▼ 「桜雨」
公園の並木道を二人で歩いている。
しっかりと、手を繋いで。
4月に入ったばかりだというのにもう桜が満開で。
薄紅色の花びらが俺たちの歩く道を彩っている。
明日の雨でほとんど散るかもしれない、って天気予報で見たから、
きっと今日が見頃なんだろう。
「名」
俺の手を引っ張る様に、少し先を歩いていた恋人の名前を呼ぶと、
つややかな髪を揺らして振り返り、立ち止まる。
その隣にようやく追いついた俺を見て、彼女は優しく微笑んだ。
「なぁに?京也さん」
「綺麗だ」
「うん、とっても綺麗だね」
「お前がだよ?」
「も、もぉ……また、そうやって…」
「何回言っても足りないからさ。言えるときに言っておかないと」
「……え…?」
たぶん、
俺たちが会える頻度は前より確実に減っている。
デビュー1周年を迎えて、満を持してのCDデビュー。
その準備に追われ、すぐにライブ。
バレンタインもクリスマスもライブだったから、
いわゆる世間一般の恋人にとって最重要イベントのときに限って、
俺たちはゆっくり時間がとれていない。
クリスマスパーティも、
バレンタインもホワイトデーも、
限られた時間の中、体力と気力もお互いギリギリで、それでも会いたい一心で、
時間を合わせてきた。
俺が忙しいのは一向に構わない。
トオルやケントが支えてくれるし、事務所のバックアップだってある。
でも、名はみんなにとってかけがえのない存在だ。
会うたびに、少しやつれていっているような気がしていた。
かなり無理させているに違いない。
「なぁ…覚えてる?」
「なに?」
「1年前も一緒にここ歩いたよな」
「……うん」
「俺、おまえの家にまだ入れてもらえなくて」
そう言って笑うと、不安げに揺れていた彼女の瞳もようやく細くなる。
「だってあのときは、私まだ、京也さんに遊ばれてるんじゃないかって思ってたもん」
「マジ!?」
「うそ」
「おいおい…」
本気でびびった。
当の本人はくすくすと笑っている。
びっくりさせないでくれ。
最初に会ったときから、ずっとゾッコンなのはこっちなんだから。
さらさらと枝の揺れる音。
風に煽られ、花弁が散っていく。
---失いたくない存在。
ぎゅっ、と繋いだ手に力を込める。
「京也さん?」
この手を離したくない。
来年もまた、こうしてこの道を一緒に歩きたい。
けど…
「名……家、行ってもいい?」
「……う、うん…」
けじめをつけるのは、
後にしよう。
もう少しだけ、
愛しいお前の傍にいさせてくれ。
俺は笑顔を作って、彼女の頬に手を添える。
名はきょとんとした顔で俺を見上げた。
栗色の瞳に映る俺は、どんな表情をしている?
白い額にキスを、ひとつ。
どうか、俺を忘れないで。
俺と歩いたこの道を、
俺と見たこの桜を。
「名はやっぱり可愛いな」
「もぉ!」
「ハハッ」
無理して作った笑い声に気付いただろうか?
