黒縄島での決戦を終えた一行が江戸へ戻ってきた翌日、まだ陽が昇り始めてもいない頃。地下都市アキバの一角にひっそりと佇む、何の変哲もない長屋の一室。隣で眠っている桂小太郎を起こさないよう息を殺しながら起き上がった朝比奈奏は、忍び足で寝室を後にした。向かうは、坂本辰馬率いる快援隊との待ち合わせ場所である埠頭。そっと閉めた扉に手を添えながら目を閉じていた奏は、意を決したように再び歩き出した。
 おもむろに目を開けた桂は、聴覚を研ぎ澄ませながら天井を見上げる。徐々に遠ざかっていた奏の足音が完全に聞こえなくなり、長屋の中から彼女の気配が消えると同時に起き上がった桂が向かったのは、泥酔した坂田銀時が死んだように眠っている隣室。部屋に侵入した桂が暗闇の中を手探りで何か探し始めた瞬間、見るからに爆睡していたはずの坂田は咳払いをしながら上体を起こした。

「ついに盗みまでやるようになっちまったか、ヅラ」
「ヅラじゃない、桂だ。……すまない、足が必要なんだ。スクーターを貸してほしい」
「……お前、奏ちゃんが黙って出てった意味わかってんだろ」
「奏が何も言わずに出発したのも、俺が追うのも、突き詰めれば単なるエゴでしかない。人の恋路を邪魔する輩は、お馬さんに蹴られながら虎さんに腹を食い千切られて死ねば良い」
「お前それ、貸してほしいっつー奴の態度じゃねェぞ。お馬さんとか虎さんとか、そこ丁寧に言えば許されると思うなよ」
「あー……すまん。最近、奏の事を考えるとどうしても不安定になってしまう」
「それくらい奏ちゃんを大事に思ってんだろ。貸すのは構わねーけど、高ェぞ」
「案ずるな、体で払う」
「いやそれ逆に案ずるわ」
「案ずるな、こう見えてテクニシャンだから俺」
「だから案じざるを得ねーっつーの」
「何を怯えている、俺の肩揉みの腕前はお前もよく知ってるだろう」
「紛らわしいんだよテメーは、ぶっ殺すぞ。ほら、さっさと行ってこい」

 枕元に置いてあったキーケースを溜め息交じりに投げ渡した坂田は、派手に放屁しながら桂に背中を向けた。恩に着る──頬を緩ませながらそう呟いた桂は、颯爽と坂田の部屋から去っていった。
 一方、桂が長屋を後にすると同時に地上へと出た奏は、白み始めた空を見上げながら最寄り駅に向かって歩き出した。どこからともなく酔っ払いの鼻歌が聞こえてくるかぶき町の明け方とは裏腹に、地下都市アキバ界隈の早朝は水を打ったように静まり返っている。坂田に借りたスクーターを徐行させながら奏を探していた桂は、十字路を左に曲がっていく彼女の後ろ姿を発見すると慌てて速度を上げた。
 近付いてくるエンジン音に気付き、立ち止まりながら振り返る奏。徐行で迫り来るスクーターの運転手が桂である事に気付いた奏は、困ったような笑みを浮かべながら口を開いた。

「何で寝たふりし続けてくれなかったかな」
「奏が自分自身の意思で何も言わないまま発とうとしたように、俺も俺のエゴで追いかけてきたまでさ」
「……ごめん」

 うつむきがちにそう呟きながら差し出されたヘルメットを受け取った奏は、今にも泣き出しそうな顔を隠すかのように深々とそれを被った。スクーターにまたがりながら、桂の腰に両腕を回す奏。二人を乗せたスクーターは、明け方特有の澄んだ空気をまといながら埠頭を目指して走り出した。
 桂の腰を抱き締める腕に力を込め、広い背中に頬を寄せながら目を閉じる奏。桂の温もりに身を委ねながら風を感じていた奏は、鼻腔をくすぐる潮風の匂いに気付くとおもむろに目を開いた。眼前に広がる大海原に反射した朝陽の光が、奏の目を刺激する。快援隊との待ち合わせ場所である倉庫の前にスクーターを停めた桂は、外したヘルメットをハンドルに掛けながらエンジンを切った。

「何時に待ち合わせているんだ?」
「八時」
「八時……あと二時間弱か」

 どちらからともなく地面に降り立った二人は、手を取り合いながら倉庫の前に腰を下ろした。倉庫のシャッターを背に、互いに寄り添いながら海を眺める二人。やはりどちらからともなく指を絡ませた桂と奏は、とりとめもない会話を紡ぎながら二人きりの時間を噛み締めた。次の夕飯で何を食べようか、桜が咲いたら弁当を持って花見に行こう、全てが終わったらまたこの場所に来よう──落ち着いた口調で語り合う二人の視線の先、きらめく水平線の向こうには彼らの信じる未来があった。

「よかよか、敵さん欺くにはまず味方から言うきに」

 約束通りの時刻に待ち合わせ場所へやって来た坂本は、開口一番「騙してすみませんでした」と黒縄島までの一件を謝罪する奏に対し、あっけらかんと笑ってみせた。味方すら欺けん馬鹿が抜かしよって──と、シンプルかつストレートな暴言を坂本にぶつける陸奥。陸奥と共に快臨丸へ乗り込む奏の背中を見送った桂は、神妙な面持ちで坂本を呼び止めた。

「奏の事、くれぐれもよろしく頼む」
「おう、任しとき。奏ちゃんには厨房で頑張ってもらうぜよ。滅多な事がない限り塵ひとつ通さん、快臨丸の中でも一番のセキュリティを誇る場所じゃ」

 寸分の迷いも見せず自信ありげな様子でそう言い放った坂本は、片手を上げながら快臨丸に乗り込んだ。坂本の言葉通り、快臨丸の厨房は船内の要塞と言っても過言ではないほど厳重なセキュリティが施されている。坂本の元で拳銃の基本的な使用方法を改めて習得した奏は、快臨丸の中心部にある厨房へ案内された。
 カードキーを所有している者のみが開けられる重厚な鉄製の二重扉に、衛生面への配慮から設けられた最新鋭の風圧シャワー。花粉一粒として通す事が許されない厨房を前に、范堺率いる第三師団は烏合の衆と化した。天井に備え付けられたモニターに映し出された船内の様子を見つめる奏の背中にそっと触れたのは、料理長を務める通称おばば。

「社長らには社長らの、わしらにはわしらの成すべき事がある」

 柔和な口調で紡がれた力強い言葉は、まるで氷を溶かすかのように奏の張り詰めていた気持ちを解きほぐしていく。ごく自然に零れ落ちた涙を慌てて拭いながら頷いた奏は、込み上げる気恥ずかしさを誤魔化すようにカレーの大鍋をかき混ぜ始めた。
 范堺との死闘が収束して間もなく、洛陽の地に降り立った快臨丸の振動は厨房で調理に勤しむ奏達をも襲った。恐る恐る窓を覗き込んだ奏の眼前に広がったのは、思わず呼吸すら忘れてしまうほどの地獄絵図。奈落の圧倒的な強さを目の当たりにした奏は、押し寄せる絶望に飲み込まれまいと歯を食いしばりながら食料庫の最奥にある隠し扉を開け放った。
 おばばを始め、厨房で働く女性陣を隠し部屋へと促す奏。おばば達の制止を振り切りながら隠し部屋の鉄扉を閉めた奏は、息を切らしつつ背の高い戸棚を扉の前に移動させた。倉庫の扉を閉めた奏は、コンロの火を消しながら窓際に駆け寄る。窓を覗き込んだ奏の目に飛び込んできたのは、快臨丸に侵入せんとする奈落の小隊だった。
 腰が抜けてしまいそうになる程の恐怖心に抗いながら、出入り口とは反対方向に位置する作業台に身を隠す奏。奏が小刻みに震える手で銃の安全装置を解除した刹那、奈落が一枚目の鉄扉を突破する爆音が響き渡った。程なくして二枚目の扉を打ち破った奈落の小隊が、カレーの匂いが充満する厨房に足を踏み入れる。奏の気配に気付いた奈落の一人は、狂気的な笑みを浮かべながら手近な作業台に飛び乗った。
 弾丸のような瞬発力で走り出した彼は、食材をなぎ倒しながら作業台を飛び移っていく。意を決したように銃を構えながら立ち上がった奏は、押し寄せる殺意に飲み込まれそうになりつつ引き金に指を掛けた。駿足で迫り来る彼が構えた刀の切っ先が鼻先に突き付けられた刹那、奏の脳裏をたくさんの思い出が飛び交った。

「っ……」

 視界が真っ赤に染まった瞬間、目を閉じながら力無く倒れ込む奏。間髪入れずに作業台から転がり落ちた奈落は、額から刀を生やし、なおかつ大量の血を噴き出しながら絶命していた。異変に気付いた彼以外の者達は、鬼気迫る表情を浮かべながら出入り口の方へ視線を移す。
 彼らの視線の先には、奏を助けるために単身乗り込んだ桂の姿が。四方から迫り来る魔の手をかいくぐりつつ厨房を駆け抜けた桂は、絶命した者の頭から抜き出した刀と持ち主を失った得物を構えながら奈落に立ち向かった。二本の刀を駆使しながら奈落を斬り倒していく様は、正しく狂乱の貴公子そのものだった。
 快臨丸に忍び込んだ奈落達の遺体を甲板から投げ落とした桂は、頬を濡らす返り血を拭いながら厨房へ向かって歩き出す。厨房へ戻ってきた桂は、最初に仕留められた奈落の血を浴びながらも奇跡的に無傷だった奏をそっと抱き起こした。

「奏、起きろ」
「ん……桂?あれ、私生きてる?」
「言ったはずだ、俺が奏を護ると」

 ありがとう──そう呟きながら桂に抱きつく奏の頬を、一粒の涙が零れ落ちた。今この瞬間にも、戦場と化した洛陽のどこかで誰かが誰かを斬り、誰かが誰かに斬られている。しかし、桂と奏を結ぶ固い絆は何人たりとも斬る事は出来ない。



─第一部─ 完






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