「泉ラストー」
「はいっ!」


グラブで受け取った白球を投げ返すと、それは緩い放物線を描いて彼の左手に納まった。

パシッという革のしなる音と同時に響き渡った終了の合図に、ぱたぱたと土を蹴る。諸連絡を兼ねた短いミーティングを終えれば、グラウンド整備をして今日の練習は終わりだ。
とんぼを引くと乾いた土埃が立ち上がる。宙に舞った細かな粒子はすぐに撒かれた水によって、また地面へと戻された。

空はすっかり茜色に染まり、視界の端からは深い藍色が迫り始めている。うっすらと白く月が浮かび上がっていた。風は既に冬の匂いを孕んでいる。赤く染まった夕陽とは対照に、空気は薄ら寒かった。

グラウンドの隅では、先程までノックをしていた金髪が、篠岡と一緒にボールを磨いている。
一球一球丁寧にクロスで磨いては、ほつれがないか確かめる。僅かでもほつれがあるものは脇に寄せて、これまた丁寧に修復する。
動きからして、どうやら浜田が磨き、篠岡が修復しているようだが、浜田の裁縫の腕は立つ。篠岡もそれを知っている。けれど彼女が汚れることを厭うて、きっと、何かしら自分勝手のような理由をつけて今のポジションに落ち着いたのだろう。浜田はそういう人間だった。

相手を気遣うことを厭わない。そしてそれを、あたかも自己中心的な考えに基づいたような理由を並べて、相手に気付かせることなく損な役回りを買って出る。
それは浜田の長所ではあったが、同時に短所でもあると思う。他人を気遣うあまりに、自分がどれほど犠牲になっているのかを考えたことはあるのだろうか。きっと、本人は気付いてすらいないだろう。
けれど、すぐ隣で見るには切なくなるほどに、浜田は自分のことは後回しだった。自分以外の誰にも、気付かれることはないまま。
だからこそ、自分だけは浜田の負担になりたくなかった。自分のせいで浜田が犠牲になることは許せなかった。

周りが同情を孕ませた声で感謝を伝えても、自分だけは可愛げのない憎まれ口を叩く。ひどく辛辣な言葉だ。自分でも大概酷いとは思う。
けれど周りと同じ言葉をかけてしまえば、そこに少なからず哀れみの色が、切望する本音が含まれてしまいそうで、口にすることができなかった。

本当に一番泣きたいのは、浜田なのだ。他の誰でもなく浜田なのだ。浜田だけが己を悔やみ、責め、泣く権利を持っている。他人が憐れむのは、浜田が可哀想な人間であると言っているのと同じだ。浜田を可哀想な人間に仕立てあげる権利など、誰にもありはしない。また同様に、哀しむことも、浜田を憐れむに匹敵していた。
だから、浜田に同情することも現実を哀しむこともしたくない。けれど、焦がれ祈る気持ちは果てることを知らなかった。もう一度浜田と野球をしたいというのは、まるで身勝手な望みだ。誰のためでもない、自分のためだけの望み。ただあの背中をもう一度この目に焼き付けたかった。
こんなことを望む資格など、当然、自分にはない。そう頭ではわかっていても、せがむ気持ちは止められなかった。きっと、それに浜田は気付いている。俺は浜田のように相手に気付かせないように振る舞えるほど、器用じゃない。目の前にしてしまえば端々から染み出る想いを抑えることができない。
聡い浜田のことだ、ほんの一滴でも零せば、きっとすべてわかってしまうのだろう。わかったうえで、何も言わずにただ少し寂しそうな笑みを浮かべるのだ。ならばその笑みが少しでも少なくて済むように、辛辣な言葉にかえて隠す、それが俺にできる精一杯だった。

すべての用具を片付け倉庫を後にすると、自分より少し早く片付けを終えたその背中が、グラウンドをあとにするところだった。内野を抜け、ちょうどマウンドのすぐ脇をその背中が過ぎ行く。
以前よりも遥かに長くなり、さらには色まで一転した髪、元から十分なほどだったというのにさらに伸びた背丈、少し痩せた背中、細くなった右腕。すべてが違うはずだというのに、グラウンドを横切るその姿は、以前と何も変わらない気がした。
それなのにどうして、その背中には1の番号も、何もなくまっさらなのだろう。

後ろ姿の向こうにある赤い夕陽が目に突き刺さる。燃えるように強い光が痛い。焦がれる背中が霞んでゆく。じりじりと焼かれた瞳が、じんわりと涙で滲んだ。

ああ、こんなに焦がれているのに、もう届かない。切なすぎるほどの瞬きは、


夕焼けのグラウンド、君の後ろ姿。



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