おれはその昔、孤児だった。
物心ついた時には既に施設にいて、おれと同じような子供ばかりが暗い顔して集まっていたように思う。
おれより年上だと言うやつもいたけど、その細くて小さな体を見るに到底年上には見えなかった。
その理由は子供ながらもすぐに理解できた。
そこではろくに飯も食えなかったし、運動だってさせてもらえなかったからだ。少し騒げばおれ達より遥かに大きな大人から殴る蹴るの暴行を加えられ、泣きわめく赤ん坊は口を塞がれ、その結果死んじまうヤツだって何人もいた。男も女も、年齢だってあいつらには関係ない。自分より弱いかどうか、それが判断基準だったんだろう。あいつらにとっておれ達は家畜と同等かそれ以下だった。ストレスのはけ口、そう、そんな感じだ。
何度も何度も、もう二度と動かなくなったやつを何人も見てきた。

そんな劣悪で最悪な環境でもおれはしぶとく生き抜いて、掃き溜めみたいな場所で三年過ごしたあととうとう逃げ出した。逃げるおれを追いかけてくるやつはいない。あの時のおれはひとりで生き抜く術も知らない無力なガキだったから、逃げたところで野犬に食われるなり崖から落ちるなりして死ぬと思われていたんだろう。

けど事態はあいつらの思い通りにはいかなかった。
鼻水やら涙やら垂れ流して足をもつれさせながらも必死に逃げた先で、おれは救われたのだ。
"セイギ"を背負う海軍に、当時中将だったセンゴクさんに。
大人はあいつらのようにおれ達をストレス発散の道具として使うんだと思っていたから、当時は救われたなんて思っちゃいなかったが。むしろ見つかって逃げようとしたくらいだ。
けどセンゴクさんはみっともない姿のおれを殴ったり蹴ったりすることはなかった。おれと同じ目線になるようにしゃがんで、何があった、どうしたんだ、と優しく聞いてくれた。あんな優しく触れられたのは、言葉をかけられたのは初めてだった。施設から逃げ出したおれには何もかもが初めての感覚で、貰ったおにぎりはとても美味くて、あったかくて、それからずっとおれの大好物だ。

おれはセンゴクさんに拾われて海兵になり、そして彼のようになりたいと日々己を磨いてきた。
そうした日々の中で出会ったのが、おれより二歳年下のロシナンテ。初めて会った時はびくびくと震えてセンゴクさんの後ろに隠れていたっけ。
それなりに年相応の体に近づいていたとはいえ、まだまだガキで目立った成長はないおれよりも小さい体は施設に残してきたやつらのことを思い起こさせた。今あの施設がどうなっているかは知らない。ロシナンテの面倒を積極的に見ていたのは今思えば罪悪感からだったんだろうな。

こいつもおれと同じような体験をしたってことに気付いたのは、周りの大人を見て怖がる素振りを見せたからだ。抗えない暴力がどんなに恐ろしいか、命を奪われることに怯える日々がどれだけ心を潰していくか、おれにはわかる。それからおれはこの小さな体を守ってやんなきゃって、絶対に守ろうって心に決めた。

ロシナンテを弟のように思って接して、あいつがバカみたいにドジするのを助けてやりつつ一番近くで共に過ごしてそれから数年。その頃にはおれはロシナンテをロシーと呼ぶようになっていたし、弟という認識も微妙に変わっていた。そりゃそうだ、成長したロシーはおれよりでかくて、とてもじゃないが弟には見えない。
歳を取ってもドジをやらかすとこだけは変わらねェが、ロシーもおれも、あの頃に比べて随分逞しく成長したと思う。あの時のおれ達が大人と呼んでいた年齢になり、センゴクさんの庇護を必要としなくなった。

それからしばらく経つとあいつは中佐の地位になり、おれは大佐の地位を与えられた。名誉なことだ。生憎とそれを自慢できる親はいねェが、おれを拾ってくれたセンゴクさんやこの数十年間共に過ごしたロシーがおれにとっての家族だったから、親がいなくても寂しくはなかった。