彼女は少し照れた素振りを見せながらも、どこか表情を曇らせる。
きっぱりと断てばいいものを、
ずるずると引きずる想いを、
本当は手放したくないんだという想いを、
無意識に感じとってほしいと思ってしまっているのか。
完全に演じきれない。
俺もまだまだだな。
そんなことを考えていると、地面にいくつか染みができるのが見えた。
「あ…雨?」
「わ…マジで?予報じゃ明日じゃなかったっけ!?」
「いそご…!!」
俺の手をぎゅっと握り返し、名は走りだす。
瞬時に強くなった雨が濡らすその背中を追いかけた……
*
「はぁ…はぁ……ああ…冷たい…」
「いやぁ…はぁ…いきなり降りだすんだからな……」
名の家の中に駆け込み、二人で同時に息を吐く。
結構走ったから、息が上がって仕方がない。
二人とも服はずぶ濡れ、まさに濡れ鼠。
「濡れたなー…」
「早くシャワー浴びないと…!風邪ひいちゃうよ京也さん!」
「いや、俺はそんなヤワじゃないさ。レディーファースト。
名が先に。俺はあったかいココア作って待ってる」
にっこりと笑うと、
彼女は観念し、靴を脱ぐとばたばたと駆けて行く。
そして大きなタオルを持ってきた。
「せめて、これで拭いてて。あと部屋の中、暖房つけてきたから、あたたまってて」
「サンキュ」
「急いで浴びてくるからね!」
「ごゆっくりー」
彼女はまたぱたぱたと走り、脱衣所へと消える。
それを見届けてから、靴を脱ぎ、部屋へと上がる。
手渡されたタオルはふわふわで、いい匂いがした。
彼女がいつも使っている柔軟剤の香り。
それを胸いっぱいに吸い込むと、妙にドキドキした。
最後にこの部屋に来たのは1ヶ月くらい前だったっけ。
もう少し前か。
バレンタインライブが終わった直後だったっけな。
いつも会ってるのに。
近くにいるのに。
どうして会えない。
こんなに好きなのに、
どうして会えない。
俺がアイドルだから?
名が忙しいから?
いや、名はいつも俺を支えてくれてる。
メールをこまめにくれるし、
上手い料理でもてなしてくれるし、
休みだって俺に合わせてくれている。
答えは明白だ。
俺が彼女を苦しめてる。
辛い思いをさせてる。
彼女だって忙しいのに。
俺に合わせるてくれる名から、どんどん体力と時間を奪っているのは…
俺。
何も変わってない部屋をぐるりと見渡す。
ここで、俺たちは変わらなきゃいけない。
「しかし、濡れたなー」
ひとり呟きながら、服を脱ぐ。
雨は服にすっかり染み込んで、肌をも濡らしていた。
「名、風邪引かなきゃいいけど…」
外気にさらされた裸の胸が、ずき、と熱くなる。
名前を呼ぶだけでこんなに愛しいのに、これから俺は…。
「京也さん!お待たせ!早く早く!」
背中に掛けられた声。
振り返ると、部屋着に着替えた名が上気した頬で立っている。
すっかりあたたまったようで、肌が桜色に色づいていた。
ほぐれた表情にほっ、と溜息を吐く。
と、同時に思い出した。
あ、ココア。
「オーケー。あっ、ごめん、考えごとしててココア作り忘れてた…」
「そんな、いいのに!京也さんがシャワー浴びてる間に温かいスープ作っておくね」
そう、にこりと笑う。
その笑顔にまた胸が痛んだ。
*
脱衣所には新しいタオルと俺の服が用意してあった。
俺がいつ来ても大丈夫なように、と2人で買いに行ったものだ。
一緒に部屋着を選ぶという行為はなかなか刺激的で、
すっげー興奮したことを覚えている。
新婚さんみたいでさ。
下着も一緒に選んで、ってねだってみたら、真っ赤な顔して怒ったっけな。
「はぁ…」
シャワーを浴びた後、
用意してくれた服の袖に腕を通しながら深く溜息を吐いた。
彼女の使っている柔軟剤の香りがまた広がる。
もう結構着てると思うんだけど、ちっともくたくたじゃないのは、
彼女のメンテナンスのお陰だろう。
楽しかった想い出が頭を駆けて行く。
この後すぐ、俺たちの恋は終わる。
雨に散る、桜と共に。
「はぁ…」
再び溜息を吐く。
濡れた髪をタオルで覆い、部屋に戻ると、所定の位置に座る彼女の背と、
テーブルの上に載った湯気の立つスープが見えた。
「シャワー、サンキュ。生き返った!」
「…………」
「ん?」
「………京也さん、なんか変だよ?」
「………」
「溜息…ついてばっかり。……聞こえるんだから」
そういえば脱衣所のドアは薄く、中の音が漏れるから、
鼻歌も歌えないって名が言っていたことを思い出した。
だから、お風呂でシたいって言ったときは全力で拒否られたっけ。
「……名」
「……なに?」
「……………」
振り返る名の表情はこわばっていて、怯えているように見えた。
胸がはちきれそうに痛い。
シャワーで温まったはずの身体がどんどん冷えて行く。
心を閉ざすよう、拳をぐっと握りしめ、真っ直ぐ彼女を見つめた。
「別れよう」
「…………」
やっとの思いで出た声は酷く冷たく響いて聞こえた。
辺りの空気が、ずん、と重くなる。
彼女の表情は変わらない。
もう1度深く息を吸う。
残酷な台詞に、自分が耐えられるよう、覚悟を胸に。
「別れよう、名」
「…………」
俺の二度目の言葉に、名は顔を前へと戻してしまう。
背を向けられて、その表情がわからなくなってしまった。
「なぁ、名」
「私のこと…」
「………」
「私のこと嫌いになったの?」
「………」
「私に飽きたの?」
「………」
そんなことあるわけない!!!
そう、全力で叫びたかった。
その気持ちをぐっとこらえて唇を噛みしめる。
彼女のために、彼女にこれ以上辛い想いをさせるわけにはいかない。
「答えて…っ、…京也さん……っ」
言葉の最後が震える。
俯いた顔。細い肩が小さく震え、そこから髪が滑り落ちた。
こんなに近くに居るのに、一歩踏み出せば、触れられる距離にいるのに、
その背中がとても遠く見える。
俺の放った言葉が、まるでここに底の見えない奈落を作り出したかのよう。
「……名」
「……やだよ……京也さんと離れるなんて、考えられない…んだから……っ」
がくりと肩を落とし、両手で顔を覆っていよいよ泣き始める。
先程よりも強くなったらしい雨の音と共に、俺の耳を打つ。
悲痛な声に胸が軋む。
“他に好きな女ができた”
“お前に飽きた”
“お前が嫌いになった”
理由なんかなんだっていいじゃないか。
嘘を吐け。
1度だけ、たった1度だけ、嘘を吐けば、
きっと彼女はそれを受け入れてくれる。
カラカラに渇いた喉を潤すように唾を飲み込んだ。
さぁ早く、架空の理由をでっちあげろ。
どの嘘なら彼女を一番傷つけないで済むかなんて考えたって無駄なことはわかってた。
どんなことを言っても、彼女はひどく傷つくだろう。
でも、その傷が癒えた後に、
彼女の平和な日常があるなら、
彼女の幸せな未来があるなら、
俺が悪者になることなどなんてことなかった。
震える背中に声を掛けようとした瞬間、彼女は泣きじゃくりながら立ち上がる。
そして俺の方まで一気に駆けよると、腰に抱きついてきた。
髪に掛けていたタオルが、その衝撃で床へと落ちる。
「名…?」
「京也さんっ…!!」
困惑するばかりだった。
こんなに取り乱した彼女を見たことがなかったから。
いつも強くたくましく、そして優しい彼女は、
傷つきはしようが、さらりと俺の告白を受け入れると思っていた。
ぎゅうっ、と腰に腕を巻きつけ、胸に顔を埋める。
俺の乾ききっていない髪から、水滴が落ちて、彼女の髪を濡らした。
「私……京也さんと離れたくない…別れたくないよぉ…」
涙でぐちゃぐちゃになった真っ赤な顔で見あげてくる。
かあっ、と身体が熱くなった。
「名…」
「やだ…やだぁ……」
眉根を顰め、首を左右にいやいやと振る。
えぐっ、とノドが詰まるのか時折苦しそうに目を瞑った。
駄々をこねる子どものような仕草に、殺そうとしていた感情が溢れだす。
もう2度と触れないと心に決めていた華奢な身体に、
自然と手が伸びる。
「あーもぉっ!……名っ」
「っ……!?!?」
乱暴に彼女の後頭部を掴んで引き寄せ、唇を塞ぐ。
指に絡みつく髪はまだほんのり湿っていて、その温度差に、
俺の指がかなり熱くなっている事実を突きつける。
指だけじゃない、全身熱くてたまらなくて。
俺をこんな気持ちにさせる名に、全ての感情をぶつけるような激しいキスを続ける。
「ふっ…んっ……」
「っ…ぁ…む……」
驚いた名はただ俺の唇を受け入れるがままで、
苦しげに目を細める。
腰に回っていた小さな手はいつの間にか俺の二の腕を掴んでいて、
その手にぐっと力が入るのを感じた。
「名っ……名っ……んっ…」
「きょ、やさん……ぁ…っ」
一度唇を解放する。熟れた唇の距離が離れる。
二つの熱い吐息は重なり合い、
唇を離してもなお、深い部分でキスしているようなとてもイケナイ気分になる。
