遠い昔の、黄昏時。忘れ物を取りに戻った松下村塾の前で朧と出逢った。
 ぼんやりと松下村塾を見つめていた朧は、私の足音に気付くと逃げるように反対方向へ向かって歩き出した。刹那、彼の袂から白い手拭いが零れ落ちた。

「待って!」

 反射的に呼び止めたものの、手拭いを落とした事に気付いていない朧は脇目も振らずに駆け出した。松下村塾を見つめる朧の横顔に途方もない哀惜を感じていた私は、拾い上げた手拭いを握り締めながら一心不乱に走った。走っても走っても、追いつくどころかどんどん離れていってしまう朧の背中。それでもなお歯を食いしばりながら走り続けた私は、小さな石ころに蹴躓き、派手に転んでしまった。
 なぜか、一枚の手拭いを渡せなかった事にひどく落胆する自分がいた。きっともう、追いつけないだろう。あの足の速さでは、もう──目の前に広がる地面をただただ見つめながら手拭いを握り締めていると、一人分の足音が聞こえてきた。

「……それを渡したかったのか」

 地面に影がさすと同時に、抑揚のない無機質な声が降ってきた。黄昏時──またの名を、誰そ彼時。込み上げる嬉しさを感じながら見上げた朧の表情は、沈みかけの夕陽が生み出した逆光でよく見えなかった。それでも、朧を取り巻く空気が柔らかい事だけは確かに感じ取れた。
 朧は面倒くさそうに、それでいてどこか気遣うように手を貸してくれた。私が膝を怪我している事に気付いた朧は、受け取った手拭いで患部を止血し始めた。

「手拭い、汚れちゃう」
「それがどうした」
「……変な人」
「貴様に言われたくない」
「貴様って呼ばないで。奏っていう立派な名前があるんだから」
「……奏は松下村塾の門下生なのか?」
「うん、そうだよ」
「そうか……行くぞ」

 そう言った朧は、極めて自然に私の手を取りながら松下村塾へ向かって歩き出した。す、すまない──ふと我に返りながら慌てて手を離した朧の袂を、私は無意識の内に握り締めていた。

「あ、えっと……膝、痛いから、こうしてていい?」
「勝手にしろ」
「お兄さんの名前は?」
「……朧」
「おぼろ?」
「ああ、朧だ」

 朧はきっと、見てくれほど悪い人ではないのかもしれない──そう思えるくらい、言葉を紡ぐ朧の声と表情は穏やかだった。松下村塾の前に辿り着くと、朧はお役御免とばかりに私の手を振りほどいた。

「私はここから先へは行けない」
「何で?」
「きさ……奏には関係ない」

 突き放すような言葉を吐き捨てる朧の目には、何もかもを拒否するような冷たい光が宿っていた。それがとても悲しくて、どうしようもなく苦しくて。遠ざかっていく朧の後ろ姿が、まるで夕闇に呑み込まれていってしまうような絶望感に陥った。
 それからというもの、不定期ではありながらも松下村塾を覗き込む朧の姿を目撃する事があった。ある時は、門の陰に身を隠しながら。またある時は、松下村塾の近くに生えている大木の枝に座りながら。一度だけ、外を眺める松陽先生が朧に微笑み返しているように見えた事があった。
 いつ鉢合わせしてもいいように、朧の手拭いとお礼の飴玉ふたつを常に袂に忍ばせていた。それらを朧に渡す事ができたのは、奇しくも松下村塾が襲撃された時だった。轟々と燃え盛る松下村塾の傍ら、連行される松陽先生と、地べたに組み敷かれながら叫び続ける坂田銀時。その光景を、朧に捕えられながら呆然と眺めていた。

「なに、これ」
「吉田松陽は、私達の組織から逃げ出した反逆者だ」

 燃え盛る炎の音、松下村塾が焼け落ちていく音──禍々しい雑音の中、朧の無機質な声だけがやけに鮮明に聞こえた。袂に忍ばせておいた手拭いと飴玉が金平糖入りの小瓶にすり替えられている事に気付いたのは、解放されてからしばらく経った頃だった。
 松陽先生を、私達の居場所を奪った「組織」が許せなかった。その組織に朧が属している事実は、もっと許せなかった。あわよくば朧を許したいと思ってしまう自分が、最も許せなかった。
 それから長い年月を経て、私達は江戸の街の片隅で再会した。組織の幹部にまで上り詰めていた朧は、「攘夷活動幇助罪」というあらぬ罪を着せた私を地下牢へ投獄した。獄中生活初日の深夜、地下牢へやって来た朧に無言で押し倒された。

「鬼兵隊について知っている事、全て吐け」
「何も知らない」
「しらを切るな」
「知らないものは知らない」

 凄然とした眼差しで私を見下ろしながら尋問を始めた朧は、静かに流れる時を断ち切るかの如く、まるで獲物の喉笛に噛み付く猛獣のように唇を重ね合わせた。のしかかる朧の身体を押し返そうとした両手は、いとも簡単に抑え込まれてしまった。首筋に突き立てられた歯は、儚くも慈しみに満ちた痛みを生み出した。首筋、二の腕、胸元、内腿── 朧に齧り付かれるたび、苦痛と快楽の入り混じった声が漏れた。
 痛い、いたい、イタイ。
 途方もなく、愛おしい。
 過去も今も未来も、決して交わることのないそれぞれの道を行く私達は、仄暗い地下牢の冷たい床の上で身体を重ねた。

「……朧」

 事を済ませた朧は、振り向きもせずに地下牢を去っていった。噛み付かれた部分に咲いた痣を指先でなぞった瞬間、わけもなく泣きそうになった。
 それからというもの、朧による凌辱は毎晩のように繰り返された。ある時は、天井から吊るされた細い麻縄で両手の親指を拘束されながら、一本鞭で身体中を叩かれ続けた。またある時は、行為中に思い切り首を絞められ、意識が飛ぶたびに首筋や二の腕を噛まれ強制的に覚醒させられた。
 夜な夜な繰り返されていた凌辱ではなく、ごく普通の情事が行われた夜、漠然とした不安に駆り立てられながら朧の背中に腕を回した。手のひらに感じる無数の傷跡が、朧の死期が近付いている事を物語っているようだった。

「朧」

 事後、それまで名前を呼んでも振り向く事すらしなかった朧が、出入り口の前で足を止めた。

「……金平糖おいしかった、ありがと」

 振り向きかけた朧の横顔を、不安定に揺れる蝋燭の灯火が照らした。陽炎のように揺らめく篝火に浮かぶ朧の横顔は、松下村塾の前でその名を教えてくれた時のように穏やかなものだった。再び無言で歩き出した朧の後ろ姿は、この先に待ち受けている運命を、もとい自身の死を受け入れるかのように力強く見えた。
 行かないで。ここにいて。死なないで。朧と生きたい。大嫌い。大好き。
 山ほどあった伝えたい言葉が涙となり、冷たい床に音もなくこぼれ落ちていった。明くる日の朝、松下村塾跡地の程近くにある反物工場での強制労働を命ぜられた。

「朝比奈」

 工場での仕事に慣れた頃。昼休憩中、運動場の片隅でお弁当を食べていると高杉晋助がやって来た。

「朧は?」
「松下村塾で眠ってる」
「何で松下村塾で眠ってるの?」
「あいつは……朧は俺達の兄弟子だった」
「高杉がやったの?」
「ああ」
「……そっか」
「お前、気付いてんだろ」
「何のこと?」

 ふん、と鼻で笑った高杉は、紫煙を燻らせながら飄々とした足取りで去っていった。
 高杉の前ではすっとぼけたものの、本当は気付いていた。あの夜、朧が悟っていたのが自身の死だけではなかったことに。本当は、心のどこかでわかっていた。かぶき町を中心に江戸の街が戦場と化す事を予測していた朧が、この地に私を送り込んだことに。最初から、お見通しだった。治安が悪くなりつつあった江戸の街から私を隔離させるために、罪を着せたこと。
 気付きたくなかった。でも、気付いてしまった。不器用な朧なりに、私を護ってくれていたことに。
 だから、受け入れた。不器用な朧の、海より深い愛を。










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