大江戸城からの帰り道、朧は一橋邸の程近くにひっそりと佇む掲示板に貼られている一枚のポスターを見つめながら、おもむろに立ち止まった。夏祭り――ポスターに大きく書かれている文字を目で追いながら、小さな声でそう呟く朧。買い出しから戻ってきた一橋家の女中・朝比奈奏は、悪戯を企てる子供のような表情を浮かべると、ポスターに見入っている朧に忍び足で歩み寄った。

「奏か」
「バレたかー!」

 あっけらかんとそう言い放った奏は、からからと笑いながら朧の隣に移動した。夏祭りのポスターに気付いた奏は、目を輝かせながら朧の顔を覗き込んだ。

「朧さん」
「断る」
「まだ何も言ってないのにー」
「大方、祭りに行きたいとでも言うのだろう」
「ブッブー、残念でした。正解は浴衣着た朧さんとお祭りに行く、でしたー!」
「行かん」
「生憎、決定事項ですので」
「ともすれば、お前の息の根を止めれば万事解決ということか」
「ともしないでいただく方向でお願いします。じゃあ、六時にここで待ち合わせましょう」
「勝手に話を進めるんじゃない。私は行かないからな」
「まあまあ、そう言わずに」

 めげることなく朧を畳み掛けた奏は、混じり気のない笑みを浮かべながら彼の口にアイスバーを突っ込んだ。朧がアイスバーに気を取られている隙に、「待ってますからねー!」と声を弾ませながら立ち去っていく奏。遠ざかっていく奏の後ろ姿を見送る朧は、どこか呆れたような、それでいて照れくさそうな表情を浮かべていた。
 それから数時間が経った、夕方六時。瑠璃色の生地に鮮やかな金魚の柄が施された浴衣を身にまとった奏は、カランコロンと下駄を鳴らしながら待ち合わせ場所である掲示板の前へやって来た。そこには、紫紺色の浴衣を着た朧の姿が。朧の存在に気付いた奏は、満面の笑みを浮かべながら彼に駆け寄った。

「朧さん!来てくださったんですね。浴衣姿も素敵すぎます」
「……お前が来いと言ったんだろうが。あんまり調子のいい事ばかり言ってると転けるぞ」
「そんな、子供じゃあるまいし。さ、行きまっ……」

 朧の忠告を笑い飛ばした奏は、歩き始めて数歩のところで蹴躓きながらバランスを崩した。咄嗟に手を伸ばし、奏の腕を掴む朧。至近距離で見つめ合った朧と奏は、頬を赤く染めながらぎこちなく離れた。

「あ、ありがとうございます」
「……行くぞ」

 平静を装いながらそう呟いた朧は、夏祭りの会場である神社へ向かって歩き出した。朧の隣を歩く奏は、彼の歩調が普段よりも緩やかなことに気付き、はにかみながら彼の横顔を見上げた。
 神社に辿り着いた朧と奏は、たくさんの人々が行き交う参道を並んで歩く。参道の両脇に建ち並ぶ露店を見渡した奏は、目を輝かせながら朧の顔を覗き込んだ。

「色んな出店がありますね」
「…………」
「朧さん?」
「っ……あ、ああ」

 ぼんやりと辺りを見渡していた朧は、奏に名前を呼ばれ、ふと我に返った。

「どうかしましたか?」
「いや、その、……祭りに来るのは初めてでな。少し圧倒されてしまった」
「そうなんですか?それなら、めいっぱい楽しみましょう!まずは腹ごしらえですね」

 まるで、戦略を練る武将のように殊勝な表情を浮かべながら、露店を見渡す奏。そんな奏の横顔を一瞥した朧は、無意識の内に頬を緩ませながら前を向いた。
 焼きそば、たこ焼き、お好み焼き、イカ焼き、焼きとうもろこし、――定番の露店グルメを買い込んだ二人は、参道と社を繋ぐ石段のすみに並んで腰を下ろす。プラスチック製のコップに注がれた生ビールで乾杯した二人は、眼前に広がるきらびやかな景色を眺めながら思い思いに食事をした。

「こういう場での飲み食いは、美味いものだな」
「そうでしょう。綿飴とかかき氷とか、甘くて美味しいものもたくさんあるんですよ」
「ほう。次はそれらを食すのか」
「そう行きたいところなんですが、その前にやらなくちゃならない事があります」
「やらなくてはならない事?」
「ひとつ目は、満たされたお腹に程良い隙間を作る事です。ふたつ目は、お祭りをめいっぱい楽しむ事です。金魚すくい、射的、ヨーヨー釣り、スーパーボールすくいなどなど、腹ごなしにも楽しむにも最適な露店もたくさんあります」
「どれも面白そうだな」
「そうなんです、すっごく面白いんです。という事で、さっそく行きましょう!」

 空の容器をゴミ箱に捨てた奏は、幾多の 露店の照明が織り成す光の海を指さしながら歩き出した。
 金魚すくいやヨーヨーすくいなど、すくいもので不器用さを発揮した朧を元気付ける奏。射的でことごとく狙いを外し、肩を落としながら意気消沈する奏を、ぎこちなく慰める朧。しかし、露店を渡り歩く二人の表情は一様に輝いていた。
 夏祭りならではの遊興を満喫した二人は、綿飴やかき氷などの甘味を共有しながら先刻の石段へとやって来た。

「朧さん。今日は楽しんでいただけましたか?」
「つまらなかったら、とっくに帰っている」

 今の返答は、感じが悪かっただろうか――一抹の不安を抱きながら隣を見やった朧は、いつもと変わらない笑顔を浮かべる奏に安心したように微笑んだ。

「奏」
「はい?」

 また来年も一緒に……――渾身の勇気を振り絞った朧の少し震えた声を、盛大に打ち上げられた大輪の花火の音が無情にもかき消した。夜空に乱れ咲く打ち上げ花火が、無言で見つめ合う二人の横顔を色とりどりに照らしていく。耳に手をあて聞こえなかったような仕草をする奏に対し、苦笑しながら首を横に振る朧。どちらからともなく花火を見上げた二人は、この瞬間が一秒でも長く続くようにと祈っていた。
 始まりがあれば、いつか必ず終わりが訪れる。花火が終わった数十分後、二人は人もまばらとなった参道を並んで歩き始めた。

「朧さん」

 途切れていた会話に篝火を灯したのは、俯きがちに歩いていた奏だった。弾かれたように奏を見やった朧は、返事をする代わりに歩調を緩ませた。

「再来年も、一緒に来ましょうね」

 おもむろに顔を上げた奏は、一握の寂しさを湛えながらも、屈託のない笑みを浮かべながら朧を見上げた。その一言が、打ち上げ花火の下で交わした会話の中で、奏が聞こえないふりをしていた事を朧に気付かせた。

「それはどうだろうな」
「えー!さっき、来年も一緒にって……」
「来年も再来年も、その先もずっと一緒に来たくなってしまったんだ。許せ」
「ゆ、許すも何も……むしろ、来世でもよろしくお願いしたいくらいです」
「ああ。何度生まれ変わっても、必ずな」

 おもむろに奏の手を取った朧は、そっと引き寄せたその甲に優しく口付けをした。そのまま下ろした奏の手を放し、照れくさそうに視線を逸らす朧。離れていく手を朧の反射的につかまえた奏は、頬を赤く染めながら恥ずかしそうにはにかむ。ぎこちなく奏の方を向いた朧は、穏やかな笑みを浮かべながらその小さな手を握り返した。










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