快援隊の母船の一室で目を覚ました奏は、焦点の合っていない眼差しで天井を見上げた。奏が意識を取り戻した事に気付いた陸奥は、読んでいた雑誌を閉じながら立ち上がる。部屋の中央に置かれているソファからベッドの傍まで移動した陸奥は、動じる様子もなく冷静な眼差しで奏を見下ろした。

「気分はどうじゃ」

 陸奥の落ち着いた声を感じ取った奏は、湿った葉を這うカタツムリのようにゆっくりと視線を泳がせた。天井の模様をなぞるように這っていた奏の視線は、やがてベッドの傍らに佇む陸奥を捉える。見知らぬ天井や初対面である陸奥に対して反応する事なく、虚ろな瞳で虚空を見上げる奏。夕食から戻ってきた坂本辰馬は、奏が目を覚ましている事に気付くと満面の笑みを浮かべた。

「おー、やっと起きたか!」

 声を弾ませる坂本を一瞥した奏は、表情ひとつ変えずに再び虚空を見上げた。陸奥とアイコンタクトを図り、奏の状態が芳しくない事を悟った坂本は、懐からタブレットを取り出しながらベッドの縁に腰を下ろす。奏の視線を遮るように掲げられたタブレットには、近藤勲や松平片栗虎と共に林の中を駆け抜ける桂の姿が映し出されていた。
 濡れ衣を着せられ捕縛された近藤及び松平の奪還作戦に桂が乗じている事や、その舞台となっている黒縄島に「蚊」を模した監視カメラを投じた事、快援隊の母艦が今まさに黒縄島の遥か上空を飛行している事を説明する坂本。まるで坂本の声すら届いていないかのようにぼんやりとタブレットを眺めている奏は、桂が撃たれた場面が映し出されてもなお一切の反応を示さなかった。

「奏ちゃん、本当に忘れてしもうたんか」

 珍しく落ち着いた口調で諭すように語りかける坂本に目もくれず、無表情のままタブレットを見据える奏。寂しげに微笑みながらうつむいた坂本は、奏の頭を優しく撫でると陸奥を引き連れ部屋を去っていった。
 快援隊の母艦の遙か下方、大海原に浮かぶ黒縄島では一時的に盟約を結んだ真選組と桂一派、そして万事屋の面々が奈落相手に死闘を繰り広げている。奈落や虚の魔の手から辛うじて逃れた一行は、松平片栗虎の部下が用意した飛行型戦艦で見廻組の面々と共に黒縄島から脱出した。
 今井信女を筆頭に佐々木異三郎を弔う見廻組と真選組の面々の遥か前方、夜の闇を蹴散らすかのように昇り始めた朝陽が桂の横顔を力強く照らしている。一人、また一人と甲板から去っていく中、太陽の光に導かれるかのように外へ出る桂。光の筋を辿るように空を見上げた桂の視線の先に、赤い風船のようなものがひとつ。風船のようなものが快援隊の母艦と同じ色をしたパラシュートである事に気付いた桂の頬に、一滴の雨がこぼれ落ちた。

「雨……じゃないな」

 指先ですくった水滴の手触りは雨粒よりも柔らかく、桂の頬を自然と緩ませる不思議な温もりが含まれていた。再び空を見上げた桂に迫る赤い風船、もといパラシュートを身につけた奏。目元に浮かぶ涙を拭った奏は、無表情のまま冷たい眼差しで桂を見下ろす。互いの表情を肉眼で確認できる高度まで下降した奏は、懐から取り出した拳銃を満面の笑みを浮かべながら桂に向かって構えた。

「え?」

 鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべた桂が素っ頓狂な声を発した刹那、鼓膜を突き破らんばかりの銃声が響き渡った。桂の左足の数センチ前方、銃弾が撃ち込まれた甲板の床板が木屑を舞い上がらせながら弾け飛んだ。上を向いた奏の目からこぼれ落ちていく涙ひとつひとつが、空中に取り残されては青空に溶けていく。
 拳銃を持っている右手を垂直に挙げ、歯を食いしばりながら引き金を引く奏。赤いパラシュートに空いた小さな穴は、下から吹き付ける凄まじい風圧に耐え切れず、まるで花が開くように引き裂かれていった。数十メートル上空からそれまでの比ではない速度で落下してくる奏を、身一つで抱きとめる桂。仰向けに倒れ込んだ桂にまたがった奏を包み込むように時間差で舞い落ちたパラシュートが、無言で見つめ合う二人と外の世界を遮断した。

「奏……」
「……バカ」

 やっとの思いで絞り出された声が、黒縄島での戦いで心身共に疲労困憊していた桂を身体の芯から癒やしていった。唇を噛み締める奏の目から堰を切ったように溢れ出した涙が、桂の頬に絶え間なくこぼれ落ちていく。ようやく状況を飲み込む事ができた桂は、困ったような表情を浮かべながら奏の頬に手を伸ばした。

