布団に入ろうとしたその時、机の上に放置してあった携帯がわずかな振動とともに簡素なメロディを奏でた。
電子音で奏でられるそれは、唯一ダウンロードしたもので、一番好きなアーティストの一番好きな曲だ。今流行りの着うたではないし、所詮着信音、その音質は決して良いとは言えなかったが、それでも既製の内臓メロディに比べれば愛着も湧く。
それを好ましく思う理由はそれが好きな曲であるからという理由だけではなかったが。


ワンフレーズ奏で終えたそれは、サブディスプレイに差出人の名前を示すことで静かに幕を下ろす。
ご丁寧に、電話帳に登録してあるアドレスであれば登録名が、なければアドレスが表示される機能を携えたそれであるが、サブディスプレイには目もくれず、ぱくりと二つ折りの携帯を開いた。
確認などしなくても差出人が誰かなんて分かっていたのだ。なぜなら、この曲を奏でられるのはたった一人しか存在しない。


受信ボックスを開けば予想を違えず、専用のフォルダに未読メールの印。迷わずそのフォルダにアクセスすると、ただ一人の名前がずっと並んでいた。


メールをわざわざフォルダ分けするようになったのはいつのことだったか。確か、夏も過ぎた頃だったように思う。当初は、一人の人間に対して専用のフォルダを作るのはなんだか女々しいようで気が引けていたが、相手から送られてくるメールの量は、自分では半端ないと思えるような量だったし、加えて保護し忘れていたがために、部活仲間やクラスメイトからのメールにまぎれて大切なメールが消えてしまったことで、決心に至った。
実際作ってみれば案外快適で、以前よりも格段に見やすくなり、効率も上がった。けれどあからさまに浜田専用のフォルダを提示するのは、誰に見られるわけでもないが気恥ずかしく、「部活」や「クラス」などのフォルダ名に混ざって、わかりづらいような英字を並べてある。ひとつだけ曖昧に英字を使っている地点で、それが特別だと示唆しているようなものだとは分かっていたが、その名前を堂々と示すには羞恥が許さなかった。


未読メールを開けば、相変わらず他愛もない文章が二つ三つ並んでいる。
浜田のメールは、その見た目に反してシンプルで穏やかだ。大抵の人間が、ハイテンションで絵文字を濫用したメールを想像し、実際受け取ったときに呆気にとられるようだが、浜田の言葉はいたって普通だ。最近では一部の男子まで使うようになったギャル文字だって使わないし、絵文字だってたまに笑顔マークや泣き顔マークが入っているくらいだ。
人はそれを物足りない、見た目とは裏腹に冷たいと感じるようだが、俺はその穏やかで普通な言葉の一つ一つに浜田の優しさがあふれていることを知っている。だってそうだろう、優しさがなければどうでもいいような話題にいちいち返信したり、業務連絡以外のメールを自主的に送ることもないのだから。現に自分は必要がないと判断したメールはあっさりと返信を絶ってしまう。


他愛ない言葉が送られてきたのは、日付変更線を数分越えた頃だった。慌てて打ったのだろう、普段よりも幾分か素っ気ないような文面がそれを物語っている。
思わず、ふっと笑いが漏れた。何も面白いことが書いてあるわけでも、心が弾むように嬉しいことが書いてあるわけでもなかったが、その言葉たちはひとつひとつ胸の奥に染み入り、ほっこりとそこを温めた。自分にだけ向けられて紡がれた言葉一つ一つがいとおしい。話題だって言葉だって何の変哲もない、いたって普通な言葉だけれど、それが自分だけに向けられているという事実だけで、それは好きや愛しているに匹敵するものとなる。どこかくすぐったいような心地だ。
面と向かって直接言われれば、嬉しいような恥ずかしいような気持ちが綯い交ぜになってそれを拒むような態度ばかり取ってしまうけれど、こうしてさりげないやり取りの中から零れるそれらは、まるで陽光を浴びたブランケットのような温もりとやわらかさがあり、ふわりと身体を包み込む。自然と頬が緩んでしまうのも仕方のないことだった。


