奈落に加わった直後、戒名の儀が執り行われた。奈落として生きていくにあたり名を捨てるのは至極当然、その代わりに戒名を与えられる事が習わしなのだと誰かが言っていた。死にかけていたところを救われた脆弱な私の名付け親を買って出る者はおらず、かといって助けた張本人である虚様にその権限は与えられないらしく、戒名の儀は難航していた。

「宵」

 虚様にそう呼ばれたのは、私と同じ年頃であろう少女だった。虚様の隣に立つ少女は呼び掛けに反応せず、窓枠に両手をかけながら霞みがかった月を見上げていた。まるで、虚様の声など届いていないかのように。
 その横顔は、「宵」と呼ぶにふさわしくないほど輝いて見えた。しばらく少女の返事を待っていた虚様は、やがて諦めたように溜め息をついた。

「……奏」
「何でしょう」
「お前が彼の名を決めなさい」
「えー……」

 奏──そう呼ばれ目を輝かせながら虚様を見上げた少女は、一転、突然の命令に表情を曇らせた。困ったような表情を浮かべながら小さく唸っていた奏は、最終的に虚様や周囲の圧を受け、溜め息交じりに口を開いた。

「朧」
「朧?」
「こないだ、虚さんが教えてくれたじゃない。朧月」
「……ああ、そうか」

 今日は朧月夜か──奏の視線を辿るように夜空を見上げた虚様は、柔和な口調でそう呟いた。二人の視線の先には、ほのかに霞んだ月が水面をたゆたう鳥の羽根ように浮かんでいた。
 同年代という事もあり私の教育係を命ぜられた奏は、「親につけてもらった名前を捨てる程の忠誠心は持ち合わせてない」と満面の笑みを浮かべながら言い放った。ならば、なぜ私に名を付けた?──そう問うと、奏は「気まぐれ以外の何ものでもない」と、やはり笑顔で冗談めかした。
 何の前触れもなく弟弟子が現れてもなお、自分のペースを崩すどころか余裕さえ感じさせる奏に対し、私は嫉妬に似た感情を抱かざるを得なかった。

「虚さんは変わった」

 奈落に加わって一月が経った頃、奏は握り飯を頬張りながらそう呟いた。どこか切なげな声とは裏腹に、その横顔は穏やかだった。
 虚様が奈落を脱する決意を固めたと知ったのは、それから数日後の事だった。飄々としている一方で思慮深い一面を持つ奏は、誰よりも早く虚様の心情を悟っていたに違いない。しかし、奏が自らその話題に触れる事は決してなかった。

「なあ」
「ん?」
「……気付いてんだろ、虚様の事」
「虚さんが奈落を抜けたいって思ってる事も、あなたが虚さんについて行きたいって思ってる事も知ってるよ」
「奏も行くよな?」
「ううん、私はここに残る」
「嘘だろ?」
「そんなわけないでしょ」

 冗談交じりにそう呟いた奏は、いつもと変わらぬ飄々とした足取りで歩き出した。
 いつも一緒にいる私達三人が、このような事で袂を分かつなど有り得ない。ましてや、誰よりも虚様を慕っていた奏が彼を裏切るなど──そんな幼き故の無垢な思い込みから、私は遠ざかっていく奏の小さな背中に向かって糾弾し続けた。
 またね──逃亡前夜、廊下ですれ違った奏はただ一言そう囁いた。それから二月も経たぬ内に、私は奈落へ戻ってきてしまった。己の脆弱さを知るには、二月という期間は充分すぎる程だった。

「今は何も喋らなくていい。そんな暇があるなら、さっさと怪我治してよ」

 いつもと変わらぬ笑みを浮かべながらそう言う奏の前、何度「ごめん」という言葉を飲み込んだだろうか。幾度となく伝えようとした、是が非でも伝えたかった。
 そのたった一言を伝えられないまま、奏は死んだ。虚様と私の逃亡を幇助したというあらぬ罪を着せられ、切腹を命ぜられたのだ。
 彼女の切腹は、傷が癒えた私の目の前で執行された。奏が私の世話を一任されていたのは、私の罪悪感を増長させるためか、はたまた彼女の中に私へ対する怨恨の念を植え付けるためか。
 短刀を握り締める彼女の手が震えていたのは、死への恐怖からか、それとも私に対する憎しみの表れか。自らの腹部に深々と短刀を突き立てた奏は、苦悶の表情を浮かべながら掻っ捌いた切り口から臓物を引きずり出した。
 臓物を取り出し終えた奏と目が合った刹那──いつも見ていた、いつまでも見ていたかった彼女の笑顔が眼前から消え去った。まるで彼女の死を嘲笑うかのような、切腹する者の苦痛を和らげるためにしては遅すぎる斬首だった。

 今際の時を迎えてもなお、ついぞ私は彼女の気持ちを理解する事が出来ずにいた。
 何故あの時、私達と共に逃亡しなかったのか。おめおめと奈落へ戻ってきた私の世話を、どんな気持ちで請け負っていたのか。何故ありもしない罪を認め、自ら命を絶つというこれ以上ないほど酷な罪を受け入れたのか。
 わからないまま死んでゆく事が、私に出来る唯一の贖罪なのだろうか。もはや、それさえもわからない。
 遠退いてゆく意識を手放した刹那、奏の死に顔に咲いていた穏やかな笑みが脳裏をよぎった気がした。










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