※トリップ主


夢だったらいいのにと、そう思った。目を閉じて、開けて、そうすれば全てが元通りでいつもと変わらない日常がまたやってくるんだと、そう信じたかった。

この知らない場所で何度夜を迎えたか知れない。何度も目を閉じて、何度開いても目の前に広がる景色は変わってはくれなかった。
これは夢だと何回も頬をつねった。夢であればいいと思うのに頬に感じる痛みがそれを許さず俺を現実に引き戻す。

知らない町並み。知らない人間。檻に入れられた、奴隷みたいな扱いの人間もいた。日本じゃありえない光景だ。
日本で当たり前のように見かける黒髪黒目の人間は極端に少ない。それでも文字や言葉は日本語で理解には困らなかったが、だからといってこの状況が最悪であることには変わりはない。通りには刀だとか銃だとかバカデカい武器を堂々と持っているやつがうじゃうじゃいる。模造刀なんかじゃない。あれは本物だ。刀もナイフも銃も全部本物で、それが使われる場面を俺はしっかりと見た。見てしまった。簡単に人が死ぬ場面を。簡単に殺したんだ。そんな場面を何回も見りゃここが日本じゃないということは嫌でも分かる。
もうひとつ、ここが日本じゃないと確信したのは金だ。
喉が渇いて飲み物を買おうとした時とか、腹が減って飯を食おうとした時とかに財布から出した金はひとつも使えやしなかった。なんだこれ、そう言われて終わりだ。酷い時にゃ偽札だと言われて袋叩きにもされた。なんだこれって、そりゃこっちのセリフだ。なんで使えねえんだよ。ベリーってなんだ。どこの通貨だ。ふざけんな。
肌身離さず持っている携帯も見事に圏外の表示が出ていて、ネットもメールもLINEも繋がらない。孤立無援というのはこういう時のことを言うんだろう。充電器なんて持ってないから万が一の時のことを考えてバッテリーを温存しなければ。いつか帰れるって、そう信じなきゃ、身体中に渦巻く不安で今にも俺は俺を殺してしまいそうだった。

ここはどこなんだろう、いつ帰れるんだろう、そう思いながら空を見上げて過ごす日々。家なんてものはないからホームレスみたいに野宿をした。生きるために初めて惨めな思いをした。通りすがりのやつに罵られながらゴミだってあさったし、物乞いもやった。今も日本にいたならこんなマネしなくて済んだのに。ここがどこかもわからない、いつ帰れるかもわからない場所で俺はいつまで過ごせばいいんだ。
あまりにも惨めでひもじくて持ってるもの売っちまおうかと思ったけど、俺が持ってるものと言えば財布と携帯ぐらいで、財布なんか売ったって意味ないし、その中に入ってる金はもっと意味がない。日本じゃわりと高く買い取ってもらえる携帯ですら、普及してないこの町じゃガラクタ扱いで金にならない。
声をかけてきてくれる奴もいたけどそういうのは大抵俺を騙そうとしてきた。騙されたんだ。飯を食わせてもらって、風呂も入らせてもらえて、髭も髪も整えて、何から何までしてもらったけれど俺に近付いたのは俺が持ってる携帯が目当てだったかららしい。久々に使ったベッドでぐっすり眠って、起きたら携帯も財布も見当たらなかった。俺の希望。財布なんかどうでもいい。音楽かカメラくらいしか使えなかったけれど、いつか家族や友達に通じるんじゃないかって、誰か助けを呼べるんじゃないかって、そう思って持ち続けていたもの。手に収まるぐらいの小さなサイズの、薄っぺらい携帯が見知らぬ土地に飛ばされた俺に残された唯一の希望だった。
知らない町中を必死に走り回って探したけれど俺に優しくしたあいつはどこにもいない。人にも聞いてみたけど知ってるやつなんざいなかった。そりゃそうだ。この町にどれだけの人間がいると思ってる。どれだけの人間が出入りしてると思ってる。俺だったら目的のものを手に入れたならさっさとずらかるだろう。
なんで俺がこんな目に。そう思わざるをえなかった。

財布も携帯もなくして、身ひとつでまたホームレスに戻る。
それからはもっと惨めだった。小綺麗な服はゴミや泥や雨水で汚れて、また髪も髭も伸び始める。なくしてしまった。奪われてしまった。騙された自分を殺してやりたかった。小汚い俺に妙に優しくしてくれた時点でおかしいと気付いてりゃこんなことにはならなかったのに。俺は馬鹿だ。