返信画面を開くと、可愛げのない言葉を一つ二つ紡いでやる。
ぱちぱちとボタンを打つ間も、緩んだ頬が元に戻らず、我ながらどうしようもないと思ってしまう。こんな姿、誰にも見せられない。
送信ボタンを押すと、毛布の中に滑り込んだ。


"ばーか、もう過ぎてんだよ。遅刻常習犯"


そう送ったメールの返事は、待つ間もなくすぐに届いた。ベッドサイドでサブディスプレイが淡く光り始める。大好きなメロディが奏でられる前に、ボタンを押した。


"じゃあ泉はサボり常習犯だな。また今日もサボるつもりだっただろ"


苦笑する顔が手に取るように思い浮かばれて、一人布団の中で吹き出してしまった。


二人の間で取り決めた約束は、いくつかあった。たとえば、嘘をつかない、一人で抱えこまない、泣きたいときに無理をしない、などだ。他にもいくつか取り決め、今のところお互い破ること無く遵守している。そのうちの一つが、毎晩メールすることだった。
この約束だけは取り決めた当初から、到底無理なことだとはわかっていたし、すぐに破ることもわかっていたため、「できる限り」という条件が付いた。あまり真夜中でも早朝から朝練のある俺には辛くまた大変なため、日付が変わる前に送るという条件も、始めて数週間後に追加された。そうするとなんだか厳しい約束のように思えるが、実際のところは、一日の内にふたりで言葉を交わす時間がほしい、という目的から決めた約束のため、互いに気の向いたときに送るのが現状だ。
というか、俺は、気の向いたときにしか送っていない。それは、送りたくないだとか話したくないだとかいうわけではなく、ただなんとなく、何を話したらいいのかに躊躇うからだ。毎日顔を合わせ、日によっては数時間前まで隣にいることもある人物に、一体改まって何を伝えたらいいのだろうかと考えると躊躇ってしまう。
同じ空間に、隣にいるのとは違って、言葉にしなければ伝えられないというのはとても厄介だ。隣にいれば、空気や、体温や、匂いや、触れる手のひらから、言葉にできない気持ちも感覚も伝わるというのに。
それは浜田も同じなのだろう、送られてくる文面は決まって他愛ないものだった。それでもこうして浜田から送ってきてくれることで、たとえ可愛げがない言葉だとしても、言葉で返すことができる。送った言葉に大して意味はない。けれど、それと一緒に乗せられた気持ちは伝わっているはずだ。


"とーぜん。数時間後にはどうせ顔合わすしな"


指先からは甘さのかけらもない言葉ばかり連ねていくというのに、わくわくしたような穏やかで満たされるような心地に、あがった口角が下がらない。きっと目元も弛んでいるのだろう。
布団に包まり、暗がりの中で携帯を見つめ、頬を弛めながら返事を打つというのは、なんて乙女的行為なのだろう。こんなもの、バカらしくなるほどに甘ったるい恋愛ドラマでしか見たことがない。それなのに、まさか自分が実践することになるなんて、数か月前までは思いもしなかった。あの時確かに、こんな下らないやり取りの何が楽しいんだと吐き捨てたはずの思考は、今やぐうの音も出ないほどになっている。
傍から見れば下らない以外の何ものでもないやり取りが、当事者である自分たちにとっては、最重要とは言わないが、確かに存在意義を持った大切なことなのだと、浜田からのメールを受け取り、初めて知った。


"そりゃそうだけどさぁ…でも話したいじゃん"
"今日のバラエティの話を?"
"別にそういうわけじゃないけどさー。泉だってわかってんでしょ?"
"さあ?"
"何それ!本当は同じ気持ちのくせに!"


