もしも羽ばたける翼があったなら、僕は、この美しく澄んだ青空を自由に駆け巡るのに。
誰からにも束縛を受けることなく、選ばされるでもなく自らが選択した道を突き進んで……未来を掴み取る。
あの頃から僕は空を見上げるたびに、そんな事を考えていた。願っていた。
だけどそれは、あまりに現実離れした空想であり、叶うべくもない願いで、強いられた現実からの馬鹿みたいな逃避行でしかなかった。
最初から逃げ道なんて存在しないなんてことは、理解していたんだ。だけど分かっているハズの心は、それでも逃げ道を探しているから。

「――……だから今でも、苦しいんだ」

……呆れるくらいに。
何十年も燻ぶった胸の内は黒く煤けたカスが溜まりにたまっていたかのように、記憶の一つ一つがセピアに染まっていた。いまだにそんな掠れた過去の記憶に苦悩させられている自分が、愚かしくてならない。
だからいっそ、全てを黒で塗り潰してやりたい。思い出す記憶が、全て無くなるまで。

「壊して、壊して、壊したら、解けないパズルみたいに、ピースも台紙も、クズ入れに棄ててしまうしね……」

それと一緒だよ。


処刑の場になったマリンフォードの地へと、ナマエは降り立った。気ままに訪れたインペルダウンを介して、何故かマリンフォードに向かおうとする囚人達の船に潜んでいた。命の危険を持ち得ない旅人であるナマエにとっては単なる船旅にしか過ぎなかったが、戦争が起きている目の前の事実には流石に驚きを覚えたようだった。
自身の過去におきた一時の幸福と絶望を瞼の裏に思い起こしてから再び目を伏せたナマエは、飛び交う喧騒に静かに耳を傾けた。視野を休ませた事で、聴覚と嗅覚が多少なり鋭くなる。それでもナマエは眉根を寄せる事も無ければ逆に歓喜にうち震える事も無く、そうして瞼を起こした。記憶の海に蓋をして、漆黒のその眼で世界を見定めた。
そして――見つけた。何年も何年も何十年も、残酷な記憶でナマエを縛り付けていた、忘れられない人を。

「いるなんて……思わなかった」

茫然と、小さく呟いた。
ナマエには彼がこんな場所にいることが殊の外意外だった。海賊と海軍が大軍で戦をしているこんな場所に彼がいるのは、何故なのか。ただそれを疑問に思うには、何十年という歳月がナマエと彼の間には存在していた。
走ることなく、手には武器すらも持たないまま、氷上と化した海の上を確かな足取りで進むナマエの目は彼にひたりと向けられていた。しかしそんな無防備にも程があるナマエに切りかかる若い海兵がいた。海軍の者ではないと丸分かりな風体はイコールとして海軍に仇なす海賊と見なされてしまったのだろう。それ以前にナマエが今いる場所は戦争の直中なのだ。海賊ではないナマエが命を落としたとしても、若き海兵に非は無いと言えるだろう。
振り下ろされた刀は肉を断つ音を立てたものの、斬り捨てる目前にナマエの肩から腹にかけてでつっかえてしまう。

「えっ……?あ、なんでっ」

「うぅ……痛い……っ」

ナマエがただの旅人であったなら、こんな異様な事態にはならなかっただろう。だが、ナマエがただの旅人であるはずが無かった。

「ひぅ……ぅんん……んあっ」

瞠目する海兵の足元で血溜まりにうずくまるナマエは、白い頬を上気させ嬌声をあげた。『痛い』と口にした筈の苦悶の表情が嘘のように、戦いの場に似付かわしくない声で身悶える。

「んっ、んあっ、ああーっ!」

既に海兵の手から離れていた刀を勢いよく腹から抜いた。ピクリ、ピクリと余韻に震える体で刀を力無く放り棄てたナマエは、うっとりと熱を孕んだ眼で若き海兵を見上げる。唇はゆるやかに弧を描いていた。
蛇に捕食されるのを待つ、毒に犯された小動物のように顔を真っ青にした若き海兵は、ぶるりと身震いすると、もつれそうになる足で血だらけのナマエから必死に逃げ出した。ナマエの嬌声が聞こえていた周囲も、ナマエの異質さに気味の悪いモノを見るかのように眉を寄せる。寄せるが、ナマエの欲情している姿に誰かがゴクリと生唾を呑んだ。

「ぅ……んあっ」

女性のように高い声、華奢な体、海兵に斬られたことで露わになった陶磁器のような白く滑らかな肌に、麗しくも儚げな見目。そんなナマエの神がかった容姿に煽られてしまうのは、無理もない話かもしれなかったが、今まさに剣を交えている状況ではあまりに不謹慎であり大変な油断だった。ナマエに目を向けていた者達は隙だらけのところを急所をつかれ絶命してしまったのだから、それも後の祭りだった。

「んんー……ああ、痛かった」

硝煙と血の臭いの中心で、ナマエは何事もなかったかのようにすくっと立ち上がり肩をならす。斬りつけられた薄い体には微塵も痕を残してはいなかった。

「お前、まさか、」

「……ああ、久し振りだね」

耳を擽る声音に僅かに動揺しつつ、表情を消したままにナマエはそちらを向いた。
ナマエが振り向いた先にいたのは、ナマエの記憶に爪痕を残した彼。長い間、記憶にのさばりナマエを縛り続けた男。

「結構老けたね。何回誕生日を終わらせてきたの?」

「……お前は変わらないな、ナマエ。――不老不死の化け物」

彼――ジュラキュール・ミホークの口から出た『不老不死の化け物』という、自分を指す軽蔑を含んだ名称に、自然とナマエの目が細まる。

「酷いな……僕は賊でもなんでもないのに。刀を振り回すお前らの方が余程恐ろしいと思うけどね。見てみなよコレ、僕が流した血溜まり。海軍も海賊もなんて恐ろしい生き物なんだろうね。一般人なんて簡単に殺されるよ」

「正論じみたことを電伝虫に向けて言ったとしても、お前の不気味な痴態が映された後では無駄だぞ」

「おかしいな……僕は人畜無害なのに」

パシャパシャと叩いていた手を血溜まりからあげて、自分を盗み撮っていた様子の囚人服の海賊にナマエはひらひらと手を振る。バッと脱兎の如く逃げられてしまったが、気にとめることなくナマエは再びミホークを見上げた。
視界の中心に彼を入れた瞬間、ドスッという重たい音と痛みが腹部を襲ってナマエはたまらずにせり上がる胃液を吐き出した。

「な、に。いきなりさあ……」

「暫し、眠っていろ」

最後の抵抗でミホークを睨み上げたものの、次いで鳩尾を殴られたナマエは、響き渡る痛みに意識を手放した。


開いた眼が最初に目にしたのは、暗闇に差し込む日差しだった。そして次に感じた自分を包み込む柔らかな感触を目で追い、それがベッドだと気付く。
鈍い痛みの残る半身を起こせば、豪奢な室内に一脚だけある椅子に彼が座していた。相変わらずの鋭い眼でナマエを見据えて。

「まさか、僕を拉致った……?」

現状の静けさに嫌な予感がして訊ねたナマエに、ミホークは当然だと言うように首を縦に振った。

「ぐっすり眠ってくれていたからな。運ぶのも楽だった」

「野蛮人に育ったんだね……。礼儀正しさはどこに行ったんだよ」

「欲しかったモノが目の前に現れたなら、どんな手を使ってでも手に入れる。ただそれだけだ」

薬も盛っただろと心中で吐露したナマエは、鈍い痛みだけではなく感じた体のだるさに溜め息を零すしかなかった。
椅子を立ったミホークはナマエのいるベッドの端に腰を下ろし、流れるような動作でそのままナマエの唇に口づけた。

「んっ」

「お前はおれのものだ。もう二度と逃がさない。――愛している」

「……っ」

「おれの愛しい……不老不死の化け物……」

彼の瞳の奥に愛欲の存在を見たナマエは酷く狼狽え、その腕から逃れようともがいた。だが、優しく体を抑えつけられ、絡められてしまえば、ナマエには逃げようがなど無かった。
蒼白の頬を濡らしはじめた涙は筋の痕を頬に残して、やがて柔らかなシーツに吸い込まれていった。

「再び愛し合おう、ナマエ」

「ミホーク……」

幾筋の涙を流す瞳に宿るのは、明らかな諦念だった。


何一つとして記憶は欠けていなかった。なのに、確かに胸の中にあったハズの、あの人へ抱いた柔らかく温かい気持ちが、消えてしまった。必死に掻き寄せようとしても、どこにもない。大切なモノを無理矢理かっさらわれたような、そんな感覚。
物言わぬ小さな双葉を愕然として見下ろす。そよりと触れた風に揺らめかせられているそのさまは、愚かな人間を嘲笑しているように思えてならなかった。

「元の世界に帰るために、僕は何度恋をしたらいいの……?」

哀れな異世界人の恋心を養分にして花開く植物を、ナマエは表情の消えた顔で静かに見つめた。不思議な植物の加護を受けた身体は、老いることも死ぬこともなく、血を流すそのたびに強い快感を呼び起こされた。

「ミホークが……好きだった。でも、『好き』って……なん、だっけ?」

――恋って、なんだったっけ。

「もう、やだっ……こんなのっ。ヒクッ……うぅ……帰り、たい。帰りたいよお……っ!」

「ナマエ……?どうした」

胸に巣くう虚無感に耐えられずむせび泣くナマエに気付いた彼は眠りから目を覚ました。すると、足元に咲いた双葉は幻だったかのように空気に溶けて消えていった。そうしてナマエは、若きミホークのもとから逃げ出したのだ。


ある日のこと。
ナマエの足元で、不思議な植物は小さな蕾をつけていた。
それはとても可憐な、薄桃色の蕾だった。

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