「ねェ、おれの歌をきいてよ!」

ゴミをあさって盗みを働きながら生きる毎日。俺自身がゴミだと思い始めていた頃、膝を抱えて俯く俺の耳に届いた声はやけに高かった。誰だか知らないが俺を騙したってもう何も持ってねえぞ。そう思って無視を決め込んでいるとしばらくして歌が聞こえてくる。歌。あの日奪われた携帯の中に大量に入っていたもの。

当然ながら伴奏なんてもんはなく、伸び伸びと自由に高い声だけで歌を紡ぐ。拙い歌だ。記憶の中のどれもと違う高音に思わず顔を上げると、そこにいたのは楽しそうに歌うツギハギだらけのボロい服を着た子供だった。目が合うと子供は嬉しそうに顔を輝かせて声を張る。大人の顔面に浮かぶ醜い打算や欲望が何ひとつない、純粋で綺麗な子供の表情。気付けば俺は子供を凝視していた。

時に踊ったりして楽しそうに歌う子供が口元にあてていたマイクを下ろす。晴れやかな表情を浮かべている子供が妙に輝いてみえて、俺は自然と拍手を送っていた。

「いい歌だな。もっと歌ってくれないか?」
「…!うん!」

俺の言葉に子供はマイクをぎゅっと握りしめてまた口元へと持っていく。よくよく見てみると子供が持ってるものはただのオモチャだったが、誰も気にしやしないだろう。
すぐに聴こえてくる子供特有の高い声にほっと息をつく。何故だろう。安心する。リズムが変わっているからさっきとは違う歌のようだ。
聞いたことのない歌なのに妙に耳に馴染むせいか、ここに来てから一度として感じなかった安心感に肩の力が抜けていくのを感じた。楽しそうな歌が終わるまで俺は久しぶりに感じるそれを甘受する。



「──テゾーロか。イタリア語で宝物っていう意味だな」
「イタリア語?」
「いいさ、分かんないならそれで」

レパートリーがなくなるまで歌ってもらった後、路地裏に二人座り込んで話をする。子供の名前はテゾーロと言うらしい。大学で専攻したイタリア語がこんなところで役に立つとは思わなかった。

ころころと変わるテゾーロの表情は見ていて飽きない。俺を見上げる無垢な瞳。子供なら大丈夫だと思った。子供なら俺を騙したりしない。もしかしたら、子供には騙されないと思っていたのかもしれない。

「…時々でいいから、また歌を聴かせてくれるか?」
「…いいの?」
「ああ」

テゾーロの歌が聴きたいんだと言えばテゾーロは満面の笑みを浮かべて元気よく頷いた。頭を撫でてやるとさらに嬉しそうに笑うから、俺は自分に価値を見いだせたような気がして。嬉しかったんだ。
誰もが俺を気にもとめずにいる中で、テゾーロは俺に声をかけてくれた。ただ純粋に歌を聴いてほしくて俺に話しかけたテゾーロ。以前の俺ならそう言われても無視していただろう。テゾーロは俺を騙したような汚い大人とは違う。テゾーロは俺に、俺だけに歌ってくれる。ゴミだとさえ思った俺を人間にしてくれる。
この出会いが俺のこれからの人生を変えたんだ。

花が咲き乱れる春の町を二人で歌いながら歩いた。
夏には日差しに打ちのめされそうになりながら二人で水浴びなんかもして。
レストランの厨房に忍び込んで美味そうな食い物をかっさらう、スリル満点の秋。
極寒の冬には寒さをごまかすために二人で踊った。

着ている服を見れば分かることだが、テゾーロの家は貧乏だった。貧乏だと馬鹿にされて同じぐらいの年頃の子供から仲間はずれにされているテゾーロを見たことがある。
でもそんなのいいじゃないか。テゾーロには俺がいる。俺がいくらでも遊んでやる。
なのにテゾーロはそいつらの言葉にいちいち落ち込んでは泣いている。記憶の中のテゾーロはいつだって笑顔なのに。いつだって笑っていてほしいのに。今の俺はあまりにも無力だ。
楽させてやりたいって、笑っていてほしいって、貧乏だと馬鹿にされるなら稼げばいいんだと、俺はどうにか職を見つけて住み込みで働き始めた。ここじゃ日本みたいに履歴書なんてものは必要ないらしい。

今度は俺がテゾーロの希望になるんだ。テゾーロが俺にとってそうであるように、俺も。


ある日、テゾーロの父親が死んだと聞かされた。ギャンブル好きで金を使い込んでいたらしい。手術代が払えなくて死んだんだと。
でも俺は思う。家族を顧みないギャンブル好きの父親なんざ死んでよかったじゃねえかって。テゾーロには言えやしないが。


「おれの歌、聴いてくれる?」
「ああ、勿論」

夜、テゾーロがいつものようにオモチャのマイクを持って泣きそうな顔で俺のところに転がり込んできた。母親はテゾーロの歌が嫌いらしい。歌うとうるさいって言われるんだと。だからうるさいって言わない俺のところに来たんだって。
宝石の意味を持つ名前をつけたのは親だろうに、貧乏というのは心まで貧しくさせるものらしい。そんな中でテゾーロだけは変わらずにいてくれるから、俺はテゾーロを見ると安心するんだ。
今の俺は自分の世話で精一杯だけど、もっと稼ぎが増えればテゾーロひとりを養うこともできるはずだ。また希望を抱いた。訳のわからない場所で頑張れるのはテゾーロがいるからだ。

「テゾーロ。俺がいっぱい稼げるようになったら、二人で一緒に暮らそうな」
「ナマエと一緒に?…毎日歌える?」
「ああ、いつだって歌えるぞ!誰かに怒られることもない」
「…!!おれ、ナマエと一緒に暮らす!!」
「ははっ、約束な?」
「約束!!」

テゾーロとの約束。
俺の希望。それが唯一俺を生かす。もっと頑張らなきゃいけない。そう思った。

それからだ。徐々にテゾーロが変わっていったのは。毎日のように俺のところに歌いに来ていたのに、その回数は少しずつ減っていった。俺が仕事を増やしたせいもあると思う。
家を出たらしいテゾーロは食うのに困って金を盗んで、その金で子供ながらギャンブルや酒に溺れていった。金を盗んだのはきっと俺のせい。しょっちゅう食い物を盗んでいたから、盗むことを覚えてしまったんだ。

「テゾーロ。なんで俺を頼らないんだ」
「………」

会うたびにどこかしら怪我をしているテゾーロに簡単な手当てをしながらそう問いかけると、子供のような仕草でぷいと顔を背ける。バツが悪そうな顔だ。
成長したテゾーロの目は昔のような純粋な瞳じゃない。打算が混じりはじめた、成長した子供の顔。

「…歌、聴かせてくれよ」

ああどうか変わらないでくれと願う。
どこかほっとしたような顔をして歌い始めるテゾーロの声は、高いだけじゃあなくなっていた。


それから4年。
16歳になったテゾーロに子供の頃の面影はどこにも見られない。口調も荒々しいものになって、身長も伸び顔つきも声も男らしくなった。服だって俺より立派なものを着ている。全部変わってしまった。
けれどデカいショーのステージで歌いたいという夢だけは変わらず、子供の時のようにキラキラと瞳を輝かせていたから、微笑ましい気持ちになって昔みたいにテゾーロの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。

「子供扱いするんじゃねェよ」

そう言って拗ねたように口を尖らせるくせに俺の手を振り払おうとはしない。撫ですぎて髪がぐちゃぐちゃになるとさすがにやめろと言われたが、テゾーロはあの頃のままだ。よかった。
お互いボロボロの服を着て、それでも楽しく歌い、笑っていたあの頃が懐かしい。

テゾーロを養えるぐらいの金は貯まったし、小さい家なら買えるぐらいの金は持っている。身なりを見るに俺よりもテゾーロのほうが稼いでいるんだろうが、16歳といえばまだ親の庇護下にある年齢だ。年上の俺が養うのが道理だろう。

「なあテゾーロ。約束、覚えてるか?」
「……、何のことだ?」

昔を懐かしみながら約束を口にするとテゾーロの表情が固まり、何の感情も読み取れない顔で俺を見る。大人の目で俺を見るテゾーロに狼狽えた。あの約束を忘れてしまったのだろうか。

「一緒に暮らそうって、」
「…悪ィ、ナマエ。用事があるからもう行く」

俺の顔を見ずに立ち上がるテゾーロに違和感を感じる。何か。壁を作られている、気がする。
本当は覚えてるんじゃないか。そんな言葉をかける前にテゾーロは出て行ってしまった。
何か胸のあたりが苦しい。なんだ、これ。

その後だ。テゾーロの噂が俺の耳に入ったのは。
ボロボロの姿でカジノから出てくるテゾーロを見たと聞いた。そのカジノは負けた客を売って金を巻き上げる最悪な賭博場として有名だ。カジノで働いたこともあるからそっちの話はよく知っている。
捕まるようなヘマはしていないようだが心配になった。
テゾーロ。一体どこへ。

今思えば、約束を忘れたフリをしたのは俺を巻き込まないためだったんだろう。俺のところへ来る回数が極端に減ったのも、会う時間が短くなったのも、外で会うことがなくなったのも全部、俺がテゾーロと一緒にいるところを見られないよう、俺に被害がいかないように。

俺はテゾーロが一緒ならどこへだって、それが例え地獄であろうとも喜んで行ってやるのに。
なんでテゾーロは俺を頼らないんだ。

1日だけ休みを貰って必死にテゾーロを探して走り回る。昔二人でよく行った場所、二人で見つけた秘密の場所、あちこち探し回ったけど広い町を探すには1日だけじゃ足りない。
俺のところへ来ていないかと少しだけ期待して家に帰ったけどテゾーロが来た気配はなかった。

翌日、仕事の休憩時間にもテゾーロを探す。休憩時間なんてたかが知れてるから仕事場の近くしか探せない。こんなんじゃダメだ。
きっとテゾーロは昔みたいに泣いてるから、俺が助けてやらなきゃ。

テゾーロを探し始めて1週間。週に一度しかない休日、まさかここにはいないだろうと足を運んだヒューマンショップでテゾーロの姿を見つける。

テゾーロ。
そう声をかけようとしたけど、聞こえてきた笑い声に言葉が出てこなかった。

テゾーロが、笑っている。
楽しそうに、嬉しそうに、心底幸せそうに。
最近じゃとんと見ることの少なくなった表情を見せている相手、は、だれだ。

テゾーロに気付かれないよう距離を置いて、客を装って柵の中がギリギリ見える位置を通り過ぎる。
ヒューマンショップの店の柵の不自由な向こう側、手と足に錠をかけられた女性が、夢を語るテゾーロの話を聞きながら幸せそうに微笑んでいた。

「おれはステージで歌を歌いたい!デッカイショーのステージで!!」

弾んだ声。
他に見向きもしないテゾーロの目。子供の頃に戻ったような輝き。
それを引き出しているのはあの奴隷の女だ。
ステラ、とテゾーロが名前を呼ぶ。ステラ。イタリア語で星の意味。

そういえばあれからテゾーロは俺に会いに来ない。もう何日も歌を聴いていない。
あの女には聞かせているのに俺には。


テゾーロの噂を聞いた。
どうやら悪事をすっぱりとやめて、まともに働き始めたらしい。朝も昼も夜も、深夜でさえも、ろくに眠りもせず飯も食わずに働き続けている。
理由はすぐに理解した。
あの女だ。あの女にはすぐに払えるような額じゃないほどの高額な値段がついている。

無理な労働で体はボロボロのはずなのにあの女に会いに行く時はいつも笑顔だ。幸せそうに笑ってる。
わかった。わかってしまった。
あの女がテゾーロにとっての希望なんだと。俺はテゾーロの希望にはなれなかったんだと。
足元が崩れ落ちる感覚がする。眩しい光が徐々に霞んでいく。

俺にはお前しかいないのに。
お前がいたからここまでやってこれたのに。
なんでだ。





テゾーロが俺のところへ来たのはそれから3年後の深夜のことだった。前と違っていつでも家にいるから行き違うこともない。いつだってテゾーロを迎えてやれる。そう思って3年。仕事を辞めた俺の貯金はだんだんと減っていく。

「…ステラのことが好きなのか?」

いつものように歌うテゾーロ。いつもと違う歌は今まで一度も歌ったことのないラブソングだ。
自然と口をついて出た質問にテゾーロはピタリと歌うのをやめて、真っ赤な顔で俺を凝視する。

「なんでそれを、」
「…噂になってるぞ、悪ガキが美人に惚れて真っ当になったってな」

テゾーロは俺の言葉を聞いて俯き、赤くなった顔を隠すように手のひらで覆う。思春期の青年のような反応だ。もうテゾーロは少年ではなくなってしまった。

「…もうすぐ金が貯まるんだ。ようやくステラを買い取れる」

俺はお前と暮らすために今まで一生懸命働いてきたってのにお前は。
そんな言葉を必死に飲み込んで、作った拳を冷静な左手で押さえつける。皮膚に食い込んだ爪が痛い。
無理やり口角を上げて、そうか、頑張れよ、なんて思ってもいないことを口にする。こんな時自分が日本人であることを恨むんだ。世間じゃ奥ゆかしいだとか言われることがあるが自己主張や自己表現が苦手なだけで美徳でもなんでもない。
今この瞬間から俺はただのゴミに戻った。テゾーロと出会う前の、なんの価値もないもの。

あの頃の輝きを取り戻したテゾーロは仕事が始まると言ってすぐに出て行く。3年前よりも身長が伸びて、俺と変わらないぐらいになった。あと少ししたら抜かされてしまうだろう。

あと少し。いつ。
次は、いつ。





「ステラ!!!」

次にテゾーロの声を聞いたのはそれから少ししてのことだったか。皮肉にもあの女の名前を呼ぶ声だった。
だがここはヒューマンショップじゃあない。あの女はいないはずだ。
不思議に思って外に出ると黒服の男に引きずられているテゾーロが目に入った。奴隷のように首輪をかけられた、テゾーロが。

待て。そいつは商品じゃない。売り物なんかじゃあ、ない。どこへ連れて行くつもりだ。

「待って、待ってくれ!テゾーロ!!」

テゾーロを追って通りに出るとすぐに黒服の男に取り押さえられた。
あの女の名前を叫んでいたテゾーロが振り向く。その顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
ああ。俺はまた何もできなかったのか。また泣かせてしまった。何をやっているんだ俺は。
テゾーロの青い目が驚愕に見開かれる。

「ナマエ!?そいつを…そいつを離せ!!」
「テゾーロ!!!」

拘束から抜け出そうと暴れてみたが俺を掴む男の腕はびくともしない。クソ。
見れば町のやつらは全員道の端に寄って地面に平伏していた。なんだ。
なんだ、この状況は。

「うア!!!!」
「………!!!」

パン、と何発か乾いた音が響いた。
ドラマでよく聞く、この世界じゃ当たり前のように存在する音。発砲音。肩が、腹があつい。

「…これで静かになったえ」

撃たれた。撃たれた?
そう理解するとすぐに体が痛みを訴えだした。
テゾーロ。同じように撃たれたらしいテゾーロは道に血痕を残しながら黒服の男に引きずられていく。

待って。連れて行かないでくれ。テゾーロ。



目覚めてからは地獄だった。
焼きごてで背中に押された烙印は人間以下だという印らしい。痛みに気絶して、無理やり起こされた時にそう言われた。お前は家畜だと。家畜以下だと。
俺はゴミだ。テゾーロを助けることができなかったゴミ。人間以下、家畜以下と言われても何も感じない。ただテゾーロのことが気掛かりだった。黒服の男にテゾーロもここにいると言われたが奴隷に自由なんてもんは与えられない。探しに行くこともできなかった。

利益も何も得られず最低限の水と食事だけで労働を強いられる毎日。鞭を打たれることなんてしょっちゅうで、ろくに治療もしないから皮膚がただれて酷い有様だ。見える範囲でこうなのだから、見えない背中はどうなっているんだろう。──それでもあの烙印だけは綺麗に残っているんだろうけど。

何日、何ヶ月、何年経ったか知れない。
どのくらい前だったか、あの女が死んだと聞かされた。テゾーロとの記憶を思い出して笑うたびに鞭を打たれるから俺の表情筋は死んでしまっていたけど、心の中では笑っていた。
ああ。テゾーロ。やっと解放されたんだ。これで俺のところへ戻ってくる。やっと。

ようやく希望が戻ってきた。
テゾーロに会わなければ。それまで俺は死ねない。どこかにいるというテゾーロに会わなければ。

そうは言っても奴隷は奴隷でしかない。俺はただその時を待った。忍耐力には自信がある。
働いて、動いて、働いて、倒れて、打たれて、働いて、打たれて。その繰り返し。筋力も徐々になくなっていった。

それでも諦めずにしぶとく生き続けた結果、転機が訪れる。
どこかの誰かがこのマリージョアへと乗り込んであちこちに火をつけ、捕らえられている奴隷を解き放った。俺も例外じゃない。忌まわしい首輪がとれて、手枷や足枷も外される。鎖は力任せに引きちぎられた。

「なああんた、テゾーロを見なかったか!?黄色みがかった緑の髪で青い目の…」
「…!?いいから早く逃げろ!絶対に捕まるな!」
「ッ!」

鎖を引きちぎった赤い肌のデカい人間にテゾーロの居場所を尋ねると信じられないといったように目を見開いて俺の体を押す。ろくに筋力のない体はすぐに吹っ飛んだ。待ってくれ。引き止める声も聞こえない様子で走り去っていく。
こうなったら自分で探すしかないと、すぐに立ち上がってテゾーロの名前を叫びながらあちこち探し回った。テゾーロ。どれだけ叫んでも返事はない。

「なあテゾーロを知らないか、黄色みのある髪に青い目の、」
「あいつならとっくに逃げたよ!!!お前も早く逃げろ!!」

奥からばたばたと走ってきたやつにテゾーロについて聞くとそんな言葉が返ってくる。逃げた。逃げた、のか。テゾーロは。
俺を置いて。

──逃げたなら、よかった。あとは無事に逃げ切ってくれればそれでいい。

テゾーロ。俺の全て。
またやり直そう。
どこにいたって必ず見つけ出してみせる。
昔の約束を本当にしよう。二人で一緒に、幸せに暮らそう。

次の希望を胸に抱いて、俺は生きるために必死にマリージョアから逃げ出した。




わけのわからない町に到着して、無事に逃げ切れたことを喜ぶ暇もなく町中を探す。もしかしたらテゾーロがここに逃げてきているかもしれない。そう思って2日かけて探したがテゾーロの姿はどこにもなかった。
いないなら次の町へ。町から町へ、島から島へ。無一文だった俺は手っ取り早い方法で稼いだ金をテゾーロを探すための資金にあてた。時に人を騙しながら。罪悪感なんてものはない。まずはテゾーロ。後のことはそれからでいい。


商人やったり海賊やったり海軍に探りを入れたりして過ごすこと6年。ここが俺のいた世界じゃないことにようやっと気づいたが今の俺にはどうでもいいことだ。テゾーロという光を見つけたから。

ようやく。ようやくテゾーロの所在を突き止めた。
どうやら今、テゾーロは"ゴルゴルの実"という金を生む能力を持っているらしい。食っただけで何かしらの能力を得る実なんてまるでゲームみたいだが、残念ながらここが限りなく現実であることは今までに嫌というほど思い知らされている。

そこから俺の行動は早かった。
武器を売る有名な商人に弟子入りして、商戦のいろはを習う。前にやったことがあるからか飲み込みは早かった。交渉術や心理戦、相手をいかに掌握するか、それら全てを1年で頭に叩き込む。師匠とも言うべき人に一人前として認められたその瞬間、俺はそいつを殺した。躊躇いはなかった。全てはテゾーロの為。仕方のないことだ。

全てを奪って俺のものにして、そしてそれを武器にする。
テゾーロを幸せにするためには知識だけじゃなく力をつけなきゃいけない。
金はある。地位や権力があればなおいい。そのための準備なら時間は惜しまない。
今、テゾーロは戦力を高めているという。七武海の一人さえ迂闊に手を出せないほどだと聞いた。ならすぐにやられるようなことはないだろう。

それからテゾーロと再会できたのはおよそ3年後のことだった。滅多に出回らないテゾーロのビブルカードを入手するのに時間がかかったからだ。最後に会ったのは10年以上前になるか。
あの時よりも立派な服を着て、たくさんの部下を従えて、テゾーロがその能力で創ったという黄金の町、グラン・テゾーロに足を運ぶ。降り注ぐ金粉もテゾーロの能力か。

10kmぐらいはあるだろうかと思うぐらいの巨大な船。船着場につくと赤髪の女が近付いてきたがその顔がどことなくあの女に似ていて殴り殺したくなった。その前に案内を丁重にお断りしておく。カジノには興味がない。俺が興味を抱くのはテゾーロだけだ。

町のあちらこちらにあるモニターには青年の頃より遥かに深みの増した顔のテゾーロが映し出されている。
テゾーロの横には妙に顔のデカい人間もいたが、まあそいつはどうでもいい。

テゾーロ。ようやくお前に会える。作り笑いじゃなく、久々に本心で笑えるような気がする。
そう思ったのに、モニターに表示された文字に表情が固まった。

"GOLD STELLA SHOW"

あの女はまだテゾーロを縛り付けているのかと。テゾーロはまだあの女に。

なんで俺じゃない。
俺はこの世界に来てお前に出会ってそれから今までずっとお前のことを考えて生きてきたのになんでお前はあのぽっと出の女ばかりを。

ああ。
自分の中で愛しさが憎しみへと姿を変えていくのを、どこか冷静な頭で感じていた。





「テゾーロ。俺を覚えているか?」
「………ナマエ…!?」

妙に顔のデカい人間に手を引かれて壁をすり抜けた先で、懐かしい相手と再会する。
惚けたような顔をしていたテゾーロは俺だと分かるとこれでもかというほどに目を見開いた。

「少し席を外す」
「はい、テゾーロ様」

テゾーロがそう告げると顔のデカい人間が返事をする。綺麗な青い瞳が俺を見た。どくりと脈打つ心臓に気付かないフリをして、俺を呼ぶテゾーロの後に着いていく。部下にはVIPルームで待機してもらおうか。



「ナマエ」

案内された部屋は二人きり。監視用の電伝虫もいない。
俺の予想を越えた背丈の、成長したテゾーロが震える声で俺の名前を呼ぶ。記憶の中のどれもとは違う声だ。ああ、もう大人になってしまったんだ。それほど長い時間が経ってしまった。そして同じように俺も。

「今までどこにいたんだ。町を探してもどこにもいなかったのに」
「少し旅をしていたんだ。いなくなったお前を探してね」

テゾーロだけは変わらないと信じていた。いや、願っていた。けどそう願った部分は全て変わってしまって、変わって欲しいと願った部分だけは永遠に変わらない。
お前は今も星に捕らわれたまま。

テゾーロの背には人間以下の烙印をかき消すマークが焼き付けられている。それは星の形をしていると聞いた。永遠に治らないキズを、あの女をその身に永遠に刻んだ、なんて。

「テゾーロ」

両手を広げる。この数年で楽しくもないのに笑うことに慣れてしまった。
記憶の引き出しをあさって、できるだけあの頃と変わらない笑みを浮かべる。

「また会えて嬉しいよ」

俺よりデカいテゾーロが、戸惑いながら俺に近付いてくる。笑みを深める、演技をした。
抱きしめて、背中をぽんぽんと叩いた手を滑らせるように上へ。少し届かないな。
…報告では星のマークは右肩よりやや下あたりだったか。そう思いながら「でかくなったなあ、ちょっと屈めテゾーロ。手が届かない」と告げれば何の疑いもなく俺に体重を預けるような形で屈む。馬鹿だな、テゾーロ。

「う…ッ、…ナマエ…!?」

袖に隠していたナイフを取り出してテゾーロの肩に突き刺す。浅い。うまく隠せるようにと刃の短いものを選んだのがいけなかったか。どうせなら複数の箇所に一気に穴を開けられる武器を用意しておくんだった。
肩を押さえて呻くテゾーロは俺をキッと睨みつけると血が付着した手で俺を突き飛ばす。あの頃と違って筋肉もついたからそう簡単には飛ばされやしないが、ほんの少しの距離を開けるには充分だった。

「ナマエ…!」

瞬く間に地面から黄金の触手のようなものが生えてきて俺を拘束する。そうか、これがテゾーロの能力か。

「何故だ…!ナマエ!!」

俺を見るテゾーロの目には困惑と怒りが浮かんでいる。聞いた話じゃ人を黄金に変えることもできるようだが、それをしないのは情けからか。俺の首に伸びてきた大きな手にあまり力は入っていないようにも思うが、これは首を鍛えたせいだろうか。

「言え!!何故おれを殺そうとした…!」
「殺す?俺がテゾーロを?まさか。そんなわけがない。テゾーロが死ぬなら俺も死ぬさ」

テゾーロがいない世界で生きられないってのに、テゾーロを殺そうとしたなんて思われるのは心外だ。それに殺すつもりなら肩なんてまだるっこい場所狙わない。そうだろうテゾーロ。

「俺が殺したいのはあの女だ」

テゾーロが不可解そうな顔をする。
あの女、と言われてお前の一番近くにいる女を想像したか。それとも性欲処理のためだけに広いベッドに連れ込んだ女たちか。どちらにせよ全員殺してやりたいがね。

「あの女…?」

テゾーロは肩に刺さったナイフを引き抜くとその能力で傷口を塞いだ。能力者ってのは便利なもんだな。
これだけあの女に縛られてるのにテゾーロには自覚がないらしい。自然と嘲るような笑みが漏れた。

「なあテゾーロ。俺もな、奴隷だったんだ。天竜人のさ。背中にはあの焼き印がある」
「!!!!」

俺の言葉に一瞬固まったテゾーロがそれを確かめるように近付いて、血が付着したナイフで俺の服の背中部分を裂く。よく切れるだろう、それ。突き刺すことは試していなかったがな。

外気に晒された背中の中央に堂々と存在する竜の蹄を見て、テゾーロが息を飲んだのがわかった。うそだ。そんな声が聞こえる。俺にとってこれは屈辱の証でもなんでもないが、テゾーロからすれば違うらしい。俺はむしろ天竜人に感謝してるんだ。あの女を殺してくれたあいつらに。

「奴隷から解放されたあの日、散々お前を探し回ったんだ。でもお前はとっくに逃げたって聞かされた」
「知っていたらお前を置いて逃げたりしなかった!!」

どうやらテゾーロは奴隷の時でもあの女のことばかり考えていたらしい。捕まってたなら例え気絶してようが死にはしない限り一緒に連れてかれるって少し考えりゃ分かることなのになあ。それとも誰かに何か吹き込まれたか。俺が黒服の男にそうされたように。

「待ってろ、こんなマークおれがすぐに消してやる…!」
「お前と同じ印を?ははッ、冗談じゃない!…それを俺に焼き付けるな…!」

星のブローチ。星のピアス。星の焼き印。
モニターに映っていたテゾーロのステージ用の衣装にも星が散っていた。海賊旗にまで星が入っていやがる。どこまでもお前はあの女を忘れない。
お前を奪って捕らえて離さないそれを俺に焼き付けるというならこれ以上の屈辱はない。

テゾーロは何も知らない。
俺がどんな思いでいたかなんて。
俺がどう思ってるかなんて、何も。


「Ti adoro」

遠い昔に習った、イタリアでの愛の言葉。
イタリア語が存在しないこの世界じゃ意味は通じない。知っているさ。

眉を寄せるテゾーロに「おいで」と声をかける。黄金に拘束されている今の状況じゃ何もできないと判断したのか、テゾーロは素直に近付いてきた。あの頃みたいな、バツの悪そうな大人の顔で。

テゾーロの身長と同じくらいの高さまで持ち上げられた俺がそれをするのは簡単だった。
テゾーロの唇に俺の唇を重ね、すぐに離れる。至近距離で見る顔は驚いた様子で俺を凝視していた。

「テゾーロ。お前がステラを愛したように、俺もずっと、お前を愛していたよ」

いつからだろう。いつからこんな感情を抱くようになってしまったんだろう。
最初はただ、笑顔を守りたいと思っていただけだったのに。

「愛しているから、ステラを愛したお前が憎くて、簡単にお前の希望になったあれが心底嫌いだった」

あの時のお前の笑顔を見たとき、心臓が止まるかと思った。それほどまでにお前は輝いていたし、お前なんか眼中にないと、ステラがいればそれでいいと言われたようで悲しくて、呼吸を止めてしまいたかったよ。

「愛してるんだ。今も。お前がそうであるように、俺もお前を」

ステラは死んだ。もう10年以上経つってのに、お前はまだ想い続けている。
俺とあの女で何が違ったんだろう。何がそんなにテゾーロの心をとらえたのか。

俺はステラに嫉妬していたし、同時に羨ましいとも思っていた。
でももう、いいんだ。もう。

「ナマエ、」
「俺を殺せ。もう終わりにしてくれ。今でもあの女を見ているお前を見るのが辛い」

俺はテゾーロの希望にはなれない。俺はテゾーロの特別にはなれない。
だったらもう、生きている意味なんてない。
今までの人生、棒に振るった気分だ。食い物も服も金も盗んだし、人だって殺した。くだらない人生だった。日本で生きてたら絶対にありえない。何かを盗むことも人を殺すこともテゾーロに会うことも、ありえなかった。
それでも最後に見るのがテゾーロなら、悪くはないかもしれないと、そう思う。

「殺せ、テゾーロ。お前の力で黄金に変えろ。俺を欲しがる奴も多いだろうから、売れば相当金になるはずだ」

俺はただのゴミでしかないが、他のやつにとってはそうじゃないのを俺は知っている。
例えばあの有名な海賊だとか、俺に執着する名の知れた海兵だとか、そういった悪趣味な奴らが欲しがることだろう。今まで散々悪いことをしてきた。それがあるから今の地位を確立している。

「…ナマエ」

テゾーロが泣いている。何故だろう。悔いるような顔だ。
俺にはテゾーロの涙の意味は分からないが、さすがに鼻水垂れ流すまでには至らないらしい。ここでもあの女との差を見せつけられるなんてな。

「殺せ。もう生きていたくない」

お前を見るのが辛い。
そう言葉にすると、テゾーロがギリッと唇を噛んだ。俺に向けて伸ばされる右手。よかった。左手を見せられたら気が狂ってるとこだ。両手につけた金の指輪は左手の薬指にだけは嵌まってはいないから。永遠の愛を誓う指。テゾーロは遠い昔にとっくに捧げているんだろう。
憎らしくてたまらない、羨ましくてしょうがない、俺が心底大嫌いなあの女に。

「ありがとう、テゾーロ」

拘束されている手足から徐々に感覚がなくなっていく。
テゾーロの涙が床に落ちるのを見る前に、俺の視界は閉ざされた。







黄金の町、グラン・テゾーロ。
一つの国に相当するその巨大な船には、船長でもあり国王でもあるテゾーロしか入れない部屋がある。テゾーロしか知らない、他の誰も知らない秘密の部屋。

その部屋にあるのは成人の男性を象ったひとつの黄金。
壮年と思わしき男はとても穏やかな笑みを浮かべている。まるで今にも動き出しそうな、生きているかのような豊かな表情だ。

「ナマエ」

テゾーロは黄金に手を伸ばして頬の部分に触れ、誰かの名前を呼ぶ。かつてこの海で名を馳せた、卓越した手腕を持つ商人の名前だ。目の前にある黄金によく似ている。

「今、約束を果たそう」

壊れ物を扱うかのように硬質の頬を撫でる。今にも動き出しそうなのに決して動くことはないそれ。

何も言わぬ黄金に、テゾーロはそっと青い瞳を伏せた。

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