「お、おれは、ナマエが好きだ!」

お互い昇進したその日、二人で暮らしている家で、飯時にそんなことを言われた。何当たり前のことを言ってるんだ、そんなのおれも同じだと返そうとしたが、顔を真っ赤にしてぷるぷる震えてるロシーを見てそんな言葉はすぐに吹き飛んだ。

あれはいつだったか、大人になる少し前からキスというものをロシーからされて、それが今の今まで当たり前になっていた。おれは色事には一切興味がなかったから、唇をそっと舐められる意味もわかっちゃいなくて、ましてや自分がその対象になるなんざ思っちゃいなかった。
ただキスされても舐められても寝るときベッドに潜り込まれてぴったりとくっつかれても嫌じゃなかったってのは確かで、ロシーにそういう意味で好かれていたとしてもおれの中で特に何かが変わるわけがないと思った。ロシーはおれの一番大切な存在だ。それだけは絶対に揺るがない。

「ロシー」

口に運ぼうとしていたスプーンをスープの中に戻してロシーを見る。自分でも驚くくらい真剣な声だった。
ロシーはびくりと大きな体を震わせて少し視線を落とし、それから覚悟を決めたようにおれの目を真っ直ぐ見る。

「好きって、そういう意味でか?」

ロシーの目を真っ直ぐ見つめ返し、確認のために口を開いた。ロシーは首を縦にふる。質問の答えはイエスだ。
「おれはナマエと、こいびと、に、なりたい」と、途切れ途切れではあったがしっかりと自分の気持ちを口にする。
そうか、と短い言葉を返すとロシーの喉仏が上下に動いた。

「別にいいぜ、おれは。ロシーと同じかどうかはよく分からねェが、おれもロシーが一番好きだし」
「…!!いいの、あっつ!!!」

おれの言葉に目を見開いて椅子から立ち上がったロシーは机につくはずの手を勢い余って熱いスープに突っ込み皿をひっくり返す。こんな時でもドジは発揮されるらしい。
いいのか、と聞こうとしたんだろうがそれよりもまずは手を冷やすことが先だと、ロシーの腕を掴んでキッチンに引っ張っていき蛇口をひねって赤くなった手に冷水を浴びせた。
その最中もう一度、いいのか、とロシーが呟く。おれにはその質問の意味がいまいちよく分からない。

「おれはお前以上に大切なやつなんていない」

だからいいと、きっぱり宣言したのち自分より高い位置にある顔を見ると火傷した手と同じような色に頬が染まっていた。
じゃあ、と言って顔を近付けキスしようとしてくるロシーに頭突きをかまし、痛みに悶えるロシーをよそにまずは適切な処置を施してからだ馬鹿野郎と返す。これからもずっと一緒にいるんだし、そんな急ぐ必要もねェだろう。

その時は、そう思っていた。




「…長期任務?」
「ああ。詳しくは言えねェが…」

ロシーが中佐になってから数ヶ月もすると、おれと同じように遠征を任される機会も増えた。
どうやら今回は遠征よりもはるかに長い、いつ終わるかも分からねェような任務らしい。
おれも正義を背負う海兵だ。いくら家族でも、恋人でも、任務に関しては守秘義務があることを重々承知している。ロシーがヘタなドジさえしなきゃ大抵の任務はこなせるだろう。
──そのドジが任務中にも発揮されることを知っているからか、おれの胸中は言いようのない不安に駆られた。何故だろう。何故か行かせてはいけないような、そんな気がする。

「それはお前じゃないとダメな任務なのか」
「ああ。おれが一番適任で、他のやつにはできねェことだ」

おれは、だめだと思った。ロシーの瞳は揺るがない。たぶんおれが何を言ったってロシーは行ってしまう。確固たる意志をもって任務に臨む、それが海兵で、おれの中にもあるものだ。
今まで何度も任務で長期間離れたことはあるが、今のような気持ちを抱いたことは一度だってなかったのに、何故。何故こんなにも行かせたくないと思うのか。

