※現パロ、受主


 確かにその日もアスファルトを叩きつけるような朝からうるさい雨の日だった。
 どうしておれが彼の目に留まったのか、どうして彼がここを通ってしまったのか。いずれにせよ、おれと出会ってしまった彼は進むべき足を止めていた。おれごときを気にかけている暇なんてなかったはずなのに。
 彼から見たら、おれの人生は悲惨だったのだろう。おれでもわかっている、おれはもうどうしようもない男だってことに。
 だけれど、その男はそのおれを許すことはなかった。長細い黒い車をおれの目の前に止めて、そこから真っ黒な傘をさし、三白眼で見下しておれをまっすぐに捕らえた。

「身体を売るのは身体を売る才能しかないと悟った時だ。そんなみすぼらしい身体で商売して、明日生きていけるかわからねェ程度の金を稼いで満足してんのか、クソガキ」

 雨の日なのに食べカスか生ゴミの臭いと精液かコンドームの臭いが充満した山積みになったゴミ捨て場の上で、身体中に鞭を打たれ、縄でしばかれ、切り刻まれて傷だらけの真っ裸のおれを拾ったのは、一体何をやっているのかよくわからないこの男だった。

「おれの、生きがいは、ここなんだよ!」

 あの時、おれが泣きながら叫んだのは彼に聞こえたのだろうか。多分、聞こえてなかっただろう。なぜなら、嫌がるおれの腕を引っ張って車の助手席から毛布を取り出しておれを包むように抱きしめて、そのまま後部座席に放り込んで車を発進させるような乱暴で優しい男の人だから、きっと気づかれてない。
 そのきっとにはおれの願望が含まれていた。

 おれがご奉仕していたこのバイト先が金でなのか、権力でなのか、脅しでなのか、どれにせよ、この男の手によって潰されていたことを知るのは、この男と初めて身体を重ねた日の朝だった。







 自分の生まれた家がおれごときではもはやどうしようもない、と気づいたのはいつ頃だろうか。記憶は浅いものの、おそらく家にいろんな男が出入りするようになった頃からだろうか。おれは母親の家に出入りする男を見るのが何よりも怖かった。
 その頃から暴力は嫌いだった。実際のところ、おれの実の父親というのは存在するのかはよく知らないがおれの実じゃない父親はたくさん存在して、その実じゃない父親が「おれに似てない」と吐き捨てておれを殴っては蹴った。それは当然のことで、だってその父親とは血は繋がっていないのだから。残念なことにおれはどうやら母親似ではなく父親似のようだ。母親似に生まれたらもう少し母親に庇ってもらえたのかもしれない。
 おれが小学校に上がってある日のこと、目の下に大きな痣ができているのを当時の担任にバレてしまった。そうして小学校から呼び出しをくらった母親が必死におれのことを匿っていた。息子に虐待はされてないです。と告げた母親の声はとても細くて聞こえなかったが先生は何かを思いつめているようでそれでいて何も語ることはなかった。
 それ以来、おれた向けられる暴力は全て皮膚の晒される場所ではなく、晒されない場所にだった。その中でも1番痛かったのは湧いたばかりの湯を背中にかけられた時だっただろうか。加えて、おれの夕飯のカップラーメンもなくなって最悪だった。
 多分そうしてからおれは暴力から逃げるために奉仕という術を覚えてしまった。その術の初まりは酔っ払って帰ってくるその実じゃない2番目の父親だった。いつの間にかお腹の大きくなった母親をまた殴りに行くのかどこか具合悪そうな母親が寝ている部屋に向かう途中でおれはその男の腕を掴んだ。ガキは早く寝ろ、だとかお前には用はねェ、だとかそう言われて投げ飛ばされた気がしたがおれは動じなかった。その時、おれは奴に上着だけを脱いで傷だらけの身体を見せて言った。

「おかあさんとできないなら、ぼくとすればいいよ」

 おれがテレビを見ようとした時に間違えて映ったテレビの向こう側のセクシーな裸の女の人のようにおれは言った。なぜこうしたのか理由は簡単で、その女の人はおれの母親で血の繋がってるおれにもできると思ったからだ。その時のおれは女の身体ではなくてはならないなんて難しいことはわからなかった。母親のその子供のおれならいいと思った。
 そう、あの時のおれは何一つ間違ってなかった。2番目の実じゃない父親は迷いなくおれの身体を押し倒した。
 その日から、母親に暴力はなくなった。おれが奉仕すればすべてうまく行く。おれが身体を二つに裂けられるような痛みに耐えて泣くだけ。そうすればおれには痣も作られない。だから、小学校になんの不自由もなく行くことができた。それらは父親が変わっても同じだった。おれは自分と母親を守るのが生きがいだった。
 母親が死んだ。実じゃない6番目の父親に殴られたらしい。脳震盪だった。そのあと、奴は救急車をすぐには呼んでくれなかったから死んでしまったということも聞いた。その男は母親が倒れている間アルコールを浴びるように飲んでDVDに撮った裸の母親の映るテレビを食い入るように眺めていた。こうなってしまったのは6番目の父親におれの行動は何一つ通じなかったからだった。

「ハァ??気色ワリィんだよ。なんでてめぇは女に生まれてこなかったんだ?」

 そう言われた時、初めて自分がやってきたことが男としての屈辱だと知った。その次に浮かんだのは、なぜおれは女ではなかったのだろうという後悔だった。その時のおれはもう、世間で言うところの中学3年生だった。
 そのあと、おれは見ず知らずの若い夫婦に引き取られた。どうやら身寄りのない子供を引き取ってくれたお礼のための寄付金目当てらしい。どうやら、このおれごときでも金になるようだ。だから、会話一つしてくれなかった。おれが家出しても心配すらしなかった。
 正直、おれは気が楽だった。実じゃない父親からの暴力からも死んだ母親からもすべてから解放された。
 それなのに、いつの間にかおれは2番目の実じゃない父親たちを求めていた。おれはその人達ではないともうあの時の快感を得られなくなってしまった、おれは実じゃない父親なしでは生きていけなくなってしまった。
 それを犯される、と知るのはおれごときが高校なんて敷居の高い場所に入れないと知る前の、おれは金をもらって男に奉仕する喜びを知ってしまって手遅れの頃だ。もらった金を渡したらおれの親になってくれた若い夫婦二人が初めて心の底から喜んでくれた、その時だけは泣きそうなほど嬉しかった。
 しかし、二日目からは金だけ置いて行けと言われて、また会話をしなくなった。





 サー・クロコダイルという男に誘拐されたと気づいたのはあの日拾われてから1ヶ月経った後だった。
 いつの間にかテレビのニュースではあんなにもどうでもよかったおれのことを血眼になって探す若い夫婦が写っていたことに心底驚いた。泣きながら報道陣におれを返して欲しいと答える夫婦は後ろから中継トラックにでも突っ込まれて早く地獄に落ちてしまえばいいと思った。そういえば、1ヶ月でクロコダイルのあまり綺麗とは言えない口調がおれに移ってしまった。ちょっとだけ嬉しかった。
 ニュースに映ったおれを探すためのビラの写真は今のおれには程遠いほど似ていなかった。その写真より少しだけおれは肉付きが良くなったから頬骨が出っ張っていることもないし、クロコダイルの意向で髪型も変わった。そういや、いつの間にかおれはこの部屋から一歩も出てないし、白いカーテンからは外を見たこともなかったから、ここがどこなのかを知らないし知る気にもなれなかった、知ったところで何も変わらない。
 ここに住むにあたって、クロコダイルから守るように言われたルールは3つだけでとても簡単だった。
 一つ目は簡単に泣かないこと。おれは女でなく男だということに自覚を持てということらしい。
 二つ目は簡単に謝らないこと。ごめんなさいだとかすみませんだとか、一切の感情すらないのにその言葉たちを口にしてするのは、最低の人間がやることだということらしい。
 三つ目はクロコダイルだけには嘘をつかないこと。クロコダイルに嘘をついたら、誰一人信用できる奴がいなくなるということらしい。
 そんな程度のことなら、おれはちゃんと守れると誓った。守れたその見返りはすごく不釣り合いで豪華だった。
 三食すべてが人の作った暖かい食事で、毎日肩まで浸かれる風呂に入れたし、おれの身体中の怪我や痣の治療もしてくれたし、おれの年相応が着る服のカタログを3、4冊渡しておれが欲しいと言った服をすべて買ってくれた。
 おれは希望しなかったが他に黒髪を茶髪に染められて、髪を少し短く切られて眼鏡をかけられて、スーツというものが追加された。クロコダイルの隣に並ぶためと言われたが、確かにスーツを着ている時はクロコダイルの隣にいれて幸せだった。
 おれが勉学に興味があると言うと、一晩にしておれに与えられた部屋にはたくさんの本が並んだ。読み書きは実際小学校までしかやっていないと告げると、クロコダイルは小学生がやる勉強書を大量に買ってくれた。
 おれは勉強するのが楽しかった。勉強ができればできるほどクロコダイルは喜んでくれたからだった。
 クロコダイルが帰ってくるのは彼が使用人と呼ぶ男の人や女の人におれが起こされてから時計の長い針が15回回った頃だった。