拗ねたような口調のメールに、たまらず声をあげて笑ってしまい、慌てて口元を覆う。隣の兄の部屋にまで聞こえれば確実に訝しく思うはずだ。普段の俺なら、この時間に起きていること自体が珍しいのだから。


「なんだよ、同じ気持ちって。」


そっと呟くと、迷わず通話ボタンを押した。


二度三度とコール音が鳴ると、唐突にプツリと途絶えた。


「え、ちょ、泉?どしたの???」


受話器越しに聞こえる聞きなれた声。電子機器を通しているため、普段隣で聞くよりも電子音が混ざったような声が鼓膜をたたく。それでもそのトーンや声音や口調は何も変わらず、その柔らかさも損なっていない。

明らかに慌てた様子の声にくつくつと笑いが零れる。


「な、ちょ、泉なんで笑ってんの?」
「だってお前が慌てるから」
「そりゃ!慌てるよ!…だって泉から電話なんて、何週間ぶりって感じじゃん」
「あーまあそうかもなぁ」
「だからさ、何かあったのかなって思っちゃったよ。でもそういうわけじゃなさそうでよかった」


ほっと小さな息をつく音が聞こえてきそうなその優しい声音に、うずうずとくすぐったいような気持ちいいような気持ちが身体を包む。耳元からふわふわと温かいシャボンに包まれそうだ。ぱちんぱちんと小さく弾けるのがくすぐったい。けれど、思わずふにゃりと顔がほころんでしまうくらい、心地よい。
まるで浜田の腕の中に抱きしめられたときのように、ほっこりと柔らかい熱が胸で疼く。きゅっと空いた手のひらで胸のあたりを握りしめた。


「…同じ気持ち、なんだろ」
「え?」
「だから、同じ気持ちなんだろ」


会いたい。触れたい。温もりを感じたい。どうせ数時間後に会うとわかっていても、溢れる気持ちは留まることを知らない。
人を好きになると人間は貪欲になるのだということを、浜田を好きになって初めて知った。物が好きだとか動物が好きだとかそういう「すき」では起こり得なかったこの感情に名前を付けるとしたら、それが「恋しい」ということなのだろう。
好きとも愛しているとも付かないこの感情を抱くから、人はそれを恋しい人と言うのだろう。恋人というのはまことに理に適った言葉なのだ。


その果てのない欲望を押し留め、胸の内に秘めても、恋しく思う気持ちまでは抑えることができない。それならばせめて声が聞きたい。文面からその声音や口調を思い起こすのではなく、直接、鼓膜をたたいてほしい。そう思うのは我儘だろうか。


「うん、俺も同じ。今すぐ会いたい」
「…さらっと口に出すなよ、恥ずかしいだろ」
「ええだって泉が同じ気持ちって言ったんじゃん…」
「口に出せとは言ってない」


なんだか自分の気持ちを代弁されたようで、急に羞恥が込み上げる。誰も見聞きすることなどないのに、何だかそわそわとして落ち着かず、ぽっぽっと顔に熱がこもるのを感じた。
けれど、それと同じくらいに嬉しい。はっきりと口にすることなく、言葉にすることなく、ただ電話回線越しに繋がっているだけだけれど、隣にいるときと同じようにこの気持ちはちゃんと浜田に伝わっている。そして浜田も同じ気持ちをその胸の奥に抱えている。
貪欲な気持ちは決して心地よいものでもきれいなものでもなかったけれど、そこから生まれるくすぐったさや満たされる感覚は温かく透明で尊かった。


そっと息を吸うと、星空の冷えた空気が肺へ流れ込んだ。冬の空は高く澄んでいる。少し窓を開けていただけで部屋全体が冷えてしまうほどに冷たい。けれどその清らかさが、ひどく恋しかった。


「いずみ」
「ん」
「また明日、ね」
「ああ」
「いや、もう今日か。じゃあ、またあとで、ね」
「おう」
「おやすみ」
「おやすみ」


まるでその吐息の温かさまで伝わってきそうなほど甘い響きは、小さな電子音で幕を下ろした。浜田との繋がりは切れてしまったけれど、部屋の中は温かさでいっぱいだった。窓を開けていたせいで冷気が充満したにもかかわらず。
ほんわりとやわらかな声音の余韻が、鼓膜をくすぐり、じわじわと脳内を痺れさせた。
ふたり決めた約束はまったく守れていないけれど、それでも十分、愛おしかった。


煌めく星空に別れを告げ、濃紺の夜に意識を委ねた。きっと今夜は月も笑っている。





遅刻常習犯とサボり常習犯



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -