かつて虚と関係を持った町娘は、秘密裏に産み落とした赤子の名付けすら果たせないまま奈落の一員に命を奪われた。虚の遺伝子を受け継いでいるという理由で拷問に近い人体実験を繰り返されながらも、名もなき赤子は健やかに成長し、五歳の誕生日を迎えた。物心が芽生えた頃から実験を嫌がり始めた彼女は、奈落の活動拠点の程近くにある神社へ預けられていた。
 とある晴れた日、神木の上から景色を眺めていた彼女は、神社へ向かって歩いてくる少年の姿に気が付いた。その少年こそが、死にかけていたところを虚に救われ、奈落の下っ端として働き始めた朧だった。それまで大人としか関わった事がなかった彼女は、自身とさほど年の差がない朧に対し親近感を抱き、本能の赴くままに朧めがけて木から飛び降りた。

「うおっ」

 隕石よろしく突っ込んでくる彼女をすんでのところで回避した朧は、舞い上がる砂塵に噎せ込みながら目を白黒させた。立ち込めていた砂塵が治まり、空から降ってきた何かが子供であることに気付いた朧は、全身から血の気が引くのを感じながら彼女に駆け寄った。

「お、おい、大丈夫か?」

 無言で顔を上げた彼女は、まるで虚空を仰ぎ見るかのように朧を見上げた。幼子らしからぬ仄暗さを孕んだ虚ろな瞳にたじろぎながらも、彼女が足首を押さえている事に気付いた朧は、恐る恐る小さな手を退けさせた。小さな手のひらで覆われていた足首は、着地した衝撃で骨が折れており、赤黒く腫れ上がっていた。明らかに重傷を負っているにもかかわらず無表情を貫く彼女の姿は、朧を更に困惑させた。

「痛くないのか?」
「い……い?」

 質問の意味も言葉を発する術も知らない彼女は、朧を見上げながら小さく首を傾げた。奈落の活動拠点において実験の時間以外を独房で過ごしていた彼女は、言葉を理解する事も発する事もままならない状態だった。しばらく考え込んでいた朧は、おもむろに彼女の足首を圧迫した。突如として走った鋭い痛みに足を引っ込めた彼女は、再び足首を覆い隠しながら俯いた。

「痛い」

 淡々と言葉を発する朧を見上げた彼女の瞳の奥には、怒りともとれる光が宿っていた。そんな彼女の反応を意に介さず、朧は再び口を開いた。

「それが、「痛い」だ」
「…………い、た?」
「痛い」
「い……た、い………………い、たい」

 その瞬間、朧の中には教える事の喜びが、彼女の中には教わる事の喜びが芽生えていた。彼女の中に流れる虚の血は、骨折を五日で回復させた。
 それからというもの、朧は暇さえあれば彼女のもとを訪れた。言葉を学ぶ時間は、二人にとって掛け替えのないものだった。
 二人が出会って一年。たくさんの言葉を吸収した彼女は、あどけなさを残しながらも卒なく会話を交わせるまでに成長していた。初めて手土産を持参した朧は、境内に座る彼女の隣にぎこちなく腰を下ろした。

「そういえば、まだ名前を教えていなかったな」
「名前?」
「そうだな……あれは何だ?」

 そう問いかけながら神木を指差す朧に対し、彼女は「木」と答えた。階段を指差せば「階段」と、空を指差せば「空」と答える彼女の隣で、朧は改めて教える事の喜びを噛み締めていた。

「色んなものに名前があるように、私たち人間にも名前があるんだ。私の名前は、朧だ」
「おろろ」
「朧。お前の名前は?」
「……わかんない。たぶん、私は名前持ってない」
「……そうか。それなら、私がつけてもいいか?」
「名前くれるの?」
「ああ」

 腕組みしながら熟考する朧の隣、彼女は何気なくこの一年間を思い返していた。朧との思い出を頭の中で再生する彼女の瞳の奥では、そこはかとなく穏やかな光が揺れていた。朧と過ごした時間が、彼女の表情を僅かながら変え始めていた。

「……奏」
「奏」
「ああ、奏だ」
「奏……すてきな名前だ。ありがとう、朧」
「ああ。奏、今日は土産を持ってきたんだ」
「土産?せみの抜け殻?ヤモリ?」
「違う。羊羹だ」

 そんな会話を繰り広げながら二切れの羊羹を取り出した朧は、一切れを奏に差し出した。両手で羊羹を受け取った奏は、初めて見る黒い塊に警戒心を露わにしながら朧を見やった。

「ダークマター?」
「羊羹だと言ってるだろ」
「食べもの?」
「そうだ」
「いただきます」

 育ち盛りである奏は、間髪入れずにそう言うと一口で羊羹を平らげた。

「これは……」
「口に合わなかったか?」
「ううん。口の中が天国だ」
「そうか。それが「甘い」だ」
「甘い。口の中が天国は、甘い」

 真顔でそう呟く奏に小さく噴き出した朧は、頬を緩ませながら羊羹を口に運んだ。その日の晩、朧は奏の生い立ちを知った。
 それから長い年月が経ち、朧と奏にとって互いの存在は安らぎと化していた。奏を悲しませるような事は絶対にしない──彼女の生い立ちを知ったその瞬間からそう心に決めていた朧は、奏を傷付ける事は一切しなかった。そのため、奏が涙を流すような事は、朧と出会ってから大人となった現在に至るまで一度たりともなかった。