「お帰り、クロコダイル」

 クロコダイルの名前を呼ぶようになったのはここに来てからすぐのことだ。なぜかはわからないが、使用人はクロコダイルのことを様付けで呼ぶけれど彼はおれには様付けを許さなかった。
 クロコダイル、サー・クロコダイル。おれの生きてきた中で1番かっこいい名前だった。おれもそんな名前が欲しかったな。
 誘拐されて1ヶ月経った時の日の夕飯を食べながら思った感想は、おれごときに誘拐されたという居場所ができたことが何より嬉しかったということだった。

「そろそろ、おれの名前呼んでよ」
「クソガキは黙って早く寝ろ」

 ただ、クロコダイルはおれの名前を呼ばずに、ずっとクソガキと呼んでいた。おれもおれの名前が嫌いだからよかった。しかし、その低く落ち着いた声で一度でいいから呼ばれてみたいと思った。







「ねぇねぇ、傷がだいぶなくなったよ、見て見て」

 いつもより少しクロコダイルが早く帰ってきた時だ。おれが規則正しい生活を送れるようにと寝る時間を決めてくれたクロコダイルだったが、その日おれは消灯時間を破った。クロコダイルが少しでも早く帰ってくるなら待っていたかったからだ。
 クロコダイルのおかげでおれはだいぶ身体が綺麗になってきた。クロコダイルの専属のお医者さんなのかはよくわからないけれど、その彼は俺の身体を丁寧に触ってくれて、ばい菌が入ってしまってる、だとか膿んできてる、だとかそういうこと全てを的確に治療してくれて身体を綺麗にしてくれた。お医者さんの言うことは難しくてよくわからなかったけれど、与えられた薬を飲むことだけはちゃんと毎日続けた。そうして、肌の色も元どおり自分の白い肌に変わっていった。
 だから、クロコダイルに見せたかった、このことをクロコダイルに感謝したかった。

「背中は?」
「背中、」

 服の袖をめくっていた手が止まる。鏡でしか背中は見れないからおれは忘れていたが、背中はまだあの時に熱湯で火傷した跡が残ったままだった。お医者さんはおれの背中を見るとき、鏡越しに一番難しい顔をして見ていたからわかった。この背中は、クロコダイルには見せてはいけない。

「背中も綺麗なったよ、お腹みたいな感じでさ」

 だから誤魔化さなければならない。小学校の先生に一度だけ、夏でもかかわらず長袖長ズボンでいることに疑問を持たれて問い詰められた時みたいに切り抜ければいい。
 ぼくはなにもされてません。せんせいがあんまりおかあさんにいうと、おかあさんがかなしいかおをするので、やめてください。ぼくにきずがあったとしても、ぼくがころんでけがをしただけなんです、ぼくがわるいんです。
 けれど、今のおれにはクロコダイルの顔が見れない、クロコダイルに何も言えない。早く言わなきゃ、おれは大丈夫だって。クロコダイルがおれごときに対してこんな優しくしてくれてありがとう、って。

「見ない、で」

 クロコダイルが服の袖を掴んだ時にはわかっていた。クロコダイルの方が大きいし圧倒的に強いから、俺の力なんて簡単に振り解けてしまうのだろう。壁に押さえつけられてそのまま一回転させられた時には、もう遅かった。

「ごめんなさい」

 クロコダイルからは簡単に謝るなと言われていた。それに泣くなとも言われていた。あとそれから嘘をつくなとも言われていた。
 ああ、おれは3つ全てのクロコダイルとの約束を破ってしまった。最低だ、クロコダイルの顔がますます見れない。

「あのクソドクター、こんな傷一つ治せねェならクビにしてやる」
「ちょっと、待ってよ」
「あぁ???こんなエグい傷跡は治せませんなんざ認めねェよ、他の医者にでも……」
「あの人は、」

 あの人は悪くないしむしろいい人なのに、なんでそんなに酷いことを言うのだろうか。
 おれはテーブルの上に置かれたケータイ電話を取りに行くクロコダイルの袖をつかんだ。先ほどのようにおれの手なんて簡単に振り解けてしまうのに、クロコダイルは止まったままだった。