「寝たら忘れちゃうんじゃなかったの?何一つ忘れてないんだけど、どういう事?桂が撃たれたの、観ててすごい辛かった。いっそのこと何もかも忘れてたら良かったのにって、馬鹿みたいな事考えちゃうくらい悲しかった。でも辰馬さんの前では記憶喪失のふりしてなきゃって、必死に何も知らないふりして……」

 早口でまくし立てる奏の後頭部を半ば強引に引き寄せた桂は、矢継ぎ早に繰り出される言葉を遮るように唇を重ね合わせた。大きく見開かれた奏の目を凛とした眼差しで見上げながら、柔らかな唇の感触を味わう桂。たくましい胸にしがみつきながら口付けに応えた奏は、おもむろに唇を離すと不貞腐れた子供のような眼差しで桂を見下ろした。

「ごまかさないでくんない?」
「ごまかしてなどいないさ。プラシーボ効果というのを知っているか?」
「プラシーボ効果?えーっと……思い込ませ療法、みたいなやつだっけ」
「そうだ。この前舐めさせた飴には、確かに睡眠薬が練り込まれていた。健忘効果などまったくない、普通の睡眠薬がな。あたかも健忘効果があるように思い込ませる事で、俺との記憶を手放して元の暮らしに戻ってほしかった。
俺の中で、奏の存在はいつの間にか大きくなりすぎていたんだ。それを含め、全てをかなぐり捨てる気概がなければ奏も江戸も護れないと思った。しかし、それは間違っていた。すまいるに乗り込んだ時、投獄された時、脱獄した時、腹に銃弾を撃ち込まれた時、頭に思い浮かぶのはお前の顔ばかりだった。何度振り払おうとしても、何度打ち消そうとしても敵わなかった。そこでやっと気付いたんだ、俺自身が奏の存在に護られているという事にな。俺にとって、奏は必要不可欠だ」
「話戻るけど、プラシーボ効果にかかりやすいと思われてたわけ?私って」
「いや勝手に話戻さないでくんない?今ちょうど俺の見せ場なんだけど」
「そんなん留守電に吹き込んどいてくれれば後で百万回くらい聞いとくから。ねぇ、私ってそんなにプラシーボ効果かかりやすそうに見える?」
「ああ見えるね。どこがって?そのアホなところがだよ」
「……ふーん、あっそ」

 吐き捨てるようにそう言い放った奏は、パラシュートの残骸を払い除けながら立ち上がると桂に背中を向けてしまった。肩を小刻みに震わせる奏に対し罪悪感を抱いた桂は、狼狽しながら立ち上がる。恐る恐る伸ばされた桂の手が肩に触れる寸前、勢い良くしゃがみ込んだ奏は腹を抱えながら爆笑した。

「お、おい……怒ってるんじゃないのか?」
「え、何で?こないだの事は正直ちょっと怒ってたけど、もう気にしてないよ」
「いやそうじゃなくて、プラシーボ効果の事とかさ」
「そこ怒るとこだったんだ」

 張り詰めていたものが一気にときほぐれたかのようにひざまずいた桂は、なおも笑い続ける奏をそっと抱き寄せた。広い背中に腕を回した奏は、桂の温もりに身を委ねながらゆっくりと目を閉じた。

「ねぇ、桂」
「何だ?」
「さっき言ってくれた言葉、留守電に吹き込んどいてね」
「断る。そもそも朝比奈家、固定電話ないだろう。それに俺、お前の携帯の番号すら知らんぞ」
「あ、そっか。じゃあ今度、辰馬さんの携帯から吹き込んどいてよ」
「坂本と番号交換したの!?俺より先に!?」

 思いのほか食い付く桂の勢いに負けた奏は、抱き合った姿勢のまま苦笑しながら彼を見上げた。

「何かごめん……てっきり桂は携帯持ってないもんだと思ってた」
「あ、確かに持ってないわ。幕府の犬共に嗅ぎ付けられまいと携帯持たなかったけど、もはや今の情勢だと攘夷浪士など構ってられんだろうし明日ショップ行ってこようかな」
「携帯デビューおめでとう」
「ああ。そうだ、電話帳の一番最初には奏を登録しよう。一番最初に大切な者を登録すれば良い事があると、雑誌に書いてあったからな」
「それ完全に女子中高生向けの雑誌に載ってるおまじないだよね」
「なっ……ぶ、武士たる者まじないなどに頼るわけないだろう」
「はいはい。そういうところも、私にとっては愛おしいんだけどね」

 恥ずかしげもなくそう言った奏は、穏やかな笑みを浮かべながら桂の唇を奪った。奏の突飛な行動に驚きを禁じ得なかったものの、込み上げる愛おしさに頬を緩ませながらゆっくりと目を閉じる桂。どちらからともなく名残惜しげに離れた二人は、顔を見合わせながら照れくさそうにはにかんだ。



続く






back/Top
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -