へ住する神へも伝わるでしょう」
 おっさんがそう言うと少しの間ナマエは目を瞑り、隣国への亡命の提案を受け入れた。手当のあとは弓と矢筒を受け取り、静かに男の話を聞いていた。さっきみたいに激昂したりは、普段めったにしないのだろうと思った。事切れた兄である王と実の母の亡骸に気付き、血泥に塗れた復讐劇へ飛び込み暗殺者である叔父の首を、自らのその手で撥ねてきた直後だったのだ。おれには想像出来ないが、きっと無理もない。
「おれは、生きねばならんのだな、鼠や猿のように物陰を走り回っても」
 そいつは悲しみを消化できなくて、もうすぐ怒りの化身になってしまうところで、ギリギリで、絨毯が解けていって、誰かが踏んででも止めないと糸になっちまうみたいにギリギリだったんだ。国も民も自らの命さえも他にはもう何もいらないと思っていたんだ。掴めてよかった。

//

 そいつの、危なくてうっとりしてしまうような双眸が、今はおれをみている。あの宮殿から随分遠く離れた場所で、とても、近くで。肘を付いて隣にゆったりと寝そべっている。砂漠の夜空から落ちた月みたいだ。夜の空気の中で、ぼんやりと輝いてさえ見える。
 ああ、これは、間違いなくおれのずっと見ていた王様だ、と思った。

 国境の小さなオアシスまで、随分歩いてきた。途中からは駱駝に2人で揺られてきたから、今日は昨日より疲れていない。尻が少し痛い。
 ハシムのおっさんは隷属を覚悟の上で宮殿に残った。おっさんにも命を賭して守りたいものがあるのだろう。守るものが何もないおれは、あの国の一番大事なものを持たされて、東門から隣国を目指して砂漠を越えることになった。普段なら南東側は危険度が一番高いのに賊の気配が一切ない。かなりの数が宮殿に集められているようだ。おっさんの読みは正しかった。隣国サンディの王は、兄の方の王様だけでなくナマエとも数回話したことがあるらしい。噂で酷く利己主義な男だとおれは聞いていたが、そうでもないとナマエは言う。出方次第では亡命どころか気前よく兵を出してくれるかもしれないとまで言っていた。ナマエがそう言うならそうなのかもしれない。とにかくそこへ、こいつを最短で送り届ける。
 この日は小さなオアシスの民家へ厚意で泊めてもらえた。家長の寡黙な老婆は王の顔を予てより知っていたらしかった。家中の布が重ねられたような柔らかな椅子が用意してあった。そこへ座るよう促され、そこで当然と脚を組んだナマエの足元へ老婆が跪き、そうっと踵を持ち恭しく足の甲へと口付けた。老婆の行為を無下にせず受け、やんわりと王は死に、自分は弟だと伝えた。身分を偽ったのは賊を欺くためと、民と同列に扱われたいためだとも隠さず伝えた。老婆は特に驚いた様子もなく、全てを理解しているのかその逆かわからない面持ちで、もう一度口付けた。預け、誓うその行為が、ふたりともそれが当たり前で極自然な行動に見えた。王国は内から焼け落ちそうになっているのに、お互いに信じて疑わない。そこだけは、喧騒から遥か遠くにある一枚の絵画のようだった。
「きれいだ」
 勝手に内側から零れたみたいに、呟いていた。裕福とはいえないこの家も。暮らしある風景の一角も。そこにある人も。ナマエも老婆もこの国も、すべてが静穏と共に強くある。明日が嵐でも雷でも悲しくても寂しくても折れない。すべてが綺麗だと思った。
 あれの他に誰が王となるのだ、とナマエは言うけれど、あの国はたぶんナマエを待ってる。ナマエもわかってる。伏せられていた美しいふたつの目が此方を見た気がした。

「お前のほうがきれいだ、エース」
 その場で言うならまだしも、そいつは老婆が用意してくれた精一杯の小さな寝床に並んで横になった今言った。
「な、んっ、」
 休もうとしていたところに不意に褒められて変な声が出た。お前は眩く世界を照らすようだ、と言っておれの黒髪に手を伸ばしてきた。やんわりと触れ、力を抜くように撫でられる。触れられてる。カッと頬が熱くなり、黙ってしまう。
「柔らかに揺れる黒い髪も、明朗な笑みも、慈愛に満ちた素直で気高きその心も、美しい」
 黒なのに。おれの左耳の上あたりからついと指が髪に差し込まれて、ゆっくりと耳にかけて離れていった。絡まる、とぎくりとしたが杞憂にすんでよかった。
「陽光が細くこの世界を切り分ける、明けていく世界そのものだ」
 かつて経験したことのない意味わかんねぇほど壮大なスケールで真正面から褒められて、もやもやしてるような、ふかふかしてるような気持ちになる。
「や、ぅ、ナマエのほうが、あいや、そのあり、がと、な」
 おれのほうがきっとずっと眩しいと思ってるのに、上手く言葉に出来ねェ。しどろもどろになってしまったが、返事をした。ナマエがおれの方を見たまま満足そうに微笑んだ。重そうな睫毛の奥は今は穏やかな色だ。癒えない傷が生々しく残っているはずなのに、覚悟でなんとか持ち直してるんだ。今日の昼間に休憩した集落で、切りっぱなしだったのを鋏を貸してもらって少し整えた髪が、サラサラと流れてる。より一層身軽になった。より、格好いい。
 こいつはおれと、たった数日間一緒にいるだけで、このオアシスを発ったら明日の昼間にはサンディの交易が盛んな大都市のひとつへ出られるだろう。そしたら、2人の旅も終わりだ。遅かれ早かれきっとナマエは王様に戻る。こんな距離では話せない存在に戻る。おれは多分、帰る場所がない。
「なぁナマエ、さっきの、おれもやってもいいか」
 体を起こし、硬い石の上にありったけの絨毯と布が敷かれた今日限りの寝床の上へ、胡座をかいて座った。ゆっくり動作したと思ったのにナマエが少し驚いた顔をした。そして、足の甲にさ、と言うより前にぴしゃりと断られた。
「お前は必要ない」
「なっ、何でだよ!」
 あれで落ちぬとは、などと意味不明な小言をぶつくさと呟きながらナマエも体を起こし、片膝を立てた半胡座で優雅に座った。ランプの暖かな光がふたりの影を壁にぼんやりと蠢かせている。王様の寝間着は何故布の面積が少ないんだろう。また肩丸出しだ。
「既に、生けるのも潰えるのもおれと諸共にだからだ」
 運命を共にすると、心地よい声で紡がれた。一緒に国を出たあの時から、王様が天窓から飛び込んできたあの時から、それともおれが廊下で見ていた時から、運命の糸が絡まってしまったから、それを王様は解くつもりはないと言っている。
「故に誓約も服従も必要ない、おれと共に来い、エース」
 に、と唇の端をあげ、ナマエの瞳が細められた。そんな格好良い顔するの、おれ相手でいいのかよ。夜空を駆ける月の女神だって振り向くぜ。照れちまう。
「わかった、いいぜ何処までだ?」
「無論、何処までもだ」

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