※浜田くん×泉先生です。 リーンゴーンと、今となっては珍しいほどの古めかしさを連れて、チャイムが鳴った。 耐震工事に引っ掛かりそうな校舎はチャイム同様に古く、当時は綺麗だっただろうアイボリーの塗装は、今は褪せて霞みがかっている。やけに反射する廊下は深緑をさらに深めたようなどす黒い緑を怪しく放つ。定間隔で設けられたガラス窓だけが底抜けに明るく、淡い空色と陽光を迎え入れていた。 軋む音を連れて引き戸を開くと、薬品特有のつんとした臭いが鼻をついた。清潔の象徴でもあるその臭いは、この部屋から漏れることはなくとも、部屋の壁から布団までしっかりと染み付いている。 それはもちろん、部屋だけでなく、1日の大半をここに身を置くあの人の身体にも染み込んでいた。 薄暗い廊下から入れば目にしみるほどに白く輝く明かりは、蛍光灯のわりにやけに丸く感じる。突き刺すような白に変わりはないのに、白熱灯を思わせるあたたかなまるみがあるのだ。 そうしているのはきっと、この部屋を管理する人物の空気だった。 「泉センセ」 呼べば書類に落としていた視線をゆるゆるともたげる。 いつだってそうだ。どんなに忙しくても、文句を言っても、名前を呼べば必ず意識を向けてくれる。 それがたとえ生徒であるからだとしても、仕事であるからだとしても、素直に嬉しかった。 「なんだ、お前。まーた来たのか」 俺の顔を見るや否や眉間に皺を寄せて深くため息を吐く。 本当は声でわかっているはずなのに、わざわざ顔を確認してからしかめ面にするのは、それが故意的だからだ。大して迷惑がっているわけではないのに、面倒臭そうな表情を作るのだ。 しかしそれを厭わしいと感じたり悲しいと感じたりしたことはない。なぜなら、俺はそれが自分に向けてだけされる行為であることを知っている。 「やだなぁ、センセ。そんなイヤそうな顔しないでよ」 「したくもなるっつの。お前授業は」 「でへっ、サボっちゃった。ていうかサボんなきゃセンセんとこ来れないし」 「…お前、毎日サボってないか?」 「やだなぁ、週に4回だけだよ。それとも毎日サボってほしい?」 「バカか」 はぁぁと先程よりも遥かに深いため息をついて、泉先生は視線を書類に戻した。 泉先生の睫毛は長い。俯くと瞳が伏せられ頬に影が落ちるほどだ。ふわりと広がった毛先は少しだけ上向き、女の子のそれに近い。いや、そこらの女の子よりも綺麗かもしれない。 その先のちょこんとついた鼻も、いつも少しだけ隙を見せている唇も、女の子に負けないくらい可愛くて綺麗だ。顎のころんと丸いフォルムは滑らかで、触れてみたい衝動を駆り立てる。頬のそばかすを本人はこっそり気にしているようだが、そんなところすら可愛く思えてしまう。基本的に泉先生の肌は白く透き通っているから、余計に目立つのだ。 けれどその美しさは一際目を引くものがある。顔に限らず白く透明な肌は、乳白色の大理石を思わせる。触れればとろりと融けだしてしまいそうな、甘い蜂蜜の入ったミルクのような、そんな肌だ。俺はその肌がひどく好きだった。 そう、俺はこの5つ年上の男に恋をしている。男である俺が男に恋するなんて夢にも思ってみなかったが、気付いてみればどうしようもないほどに惚れていた。 そしてこの思いは彼もとっくに気付いており、さらに言うなら気持ちは通じあっているはずだ。はず、という不確かな要素が付くのは、全てに気付いていながらそれでもわかっていないふりを、彼がするからだ。 まったくもって厄介で天の邪鬼な人である。昔からわかっていたことだけれど。 泉先生と俺は、いわゆる幼馴染みだ。年は少し離れているものの、近所のお兄ちゃんと近所の少年という関係。小学校のころは一緒に登下校したりもした。親同士が仲が良いために互いの家を行ったり来たりしていた時代もあったが、彼が大学に入ったころにはぱったりなくなっていた。 しかし俺の思いはそんなもののはるか昔から芽生えていたのだと、つい最近になって知った。 確かあれは小学校高学年か、中学に上がったころだったと思う。 何を理由に行ったのかはわからないが、たまたま訪れた泉家のリビングで彼がすやすやと眠っていたのだ。ソファに転がった身体は、あまり成長しなかったのかはたまた俺が成長しすぎだったのかその身長は大して変わらず、その線の細さから見れば俺のほうが大きく見えるほどだった。