幕吏が集う会議が執り行われている最中、暇を持て余した朧はあてもなく城内を歩き回っていた。朧とすれ違う女中達は、慌てたように頭を下げながら彼の横を通り抜けていく。徳川定々の護衛および天照院奈落の首領である朧にとって、女中達の反応は至極当然とも言える。周囲の反応を意に介す事なく歩き続けていた朧は、ふらりと訪れた庭の片隅で咲く二つのタンポポを見下ろしながら立ち止まった。

「タンポポ、好きなんですか?」

 朧の隣にやって来た新人女中・奏は、柔らかな笑みを浮かべながらタンポポを見下ろした。奏の横顔を一瞥し、再びタンポポに視線を戻した朧の瞳には、陽だまりのように暖かな光が宿っていた。

「……嫌いではない」

 無表情でそう呟く朧の横顔を見上げた奏は、満面の笑みを咲かせながらタンポポの花弁を指先で撫でた。二つのタンポポが綿毛になった頃、朧と奏は再び巡り会った。月明かりの下、膝を抱えながらタンポポの前でしゃがみ込む奏。朧の足音に気付いた奏は、慌てて目元を拭いながら月を見上げる。奏の隣でひざまずいた朧は、彼女の視線を辿りながら夜空に浮かぶ月を見上げた。

「泣いていたのか」
「……仕事で失敗してしまいました」
「叱責されたのか」
「いえ……先輩方は助言してくださったり、励ましてくださいました」
「ならば、なぜ泣いていた?」
「普段から良くしてくださる先輩方に迷惑を掛けてしまった事が、情けなくて」

 声を震わせながら言葉を紡いだ奏は、込み上げる涙をこらえるように唇を噛み締めた。ふと霞んだ視界が闇に染まり、軽い混乱に陥る奏。おもむろに伸ばした手を奏の眼前にかざした朧は、風に揺れる綿毛を見下ろしながら口を開いた。

「お前は、心まで美しいんだな」
「どうしたんですか、急に」
「思った事を言ったまでだ」
「朧さん……」
「今は誰も見ていない。我慢は体に毒だ」

 朧の不器用な優しさに小さな笑みをこぼした奏の頬を、一粒の涙が伝い落ちた。刹那、一陣の風にさらわれた綿毛が月明かりを反射させながら舞い上がる。膝に顔を埋めながら嗚咽を漏らす奏を一瞥し、下ろしかけていた手を再び伸ばす朧。奏の頭に触れるか触れないかというタイミングで思いとどまった朧は、ぎこちなく手を下ろしながら月を見上げた。
 それからというもの、二人は頻繁に庭を訪れるようになった。特に約束を交わすわけではないため、もちろん顔を合わさない時もあった。しかし、まるで示しを合わせたかのように鉢合わせる事の方が圧倒的に多かった。
 そんな日々が一年も経たぬ内に定々が暗殺され、朧の解任が決定した。朧が大江戸城を去ってから一カ月後、庭掃除をしている奏の前に一輪のカキツバタを咥えた烏が舞い降りた。すぐに朧からの贈り物だと察した奏は、目を輝かせながら懐から取り出した紙に筆を走らせた。

──朧さん お元気ですか
私は元気に過ごしています
素敵な杜若の花 本当にありがとうございます
どうか お体に気を付けて
奏より

 一文字一文字に朧への想いを込めた手紙を烏に託した奏は、大きな羽音を立てながら飛び立った彼の姿が青空の彼方へ溶け込むまで見送り続けた。一カ月に一度の花と手紙のやり取りは、互いの心に種火のような小さいながらも確かな温もりを植え付けた。

──朧さん お元気ですか
庭にタンポポの花が咲きました
朧さんと初めて出会った時と同じ場所です
私にとって とても大切な場所です
奏より

 手紙を咥えた烏は、大きな羽音を響かせながら真っ青な空へと飛び立っていった。庭の片隅で風に揺られるタンポポを一瞥した奏は、そこはかとない不安を孕んだ笑みを浮かべながら歩き出す。そのタンポポが綿毛と化した頃、奏の元を訪れた烏は一通の手紙を咥えていた。

──奏へ
奏がこの手紙を読んでいるという事は 私はもうこの世にはいないだろう
私にとって 奏は唯一の光だった
奏と出会えた事が 私にとって何よりの宝だ
ありがとう


 朧から届いた最初で最後の手紙を読み終えた奏は、そよ風に揺られる綿毛の前、膝を抱えながら泣きじゃくった。決して長くはないながらも、端正な文字で綴られた朧の気持ちは、奏の心を満たすには充分すぎるほど。嗚咽を漏らしながら、紙に筆を走らせる奏。溢れ出す涙を拭いつつ烏を見送った奏は、朧からの手紙を抱き締めながら目を閉じた。

──拝啓 手紙を届けてくださった方へ
朧さんからの手紙を届けてくださって 本当にありがとうございました
貴方様なら朧さんが眠っている場所をご存知ではないかと思い 不躾ながら筆を取りました
もしご存知でしたら 教えてはいただけないでしょうか
朝比奈奏

 程なくして返ってきた手紙には、簡素な地図だけが描かれていた。その地図の場所を特定するのは困難を極めたものの、それは奏にとって極めて些細な事だった。数カ月の月日を経て朧の眠る地を探し出した奏は、すぐさま休暇に入る手続きを済ませ、小さな巾着を握り締めながら大江戸城を飛び出した。
 数刻後──松下村塾の跡地に辿り着いた奏は、朧から贈られた花と同じ種類のものを寄せ集めた花束を抱えながら小さな石碑に歩み寄った。松下村塾の跡地の片隅にひっそりと佇む石碑の隣では、奇しくも二輪のタンポポが咲き誇っている。澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込みながら辺りを見渡し、おもむろにしゃがみ込む奏。目を閉じながら手を合わせる奏の頬を伝い落ちた涙は、音もなく地面に吸い込まれていった。





和泉様へ捧げます。


タンポポの花言葉 「真心の愛」
カキツバタの花言葉 「贈り物」






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