「あー…平和だなぁ…」 じわじわと蝉のざわめきを耳元に、コンクリートの上に寝そべっていた。盛夏を過ぎた屋上は、幾分陽射しがやわらぎ、じりじりとコンクリートを温めている。秋へと傾いた空は高く、ほんの少しだけその深さを増して、心地よい風を運んでいた。 ぽかぽかと、まるで春を思わせる空気は、ぼんやりした思考を微睡みへと誘う。意識ははっきりしている気がするのに、身体中の力が抜けて鈍くなる。くたりとした脱力感が睡魔に拍車をかけた。 (ほんと平和…) このまま意識を手放してしまえたらいいのにと、ぽつりと浮かぶ雲に願った。 「あーあー。このままどっか行っちゃいたいな」 隣に寝転がっていたはずの金髪は、いつのまにか半身を起こしてこちらを見返っていた。陽光に透けた前髪が、そよそよと風に揺れている。ふわりと甘いシャンプーの香りが微かに鼻先をかすめた。 「午後の授業かったりぃ」 「午後ってなんだったっけ?」 「数学と英語だよ。お前、毎日教科書持ってきてんだろ?それくらい把握しとけよ」 「やー全部置き勉してるからさ…」 そんなんだから留年なんかすんだろという言葉を飲み込む。困ったようにへらっと笑った情けない顔に一瞥をくれると、遠い空を仰いだ。先ほどまでは視界の真ん中にあった雲は、視界の端へと移動していた。ぼうっとしている間の時の経過は速い。つまらない授業も同じくらいに速く流れてしまえばいいと、叶わぬ現実を願った。 「今すぐ放課後にならねぇかな」 「どうせなら休校とかがいいじゃん」 「それじゃ部活もなくなんだろ」 「野球はしたいってわけね…」 「ったりめーだろ」 わけもなく無意味なイフワールドを話したところでどうにもならないことはわかっていたが、それでもなお、仮想世界への祈りは絶えなかった。 「授業が全部野球になればいいのに」 「そりゃいくらなんでも無理でしょ」 「そんなん全部無理だろ」 「そりゃそうなんだけどさぁ…」 何を言ったところでどれも所詮空想世界であるというのに、何のこだわりがあるのか、浜田には一線があるらしい。俺が顔を背けてもなお、ぶつぶつと一人ごちていた。 少し深くなった空色を、すずめが横切った。二羽のそれらは、子どもが鬼ごっこするように戯れあう。一羽のあとをもう一羽が辿ると、くちばしを触れ合わせあう。まるで恋人同士の甘い時間であるのに、それはどこまでも純粋で無垢だった。 「なー泉」 「なんだよ」 目線すらくれず、口先だけで返すと、何か宝物でも見つけた子どものような弾んだ声が帰ってきた。 「このまま逃げない?」 「は?」 「うん、だからね、このまま逃げない?」 思わずがばりと身体を起こすと、馬鹿呑気そうに笑う唇が目に飛び込んだ。逃げるってどこへ!何から!何のために!と、疑問は次々とわきあがったが、すべて言葉にするまえにはじけてしまった。 「なーんか空見てたらさぁ、教室の中に籠もる気がなくなっちゃったんだよねぇ」 「…いいのかよ、また留年すんぞ」 「やーそこはね、あれよ」 あれってなんだよ、と思ったが、それは言わずにおいた。 「俗世界からの逃避行ってやつ?神聖な世界に行っちゃうの」 「ただの現実逃避だろ」 「それを言っちゃぁ終わりだよ」 「…何がだよ」 なんだか楽しそうに空想を膨らませる馬鹿に、呆れからため息が漏れた。けれど、こんな心地よい風に吹かれて、さわさわと耳元を掠めるバックグラウンドミュージックは穏やかで、広がる視界には一面の空と来たら、このままどこか遠くへ逃げ出してしまいたいと思わずにはいられない。 「ね、泉。逃げちゃおうよ」 「授業という俗を抜け出して?」 「そうそう」 「そらまた素敵な逃避行だな」 「でしょ」 そうして、浜田が俺の右手を取った。手のひらから伝わる温度はほんのりと温かく、これからの世界への期待が零れている。空いた手に握るのは自由への片道切符。 「じゃあ、行こうか」 「仕方ねーな」 それは、サボりという名の逃避行。 |