離れたくない?寂しい?違う。
もっと、もっと不安で、何か──何か大切なものを失ってしまいそうな気がする。勘、というものか。

「そんな不安そうな顔をするな。連絡はいれる」
「……、ああ」


その後、胸中に燻る不安を殺しきれないまま、おれは任務へと赴くロシーを見送った。

あの時引き止めていれば。
そう思ったことは一度や二度じゃない。









「死者の中にドンキホーテファミリーの幹部が…!!」

おれが再びロシーと逢ったのは、ロシーが任務に出てからおよそ4年後のことだった。
ロシーが任務に出てからすぐ、センゴクさんから直々に配属部隊の変更があり、最近力をつけているドンキホーテファミリーを捕らえるためおつるさんの下につき4年近く追いかけてきた。
その間ロシーから何回か電話があったが無事を確認しても一向に不安は拭えず、そして今日。

「ロシー…?」

ドンキホーテファミリーの幹部。コードネーム"コラソン"。道化のような化粧を施してはいるが、間違いなくロシーだ。おれが間違えるはずがない。
降り続ける雪に埋もれて眠る表情は冬の凍えるような寒さを感じさせないほど優しく微笑んでいる。

なんで。

「おい!ロシー!!」

頭の中が一瞬雪のように真っ白になり、すぐさまロシーに駆け寄り雪の中から抱き起こす。
こんなところで寝るなよ、またドジって転んだのか?頭打って気絶なんてシャレにならねェだろ。こんなところで寝てたら死んじまうぞ、ほら起きろって、なんかいい夢でも見てんのか、なあ。

「なあ、ロシー」

雪に滲む赤がやけに色鮮やかで、まぶたの裏に強く焼きついた。赤から目が離せない。
ナマエ大佐、なんて部下の呼びかけがどこか遠いところで聞こえている。耳に蓋しちまったかのように声が遠い。

おれよりはるかに低い体温はまるで雪のようで。

視界が、歪む。
滴がロシーの頬に落ちた。


なあなんで、?

なあロシー、なんでだ。

痛かったろうな辛かっただろう、苦しかっただろう。ひとりで死んでいったのだろうか、なあロシー、苦しいって、寂しいって言って、おれの名前を呼んでくれ。どこにいようと必ず見つけ出して迎えに行くから、なあ。

ああああああああああああああああああ



置いていかないで。














「ロシー…お前、なにわらってんだよ…」

どれくらいの間そうしていたのだろう。
おつるさんが途中やってきたような気はするが、正直のところよくは覚えていない。
腕の中にいるロシーは一度も動くことなく、おれを真っ直ぐに見ていた瞳は閉じられたままだった。

もう体温とすらいえないような、冷たすぎる手を握る。雪と同化しちまったんじゃねェかと思うぐらい、その手の温度は周囲と変わらない。

「ロシー」

ずっとこうしていればおれも同じになれるんじゃないかって。おれもロシーのとこに行けるんじゃないかって。そんな馬鹿な考えばかりが頭に浮かぶ。

「ロシー…」

そんな穏やかなツラしてんじゃねェよ。何笑ってんだよ。

いくら名前を呼んだってもう届かねェのに。
手を握っても前みてェに嬉しそうに笑って握り返すことはもうないのに。
おれの名前を呼ぶことも、おれを見ることも、抱きしめ合うこともできねェのに。

なにわらってんだよ、クソ。

「馬鹿野郎…」

動かなくなった体を引き寄せて、冷たい唇にキスをする。これで最後。

「こんな紙切れ一枚でどうしろってんだよ」

真白い雪に埋もれていたアイボリー色の折りたたまれた紙切れをそっと開く。
いつ書いたのかは分からねェが紛れもなくロシーの字だ。

『ナマエ』
『ごめん』
『ありがとう』
『あいしてる』

たったそれだけ。たったそれだけだ。
どうやらおれは、おれが思ってる以上にロシーのことが好きだったらしい。大切な何かが胸からすこんと抜け落ちてしまった。
皮肉なものだ、まさか失ってから気付くとは。

「なあロシー」

両目から溢れる涙を拭い、なくさないよう紙切れをポケットに入れる。背中を支えてから膝裏に腕を突っ込み、自分よりでかい体を持ち上げると想像以上に重かった。

「一緒に、帰ろう」

思えば大人になってからロシーを抱き上げるのはこれが初めてだ、なんて。
他愛もないことを考えながら溶けるようにふたり雪の中を歩いた。

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