それでも態度や言葉は大きく辛辣だったため、なんだかすごく大きなお兄ちゃんのような気がしていたのだ。 それなのに、伏せた瞼の先に延びるばさばさと生えた長い睫毛、ぱっちりと閉じられた瞳の丸いフォルム、まるで子どもみたいにちょんとついたような鼻、ぷっくり膨らんだ頬はほんのり赤く染まっている。いつも辛辣な唇はその赤も鮮やかにうっすらと開き、くうくうと小さな寝息を零している。 それを見た俺は、どきっと心臓がとび跳ねた。子どもながらに見てはいけないものを見てしまったような感覚を覚えたのだ。 今思えばあれがすべての始まりだったように思う。 そんな俺の思い人は今年になって養護教諭、つまり保健室の先生となってうちの学校へと赴任してきた。俺はそんな奇跡にも似た偶然に感謝し、その奇跡をひとつも無駄なくするために猛アタックをして今に至る。 何だかんだ言いながら断れない性格の彼を利用したつもりはないけれど、あれは自分でも結構強引なアタックだったと思う。それでも本気で拒むことがなかったのは、彼の中にもほんの少しでもそういう気持ちがあったからだと信じたい。 それでも彼と俺の関係は、こうして俺が保健室を訪れては邪険に扱われながらも他愛もない会話を交わし、そのまま教室に返されるのが常だ。 極稀に、その手に触れたり抱きしめたりすることがなくもないが、月に一回あればいいほうだ。睫毛のぶつかりそうな黒縁の眼鏡をはずして鮮やかな赤に触れることを許されたのなんて、今までに数えるほどしかない。 つまりは、周りから見れば少し仲の良い教師と生徒であり、教師と生徒の枠を越えてはいない。俺はそれを必死で壊そうとしているけれど、彼はそれを頑なに守り続けようとしていた。 「ね、泉センセ」 「なんだよ、何も用ないなら帰れ」 書類を見つめるその瞳に俺の姿は映らない。 そっと、後ろから座った肩を抱きすくめた。 「なっ?!」 「ね、こっち向いてよ」 驚きと緊張で硬直してしまった泉先生を宥めるように、その首元に額を擦り付けた。俺が甘えているように見せないと、彼は鉄の防御壁を崩してはくれないのだ。 やっと落ち着いたらしい彼が、少しだけ顔をこちらに傾け、唇を尖らせた。その頬は傍から見ても明らかなほどに赤く染まっており、一種妖艶な空気を醸し出している。 「な、んだよ、いきなり…」 「だってセンセってばかまってくれないんだもん」 「仕事中なんだから当たり前だろ」 「じゃあ仕事終わったらかまってくれんの」 「仕事が終わるころにはとっくに最終下校時刻過ぎてるっつーの」 「じゃあ待ってたらかまってくれんの?」 「…お前なぁ」 呆れたように溜息をつく彼は完全な大人だ。大人として、社会人として、教師として、当然の反応だ。 けれど、今はそれが鬱陶しかった。そんな模範的回答ではなく、彼の本心から出てくる答えがほしい。 「ねえ、キスしてもいい」 「はあ?!」 「ね、いいの、だめなの」 「キスってお前、ここは学校、俺とお前は教師と生徒、ついでに言うと俺もお前も男だ」 「そんなの言われなくても知ってる」 「…じゃあ、わかんだろ」 ぷいと顔を背けられてしまった。それでも納得ができないのは、俺が子どもだからだろうか。 「じゃあここが学校じゃなくて、教師と生徒じゃなくてただの幼馴染みで、俺が女だったらいいの」 「っ…」 「ねえ、そういうの関係なしに、キスしてもいい?」 ふるふると揺れる彼の瞳は、どこか儚く脆かった。 さらりと、艶やかな黒髪を撫で上げると、その身体がびくりと震える。けれど、揺れていた瞳はいつの間にか定まり真っ直ぐ俺を見つめていた。射抜くようなその視線にぐっと息が詰まる。 ぱちりと視線が合わさると、気まずそうに少しだけ視線が落とされ、小さな唇がそっと紡いだ。 「…女じゃなくていい」 そう一言零すと固く口を閉ざしてしまった。それでも俺にはその一言で十分だった。 そっと黒縁の眼鏡を外すと、ふさふさと生えた睫毛が露わになる。少し潤んだ瞳が艶めかしかった。 とろりと滑らかな頬に指を滑らせ、そのまま細い顎を引き寄せると、そっと口付けた。 ああ、幸せだ。 彼の考える俺の幸せも俺の感じる幸せも、彼の考える愛も俺の考える愛も、甚だ重なる部分などなかったが、きっと今この瞬間を幸せだと感じていることだけは同じだろう。 先生、愛とはなんですか? |