「あの人、他の傷は全部治してくれた」
「ならこの傷だろうと治せるはずだろうが」
「で、でも」

 この世に治せない傷があるのはクロコダイルもわかっていたはずだ。だから、おれは言ってしまった。

「クロコダイルもその顔の傷があるのに、おれごときのことばかり、な、なんで」

 それは1番の禁句だった。
 おれはクロコダイルの領域に初めて入り込んでしまった気がした。そう、自分でもなんとなく悟っていた。おれの傷ばかり気にするこの人に対して、顔を横切った大きな縫い目の傷に関しては絶対言ってはいけないということに。
 その途端に琥珀の双眸が睨みつけるだけで人一人殺せそうなほどに、おれのことをギロリッと見つめた。
 ごめんなさい、ごめんなさい。でも、このごめんなさいはおれにとって本当に心の底から謝っているのかわからなくて到底言えなかった。

「ここに住むにあたってもう一つ条件を加える。おれの気に障った」

 ぐずぐずと女々しく泣き続けているおれを泣き止ませるためだったのか、何かの気まぐれだったのか。クロコダイルの中で何かが弾け飛んだのだろう。クロコダイルがいつも葉巻に触れる長い右手の人差し指がおれの顎に触れた。
 そこからは息一つするのを忘れた。おれに寄せられる乾いたくちびるはひどく熱を帯びていた。ああ、これがキスというものなのか。
 仕事上、おれはキスというものを知らなかった。バイト先のルールではお客と呼ばれた男たちにはキスは禁止、それ以外は何でもしていいと書いてあったのが何故だったのか今わかった気がする。こんなことされてしまえばもうとっくの昔にクロコダイルに預けてしまった心をもう一度手放すなんてことが簡単にできてしまうから。
 くちびるとくちびるが触れることにはふわふわした感触があって、今にも自分の身体がどこかに消えてしまいそうなほどに気持ちよかった。見知らぬ男の人たちに尻の穴に突っ込まれる感覚とは程遠くて身体の全身が痒くなるような優しい感覚、けれども今までの何よりも1番の快感だった。くちびるの間からクロコダイルの舌が流れ込んできておれの歯を辿るようにして触れた。おれはそれをもっとして欲しいと思った。

「自分のことを無闇に卑下すんじゃねェ、ウゼェんだよ。お前はあと2年半はおれの所有物で何がおれごときだ。おれの所有物であるのが、そんなに気にくわねェのか?」

 そのあとするりと堕ちていくのは簡単だった。クロコダイルがおれのことをあの誘拐した日のように抱きかかえて、クロコダイルの部屋にあるとても一人で寝るには大きすぎるベッドの上に投げ捨てられた時、すべてを悟った。
 そうして、おれは久しぶりに他人の男の身体に溺れた。誘拐されてからは自慰一つしなかったおれは多分男としての威厳はなく、セックスを覚えたての猿みたいにおかしくて、まるで処女みたいに喘いでいた。おれが生きる術としてセックスを覚えたのはもう10年近く前だというのに、まるで初めてセックスをするような感覚で頭がおかしくなりそうだった。
 ここに来てからはクロコダイルをそんな目で見てはいなかったけれど、この日を境にクロコダイルをそんな目で見てしまってもいいのだというのを知ってしまった。世離れした世界と呼ぶには狭すぎる部屋でふたり、誰も知ることのない夜に深く潜水していった。ベッドのシーツをキツくつかんでも、クロコダイルの身体に爪を立てても、男の声で喘いでも、クロコダイルは何一つ怒りはしなかった。
 おれがサー・クロコダイルという人のことを知ってもいいだけ知るには、この夜だけで十分だった。おれの前で初めてシャツを脱いだクロコダイルにおれは衝撃を受けた。それは確かに今まで見てきたどの男よりも逞しく鍛えられた肉体美であったというのも少なからずあったと思うがもう一つ別の要因だった。
 彼はガチャリッと鈍い金属音を立てて左手の先を外した。おれは一瞬何が起こったのかわからなかった。そこには左腕の先にあるはずの手はなく、そこには傷の縫い目がくっついている丸みを帯びた腕が現れた。まるで輪切りにされた後、そのまま無理やり縫い付けたような傷跡におれは少なからずゾッとしてしまった。そう、彼の左手は義手だったのだ。
 クロコダイルがその左手とは呼べない左手でおれの身体に触れていく。背中が初めての感覚に驚いて身体中の神経が張り詰め、足の爪先まで電流のような刺激が走る。縫い目の部分が妙にでこぼことしていて、それはおれの性感帯を擽るのに1番適していた。クロコダイルがおれの背中を辿る手つきをした時、おれはその感覚に耐えきれず三度目の絶頂を迎えていた。







