※攻主 ここは、グラン・テゾーロ。
一人の男が、従業員用の停泊所へ簡素な船を停めた。簡素といっても海賊への目くらましの為にそうを装っただけで、中は相当金がかかっている。男は大きく重そうな荷物を抱え上げ、ギィと悲鳴すらあげない床を歩く。荷物をよろめく事もなく担ぎながら、陸へ片足を踏み出した。
その瞬間。
ポンッと可愛らしい音を立てて大きな男が現れた。…このグラン・デゾーロの主の部下、無機物をすり抜けるヌケヌケ実の能力者であり、警備をとり仕切るタナカさんだ。
「するるるる…。おかえりなさいませ、ナマエ様 。テゾーロ様がお待ちでございます」
何時まで経っても慣れない"おかえり"と"敬称"にぎこちなく頷きながら、ナマエは差し出された手にタナカさんにとっては小さいとも言える袋を手渡した。その後今度は逆の手を差し出され、落ち着かないが、その手をとって、もう一歩を踏み出した。
そのままナマエが案内されたのは、テゾーロの大きなバスルームだ。
見回してみたが、時折見かける女性達は今回居ないようである。見かけるといっても、去っていく姿ばかりだが。たった一人、ゆったりと浴槽に浸かるテゾーロは、ただ、ナマエへ手を伸ばした。来いと呼ばれると立ちすくむが、手を伸ばせば応えようとする。そういうナマエの性質を長年の経験で知っているから。案の定、その手に応えるべく、ナマエは衣服を一枚一枚一枚脱ぎながら歩き、テゾーロの手をとって浴槽に浸かった。思わずナマエが小さく息を吐けば、テゾーロが手を伸ばし、ナマエの目元をこすった。 …くまが、濃くなっている。そう思いながらもテゾーロは違う言葉を口にする。
「遅かったじゃないか」
「珍しい金を集めるのが、私の仕事なんだろう?」
触られるがままに言うナマエの答えにテゾーロはただ笑う。その仕事に期限はなく、規約もない。それでも、テゾーロは毎回ナマエをやわらかく詰るのだ。おそい、と。言った後は、何事もなかったように仕事の成果や金のあった場所の話を聞く。大した話ではない。雑談のようなもの。もう何年もまともにグラン・デゾーロを出ていないテゾーロにとって、ナマエの話が唯一ビジネス抜きできく、グラン・デゾーロ以外の"外"の話しだった。
──ナマエの背中には、テゾーロが選んだ焼きごてによって、片翼があしらわれている。…その前は、テゾーロと同じ、竜の蹄があった。飼い主も、同じ。奴隷にされた時期はナマエが少しだけ早かった。…同じ檻にいた奴隷たち二人が、今広い浴槽で顔をつきあわせているのだ。形こそ、使うものと使われるものであったが、二人の間には確固とした繋がりが出来ていた。笑うなと血反吐をはくまで殴られ、倒れ伏した先には、必ず同じ憎悪の炎を目に宿したナマエがいた。
そこは、正しく地獄だった。けれど、感情を出すことすら許可がいる地獄でも、同じ地獄を味わっている同士がいることは、テゾーロとナマエのお互いにとって唯一の救いだったといえる。テゾーロは、おれが死んで、もし、お前が何かの奇跡で此処を生きて出られたなら、ステラを探して欲しい、何て今では考えられない戯言を吐いたこともあった。ナマエは、ただただ静かに「あァ、」と許容した。
フィッシャータイガーによる奴隷解放の日。
二人はもう、死にかけていた。しかし、生への執着はテゾーロが圧倒的に持っていた。置いて逃げろというナマエの腕を掴み、引きずるように無理矢理立たせ、まろびながら駆け出した。崩れ落ちそうになった時は、お互いの肩をぶつけあって、そうして何とか"外"に出た。ステラが死んだと分かった日、そばに居たのも、ナマエだったのだ。
そうして月日は流れ、テゾーロは緻密な計画の末ゴルゴルの実を手に入れ、優秀な部下を取り込み、遂にグラン・デゾーロを、完成させた。