 洛陽の片隅、朽ち果てた廃墟。朧を背負った高杉晋助は、神妙な面持ちを浮かべる鬼兵隊一行に囲まれながら歩き出した。鬱蒼とした森を歩く彼らの間には、沈黙が流れている。向かう先から何者かの足音が近付いてくる事に気付いた来島また子は、高杉達を庇うように前へ躍り出ながら拳銃を構えた。程なくして姿を現した奏は、眼前に銃口を突き付けられると両手を上げながら立ち止まった。

「貴様、何者っスか?」
「奏。朧に用がある」
「……また子、通してやれ」
「し、晋助様……」
「ありがとう」

 高杉に促され、渋々といった様子で拳銃を下ろした来島また子の横を、奏は謝辞を述べながら足早に通り抜けた。高杉の前で立ち止まった奏は、前屈みになりながら朧の顔を覗き込んだ。

「朧」

 力無く目を閉じたまま、朧は微動だにしない。

「朧」
「……どこのどいつかは知らねェが、こいつはもう」
「朧、起きて」

 高杉の言葉を遮りながら朧に声を掛け続ける奏の目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。既に朧は息絶えている──この場にいる大多数の者がそう思っている中、奏だけは朧の生存を信じ続けていた。
 事実、朧の中ではアルタナの効力が僅かながらに生きていた。しかし、身体のあらゆる機能が限界を遥かに超えている朧にとって、死は避けられない。文字通り虫の息である朧の意識を呼び起こしたのは、他でもない奏の声だった。

「奏、か」
「朧、死ぬの?」
「……だろうな」
「朧、死にたいの?」
「…………お前のせいで、生きたいと思ってしまう自分がいる」
「じゃあ、私と一緒に生きて」
「死にゆく者の前で無茶を言うとは、奏らしいな」
「大丈夫、朧は死なない」

 朧を地面に寝かせた奏は、懐から短刀を取り出した。周囲がざわつく中、高杉と河上万斉は落ち着いた様子で奏の行動を見守っている。短刀で自らの手のひらを斬りつけた奏は、薄く開かれた朧の唇に自身の血液を流し込んだ。否応なく奏の血を飲み込まざるを得なかった朧の体内に、心地よい熱が染み渡るように広がっていく。半アルタナの鮮血が、長年に渡り朧の体を蝕んでいた虚の血をゆっくりと溶かしていった。

 一年後──松下村塾の跡地の程近くにひっそりと佇む古民家で、奏は朧の世話をしながら暮らしていた。朧の中に留まっていた虚の血は全て溶解され、彼は起き上がる事が出来るまでに回復していた。
 ある日の夜、夕食の片付けを終えた奏は二つの湯呑みを乗せたお盆を手に朧の寝室を訪れた。

「ありがとう」
「なんのこれしき」
「奏は本当に色々な言葉を覚えたな」
「おかげさまで。気分は?」
「ああ、悪くない」
「よし、じゃあお喋りしよう」

 緑茶を一口飲んだ奏は、おもむろに洛陽での出来事を話し始めた。正確には、奏が洛陽に向かうきっかけとなった出来事の話だった。
 忽然と姿を見せなくなった朧の身を案じ、奈落の活動拠点を訪れた奏は、はからずも朧と自身の生い立ちを知ってしまった。そして、不定期的に続いていた人体実験が一切行われなくなったのが、朧の口添えがあったからだと知った奏は捨て身の覚悟で朧を助けに向かった。
 まるで絵本を読んでいるかのような口調で紡がれる真実を、朧は何も言わずに聞いていた。

「死にかけの朧を見たとき、すごく痛かった。すごくすごく、苦しかった。でも、どこが痛くて苦しいのかわからなかった。あれが、悲しいっていう気持ちだったのかな」
「おそらくな」
「じゃあ、朧はずーっと私を悲しませないでいてくれてたんだね」

 ありがとう──そう言った奏の頬を、一筋の涙が伝い落ちた。

「朧」
「ん?」
「嬉しくても涙は流れるんだね」
「……そうだな」

 そう呟いた朧が持っている湯呑みの中、一つの波紋が小さく広がった。

「朧が元気になったら、色んなことをしよう」
「いつになるか、わからないぞ」
「待ってる」
「そうか」
「春になったら、花見をしよう」
「ああ」
「夏になったら、野鳥を観察しに行こう」
「ああ」
「秋になったら、風に揺られるススキを見に行こう」
「ああ」
「冬が来たら、雪に囲まれながら月を見上げよう」
「……ああ」
「よし、布団持ってくる」
「こっちで寝るのか?」
「うん。眠くなってきたけど、話し足りない」

 おもむろに立ち上がった奏は、覚束ない足取りで出入り口に向かった。遠ざかっていく奏の背中を見つめる朧の瞳には、暖かな光が宿っている。程なくして布団を抱えながら戻ってきた奏は、寝支度を済ませると置行灯の篝火をそっと吹き消した。暗がりの中、とりとめもない会話を紡ぎながら、どちらからともなく手を繋ぐ二人。手のひらから伝わる温もりを包み込むように朧の手を握り返した奏は、頬を緩ませながらゆっくりと目を閉じた。










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