 雨の日は絶対に外に出ず、会社にすら出勤しない人だと悟ったのは一緒に住んでから3ヶ月経った時ぐらいだったが、それは3年経った今も何一つ変わらなかった。
 彼はとことん雨が嫌いらしい。特に雨で身体が濡れるのが何よりも嫌いで、そして読書中の無音を邪魔するこの音に苛立つらしい。確かに今日も雨でうるさい日だ。
 その日もおれはいつも通り脱力してしまいうつ伏せになって寝転んで、隣で難しい本を読み始めたクロコダイルは左手でおれの背中の真ん中をまるでガラスに手を滑らせるように触れていた。二人きりの時になると彼は義手を外すようになった。そして、おれは縫い目の感覚に弱いのを彼自身の身体で知っていて、彼はよくこうしている。
 結局、おれの火傷の跡はあれから1年経っても消えることはなかったので、クロコダイルはあの優しいお医者さんをクビにした。もう治ることはないと認めたクロコダイルはこうしておれの跡を撫でるように触れていた。クロコダイルのその左手が触られるたびに、そことなく傷の跡が消えているような気がしたが、残念ながら気のせいだった。
 あの日以来、一度重ねてしまった身体がもう一度重ね合うまでには時間を必要としなかった。いや、むしろおれが一方的に貪るようになっていってしまったのかもしれない。クロコダイルが3年もの間、何をしているかはわからないが、なんとなく彼が忙しいのは知っていた。なのに、夜な夜なおれがクロコダイルのベッドに残った葉巻の匂いとなぜかどこか懐かしさを感じる匂いが混ざった紛れもないクロコダイルという名の優しい匂いを嗅いだだけで自慰行為に手を染めるようになったのがバレてからは、おれに毎晩寄り添うように付き合ってくれた。おれがいつの間にかクロコダイルの何か大事なものに触れてしまったからだろう。クロコダイルはおれを拒否することはなかった。

「く、くすぐったい」

 おれがとうとう背中の上を器用に蠢かせるクロコダイルの右手の太い指を掴むとクロコダイルは意地悪く嘲笑った。おれはその顔が本当に好きだったし、それに弱いことをクロコダイルも知っている。

「あ、そういやおれね、結局悩んだけどさ、都心の大学受けることにしたよ。机の上の模試の結果見た?」
「ああ、A判定だったな」
「そうそれ。おれね、弁護士になって、少しでも立場の弱い人を助けられたらいいと思ってさ。汚職に塗れた世界でうまく生きていけるかわからないけど、おれ頑張りたいな」
「そうか」

 地方の大学より都心の大学の方が偏差値も高い。おれがクロコダイルにわざわざ言うまでもなかったことだった。
 通信制の高校を卒業して大学受験ができるための高校の単位をもらって、この国でも名の知れた一流大学に行けるまでに頭の良くなったおれはもう時期、冬を迎える。
 おれにはこれから大学に入るための受験というものがある。そう、つまりはおれが大学に入るには確かな身分証明が必要で、要するにあの家に戻らないといけないのだ。

「あれからもう3年も経ってるからもう探してくれないかもしれないよ。もう18だけどおれのこと引き取ってくれるかな」

 おれはニュースを毎日見ているが、誘拐されてちょうど1年経った時も誘拐の話題は上がらなかったのを今でも覚えている。あの時、テレビを一緒に見ていたクロコダイルは何を思ったのだろう。おれのことを少しでも彼の持ち合わせている限りでの僅かでもいいから、同情してくれたのだろうか。

「どうせ金目当てだ。お前の通帳には大学院まで行ける金に加えて5年ぐらいは海外で遊んで暮らしていける金が入ってる。それで奴らを脅せばいい」

 俺のための通帳が渡されるのかと思うと、少しだけ呼吸が浅くなった。通帳は絶対に無くさないようにしないといけない、肌身離さず持ち歩かなければ。おれがもし金をなくしたらまたそんな大金をくれるのかなと思ったけれど、クロコダイルはおれの親ではない。そう、優しさが違うのだ。その優しさはおれがこの人なしでもう一人で生きていけると判断された残酷さだ。

「おれがお前であろうと、おれもお前と同じ選択肢だろうよ」
「っていうかそもそも、クロコダイルは多分誘拐なんてされないよ、とても柄じゃない。誘拐犯全員噛みちぎりそうな顔してる」
「まぁな、全員海の藻屑にしてやる」
「ほんといっつも怖いなぁ」

 おれはそのまま身体を起こしてクロコダイルの身体と自分の身体を見比べた。おれには逞しく鍛え上げられたシックスパックも、抱きしめる時に弾力がある胸筋さえもない。だが、クロコダイルとおれとで決定的に違ったのは、もはや治ることのない傷と治った傷だった。どうして彼にはこんな傷があって、もう治らないほどに酷いのだろうか。だが、これはおれが知ったところで何の意味もないことの一つだ。あの日どうしてあんな大雨だったのに外に出ておれの元に現れた理由も、この3年近くおれのことを誘拐して監禁した理由も、どうしておれの身体中の治せるだけの傷跡を治した理由も、今どのようにして生計を立てているのかも。

「でもさ、なんで、おれに、そんな、」

 だから、せめてそのうちのおれが知ったところで何の意味もない一つだけでも最後に聞きたかった。そのうちの中でおれが選んだのはおれを誘拐したのはなぜ、という一番無意味な質問だった。
 ああ、もうダメだ、言葉が出てこない。おれは声が震えてる。おれはクロコダイルの前では泣いてはいけないのに。これだとクロコダイルにまた叱られてしまう。あの日以来何があっても泣かないと決めたのに。
 クロコダイルは片手で読んでいた本を栞も挟まずに閉じて、おれを見つめた。そんな優しい目で見ないで欲しい、いつものようにおれのことを蔑んだ目で見て欲しかった。そんな目を向けられたら、クロコダイルの顔を見れずに余計に泣いてしまうから。

「おれが見つかったら、警察が、クロコダイルを、探しにくるよ」
「お前はおれがそう簡単に捕まるとでも思ってんのか?」

 なんでこの先から声が出ないんだろう。クロコダイルのその問いにおれは大きく頭を横に振ることしかできない。涙が止まらなくて声が震えてどうしようもない。伝えなきゃ、おれが言いたいことはクロコダイルにだけはちゃんとうやむやにせずに伝えなきゃ。
 クロコダイルを掴もうとするおれの手は震えていた。だから、クロコダイルの右手が代わりにおれの手を握ってくれて、クロコダイルの先の丸い左手がおれの掌の上に置かれる。これはおれにとって世界で1番優しい手だった。

 好きだよ。おれさ、一生、クロコダイルしか、好きになれないよ。おれ、このままだと、ちゃんとクロコダイルに、さよならなんて、言えないよ。だからさ、この家の住所教えてよ、ここは一体どこなの。おれは、誘拐も、監禁も、されてないよ。これからは、警察にバレないように、生きていけば、いいじゃん。そうだな、おれはクロコダイルの養子がいい。でも養子じゃ、背徳感あって、セックスできないから、やっぱり愛人がいいかな、あいじん。だからさ、おれはさ、あんな、ところに、戻りたく、ない、んだよ。
 おれが、寝ている間にさ、クロコダイルは、どこかに、連れて行くんでしょ。おれのために、絶対誰かに見つかる場所に、置き去りにして、行くんでしょ。クロコダイルの考えてることはね、おれはもう、わかってるんだよ。だってさ、もう3年も、一緒にいるんだから。ねぇ、ねぇってば。おれのことを、誘拐した、責任をとってよ、なんで、なんで、なんで。クロコダイル、クロコ、ダイ、ル。

「ナマエ」

 そうやって1番呼んで欲しい時に呼んでくれなくて、呼んでほしくない時にはこんな優しい声で呼んでくれるクロコダイルは、子供のおれには到底理解できないほどにズルい大人だった。

「雨の音で、何も聞こえねェな」

 そのクロコダイルの声だけは雨の中でもはっきりとおれに聞こえた。雨の音がうるさいせいでクロコダイルにおれの言葉なんて届きやしないんだ。雨なんて大嫌いだ、なくなってしまえばいいのに。
 けれど、この雨が止んでしまったらクロコダイルはすぐにでも車に乗る。おれはクロコダイルの知ってはいけないが知りたいことを何も知らないまま、あの黒い車の後部座席に乗せられる。そうしておれはまた3年前に戻されるんだ、クロコダイルだけがいない世界に。

 雨の音がさっきよりうるさくなってきてしまった。
 だから、クロコダイルには胸元に雪崩れ込んできたおれの泣き叫ぶ声さえも、きっと聞こえていないのだろう。
 そのきっとにはおれの願望が含まれていた。



に紛れた慟哭

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