その日、テゾーロは盛大なパーティを済ませるやいなやナマエをバスルームに連れ込み、大声で笑った。泣きながら笑った。今まさに二人がいる浴槽で、同じように二人浸かりながら。星があしらわれた背中を無防備にナマエへ晒し、自分だけの、外の世界を眺めながら。それは確かに、テゾーロが繋がれていた地獄の、悪夢の枷が、緩んだ瞬間だった。その光景を、ナマエはただ静かに見守っていた。
「ナマエ!ここは、おれの!わたしの世界だ!ここでは、わたしが王で、法律なんだ!!」
「…あァ、そうだ。その通りだ、テゾーロ」
テゾーロを眩しそうに目を細めて見つめながら、ナマエはこたえる。王に向かって不躾かとも考えたが、テゾーロが自分に敬われて喜ぶとも思えず、ナマエは何時もの様に返事をして頷いた。
「全て、わたしが支配し、采配する!笑うのも、絶望するのも、お、れが……!」
取り乱したテゾーロの言葉に、瞬間ナマエは息を呑み、溺れるのを恐れれるように、浴槽の縁を強く握った。あの地獄は終わったと言い聞かせても、チリチリとナマエの感情を次第にがらんじめにしていく。テゾーロは気づくこともなく、興奮した様子でナマエの顔を覗き込んだ。
「そうだ …!おまえ、まだ一度も笑っていないじゃないか!…笑えよ!もう笑っていいんだ!」
救いの言葉を投げたつもりで、ナマエの目を見れば、あの頃と同じ仄暗い炎と共に、他の色が見えた。それは、同士であったはずのテゾーロ自身に対する怯えでだと気づいてしまい、思わずテゾーロは口を閉ざした。同じようにナマエはテゾーロの目を見返した。あの頃、対のように飼い主への、閉ざされた未来への憎悪の炎を宿していた目には、今度はお互いに対して相手を理解出来ないという怯えを宿している。
「テゾーロ。それは、命令か…?」
苦しげに問い掛けたナマエに、テゾーロは目を見開く。そうしてあえぐようにぎこちなく、ちがう、と否定した。
「ちがう、わた、…おれは、おまえにだけは…」
「あァ。そうだな、すまないテゾーロ。……ありがとう」
私に許可をくれて、ありがとう。そう言って哀しげに目を伏せたナマエに、テゾーロは悟った。
もう、ナマエは、笑い方を忘れてしまったのだ。
震える手でナマエの頬に手を充てる。そのテゾーロの手をやわらかく外し、ナマエはもう一度、すまない、ありがとう、と言った。
「テゾーロ?」
過去におもいを馳せていたテゾーロは、目の前の男の呼びかけに意識を戻した。疲れているのかと気遣う視線に、首を振る。ゴールドステラショーに身を置く間は、テゾーロは夢の中にいることが出来る。"逃げ場所"がないナマエこそ、ひどい顔をしている。
──当然だ。
ナマエは、地獄に身を浸し続けているのだから。
「しばらく、わたしの傍で使用人の真似事でもしたらどうかね」
休ませたかったのか、テゾーロ自身分からなかった。自分の傍にいればナマエが救われるだなんて、思ってもいないのに。頑なに上がらないナマエの口角を両手の指で上げながら、半ば無意識にそう提案すると、ナマエは僅かに目元を緩めた。……ああ、こうしていると、本当に笑えているようだ。テゾーロが考えていると、ナマエが触れていた指を己のものと絡め、テゾーロの指先へ口付けた。大丈夫、と言わんばかりに。
「行きは情報不足で手探りだが、帰りの航路は何時だってお前に定まっている」
「…ナマエ、」
「…いいんだ。私まで、救おうとしなくていい。私の分までどうか、笑ってくれ」
慈愛の瞳に同じものを返せる気がせず、テゾーロは思わず目をそらした。
しかえしだ、とテゾーロの唇の端を自分の指先で上げるナマエに、自分だけが滑稽な程救われている、と思った。