次の瞬間、瞳を潤ませた彼女が顔を反らした。
それどころか俺の唇を手のひらで塞いで、顔をぐいっと押し返される。
「だめっ!」
「名…?」
「……そんなキスされたら…また…おかしくなっちゃうよ…」
「名…」
「……最後だから?」
「?」
「最後だから…そんなキスするの……?」
大きな瞳に涙をいっぱいためて、
まつ毛が震えて、綺麗な瞳を隠すと同時に、大粒の雫が紅くなった頬を伝う。
唇を塞いでいた白い手首を掴んで退ける。
離れていくぬくもりに寂しさを覚えた。
「ああ、最後だ」
「……きょ…やさ…ん…」
俺の服を掴む手にぐっと力が入る。頬の涙の跡を、再び新しい雫が伝う。
しわくちゃになった袖とそれを握る小さな手が無性に愛しい。
「お前にそんな顔させるのは、最後だ」
「……え…」
「名を嫌いになることなんてあり得ないだろ」
問い返す間もなく、再び赤い唇を奪う。
涙で濡れたそこは塩辛くて、彼女を泣かせてしまったことを酷く後悔した。
それと同時に、もうそんな表情はさせない、守ってやりたい…そんな“らしくない”想いが溢れだす。
“らしくない、って言ったらお前はそれを否定したっけな”
俺のキスを受け入れている名の体温を感じながら、
あの日の出来事を思い出す。
またあの日のように手を取り合って、
陽のあたる道を笑いながら歩きたい。
周りの目がある以上難しいことかもしれないけど、
諦められる気はしなかった。
たっぷりと口づけてから唇を解放すると、
名はなんとも言えない表情をしている。
困っているような、でもどこか期待しているような、複雑な思いが渦巻く瞳。
改めて彼女の背に腕をまわして、ぎゅうと抱きしめる。
「別れない。絶対離すもんか、名のこと…」
「じゃあ…どうしてあんなこと…」
「俺と付き合うことによってやつれてく名を見ているのが辛かった。俺と…離れれば、そんな辛い思いをさせることもないって、そう、思って…」
「………もぉ!」
名は俺の胸を小さく叩いた。
それからごしごしと涙を拭う。
さっきまで涙でぐちゃぐちゃだった自分を恥じるように、その顔を胸に埋めた。
「怖かった……だって顔が真剣だったから…」
「お、伊達京也、ついに芝居の道にも進めるかな?」
「もぉ〜!!ホントに怖かったんだからぁ…」
再び泣きだしそうな声を詰まらせ、額を胸へと擦りつける。
「ハハッ、ごめん、って」
「じゃあ…ずっと一緒にいてくれる?」
「……お前が嫌がっても離さない、ずっと」
頭を優しく撫でると、そっと顔をあげる。
涙の跡がすっかり消えた紅潮した頬。
少し腫れた目が俺を見つめる。
「ちなみに今夜も離さないから、宜しく」
「……!?」
「…おかしくなっちゃえよ」
にやりと口角をあげると、また怒りだしそうな表情。
俺は誤魔化すように、笑顔を作って、彼女の頬に手を添える。
すると、名は静かにまつげを伏せた。
再び重なる柔らかい唇。
発した言葉とは裏腹に、優しく啄ばんで愛しさを伝える。
鼻に掛かったような甘えた吐息が耳を擽る。
いつしか雨の音は聞こえなくなっていた。
春の雨は2人の激情を攫って、薄霧へと変わったのだろう。
来年の春も、一緒に見に行こう。
名の唇みたいな淡い薄紅色した桜を。
2014.4.6
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