鍵をなくした。ロッカーの鍵でも家の鍵でもなく、自転車の鍵をなくした。普段ならば、たかが自転車の鍵と思うのだろう。家の鍵をなくすよりよっぽど軽症だ。けれど実際なくしてみると、その不便さには辟易した。
生憎、合鍵というものは既になくしていた。なくすまで使っていたのは予備の残り1つだった。もちろん、同じ鍵などなく、合鍵を作ろうにももう元にする鍵は手元にない。本来ならば元の鍵をなくした地点で、もう一つ合鍵を作っておくべきだったのだ。
面倒だと怠った結果に、つい口を尖らせた。


鍵を付け直すには1週間かかると言われた。
市販のチェーンキーではなく、本体に設置するタイプの金属鍵だったため、まずそのみっちり詰まった鉄のループを切断するところから始めなければならなかった。当然だが、そこらの切断器具で切れるようなものではない。かなり強力な切断器具が必要であり、そんなもの自宅や学校にあるはずもなかった。通学路にあるデパートに付随した簡易自転車店にもないと言われた。
つまり、自宅からも学校からも不便な位置にある自転車店まで、この大荷物を引きずって行かなければならないのだ。正直、相当面倒くさい。そんなことをする時間があったら睡眠に充てたいし、そんなことに使う体力は余っていない。
さらに、市販の鍵を使えばいいのにも関わらず、変なところに拘る母親から、設置型の鍵、つまり今までと同じ鍵を付け直すように言われた。残念ながら、設置タイプの鍵は取り寄せでしか扱っておらず、届くまでに5日はかかるそうだ。
そんなこんなで、結局、鍵の付け替えに1週間も日を要すことがわかったのだ。
たかが1週間とも思えるものの、毎日自転車で通学する身としてはかなりの痛手だ。その期間、満員の電車に揺られなければならないし、さらには徒歩区間も大幅に増える。自ら鍵をなくしたのだから、もちろん交通費も出してはもらえない。
何より、朝練に行くのが辛い。自転車であれば20分で着くところ、電車を使うと、1時間とまではいかないが30分は裕にかかるのだ。1分1秒でも惜しい睡眠時間が大幅に削られるのは痛い。
なんとか朝だけは兄貴に協力してもらって(必死に頭を下げ、風呂掃除1ヶ月で取引した)、最寄り駅までは自転車を走らせることができるけれど、帰りはそれもなく、疲れた体では帰宅するのに1時間かかることも容易に予想できた。
そんな予想に思わず漏れた盛大なため息を聞いていたのが、浜田だった。





じゃーなー、おつかれー、まっまたっ明日っ、なんて意味があるようでない慣れた挨拶を口々に、みな一様にくたびれた身体を引きずっていく。もちろん、自分も同様に、疲れた体に鞭打って引きずる足をなんとか動かしていた。
仲間9人の迎う先はグラウンド脇の駐輪場だ。朝はぎゅうぎゅうになるトタン屋根の下が、すっからかんになり、自分たちの自転車だけになっている光景にももう馴れた。すし詰めになったなかから倒さずに自分の自転車を引き出す苦労を思えば、他部活が中学生と同じ時間に帰宅するのはありがたいのかも知れない。


無愛想に別れを告げると、1人別方向へと爪先を向ける。駐輪場よりも、正門へ回ったほうが少しだけ、駅までの距離が短くなるのだ。
直線で100mは裕に取れる広さのグラウンドを、対角線に突き抜ける。蹴散らされ薄れた白線をうまく跨ぐようにして足を進めれば、トラックの隙間を跳ねるようにして身体が揺れた。
別に薄れているし、明日になればまた綺麗に引き直されるのだから気にせず歩けばいいのだが、なんとなく罪悪感に駆られるような、自らに課した規則に反するような心地になるのだ。
幼い頃、横断歩道の白い部分だけを踏んで渡った記憶がよみがえる。誰がそうしろと言ったわけでも、それが面白かったわけでもなかったが、その習慣は今でも続いている。好奇心で始めたその行為はいつしか自己に課したルールとなり、身体にも思考にも染み付いていた。


倒されたサッカーゴールを横目に300mトラックを横断すると、すぐに黒い鉄格子が現れた。車輪の付いたそれは、両脇の石柱と今はぴっちり密着している。もちろん、錆びた金属の施錠もしっかりかけられている。この時間はセキュリティの問題から、校舎裏手の通用口しか開いていない。
しかし悲しいかな、目の前の鉄門は低く、せいぜい120cmほどしかないのだ。門を閉め、施錠をしたところであまり意味がない。大人の男であれば、容易く越えられてしまうだろう。


鉄門の向こうへ鞄を投げ捨てると、剥げかけた黒を踏み台に門の上に腰掛け、そのままひょいと飛び降りた。
120cmと言ったら、棒高跳びでは簡単に越えられる高さだ。女子だって、クラスの1人2人は越えている高さだろう。飛び越えこそしなかったものの、それを越えるのはむつかしいことではなかった。
もっとも、自分より幾分か背の高い人間であれば、門に片手を預けてひらりとでも言うように軽々飛び越えるのだろうと思うと腹立たしかったが。


軽く手を払い、先に放り投げてあった鞄を再び肩に掛けた。
普段であれば自転車のカゴに放ってしまい、車輪を走らせれば然して意識もしなかったこの鞄が、案外重い荷物だったことに気づく。それもそうだろう、一日分の教科書とノートに加え、一着では済まない着替えやタオルが詰まっているのだから。
ずしりと肩に圧し掛かるビニルのベルトがやけに重い。肩に食い込み、そのままずるずると地面に引きずり込まれてしまいそうだ。足元がすくわれて、そのまま地中へと吸い込まれてゆく。泥に飲まれる錯覚を覚えた。
きっと泥の中はぐにゃりと歪んだ茶色の世界が待っているのだろう。全てのやる気も奪うような、重く気だるい空間。
けれどそれが、「一日」のすべてだった。朝目覚めて体を起してから、帰宅しベッドに入るまでの一日。何もやる気が起こらないほどに、他に回すための気力がないほどに、野球に全てを注いでいる証だった。


飲み込まれそうな足をようやくアスファルトの上へ投げ出した時だった。


「泉」


不意に呼ばれた名前はよく聞き慣れた声音に口調で、突然呼びかけられたことよりも、いるはずのない存在に呼ばれたことに驚いてしまった。ぴくりと肩を揺らし首を回すと、へらりと相変わらずの緩んだ笑顔がこちらを向いていた。


「…は?何で?」
「うん、今日客来ないからって早上がりだったんだ」
「だからなんで…」


訊きたいこととは見当違いな返答が返ってきて、再び聞き返すもいまいち状況の飲み込めていない頭では「なんで」の一言しか出てこない。
用もないのに、とか、こんな時間に、とか、「なんで」の向く先はたくさんあるはずなのに、ぐるぐると目まぐるしく回る思考では統括したただ一言、「どうしてここにいるのか?」、それしか出てこなかった。


「だって泉帰るでしょ?」
「は?」
「帰らないの?」
「帰るけど。意味わかんないんだけど」
「自転車、ないんでしょ」


そう言って浜田は、自分の自転車の荷台をぽんぽんと叩いた。


はっきり言って浜田の自転車はダサい。前カゴに、後輪の上には銀色に光る荷台。辛うじてハンドルは直線タイプだけれど、それがもしU字ハンドルだったら完全にママチャリだ。
浜田曰く、その方が買い物やら何やらの日常生活には便利らしい。カゴのデザインはどうとして、後ろの荷台はないだろ、それはどう考えたって必要ないだろ、と思っていた。
それなのに今、あんなにダサいと思った荷台部分に乗っている。まったくもって滑稽な話だ。


ぴゅうぴゅうと冷たい風が頬を撫でてゆく。俺を乗せたおかげで浜田の自転車は鈍行運転だ。
ゆるゆると流れてゆく街並みが、夜の闇の中へと消えてゆく。街灯の周りだけ、ぼんわりと家屋の影が浮かび上がる。もうすぐ電球が切れるのかもしれない、ジリジリと蛍光灯特有の音が鼓膜に触れた。
今夜は新月に近く、猫の目よりも細い三日月が夜空に浮かんでいる。濃紺のビロードにはいくつものダイヤが散りばめられていた。きらり、きらり。小さな塵にも似た星屑は、まさしく「瞬く」という言葉が表すように、きらきらと閃いている。太陽や月のように輝き続けるのではなくて、まるで光の当てられた金属が踊るように、一瞬一瞬を閃くのだ。
夜空を宝石箱に喩える人間の視界が見えた気がした。


「さぁっみぃ!泉、寒くない?」


一際大きな風邪が耳元を掠めると、自転車を漕ぐ浜田が思わず声を漏らした。後ろからでは分からないが、きっと外気に触れる鼻先は赤く染まっているのだろう。もしかしたらニット帽の下に隠れる耳も赤く染まっているかもしれない。


「さみーに決まってんだろ」
「…の割に声がよゆーだね」
「そりゃお前の後ろにいっからな」


浜田の背中は大きい。悔しいけれど、自分の体より一回り、いや二回り近く大きい。そんな人間の後ろにいるおかげで、寒くはあるものの、浜田のように全身、顔面からその冷気に直射されることはない。せいぜい耳元や手足が触れる程度で、あとは浜田にぶつかり緩んだ寒気が鼻先を掠めていく程度だ。


目の前をふさぐ背中にそっと頬を寄せると、ジャケット越しにじんわりと浜田の体温が伝わってくる。相変わらず冷たい夜風は頬を掠めるし、ジャケットを冷やしていたけれど、ぴったり押し当てていると、少しずつだけれど段々温もりが頬に触れるのだ。
バタバタとジャケットの風にはためく音が邪魔をしていて聞こえないけれど、きっとこの数ミリの布の下では浜田の心臓がどくどくと脈打っていて、生きている音を発しているのだろう。


サドルにひっかけていた手を、ぐるりと浜田の腰に回した。腕を腹の前で交差させて、きゅっと浜田の服にしがみつけば、なんだか浜田に後ろから抱きついているような格好になってしまった。
予想外に恥ずかしい行為をしてしまったが、今更悔いても取り戻せるわけもなく、こんな寒空の下、誰が見ているわけでもなかったから、そのままぎゅっと抱きしめた。何より、一度手にしたこの腕に、頬に伝わる温もりを手放したくなかったのだ。


「なに?どしたの、泉。やけに素直だね」
「うっさい」


くつくつと小さな笑い声が鼓膜をくすぐる。その笑いに合わせて、頬を寄せた背中がふるふると揺れた。
呼吸をするたびに浅く動く腹筋、声を発するたびにくすぐったいくらいにびりびりと震える背中、アスファルトの凹凸を伝えるかのように細かく揺れる腰骨、生きていることを触れる箇所すべてから伝える温もり。
とくりとくりと耳元でこだまする自分の鼓動、口元から滑り出てゆく吐息の温かさ、回した腕に込めた力の強さ。
確かに、今同じ瞬間を生きている。


また明日もここで待っててね、そう言った口元がやけに嬉しそうで、拒否する言葉もなくただぎゅっと手のひらを握りしめた。


まともな街灯もなく、濃紺の寒空の下、互いに身体を寄せて車輪を滑らせるなんて、まるで少女マンガのようで恥ずかしかったけれど、それでも笑えてしまうほどに満たされていた。ほっこり温かな胸の奥、甘い綿菓子のような気持ちが待っているから。きらきらと瞬く星屑もきっと歓喜に満ちている。







自転車2ケツの登下校



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