ときレス | ナノ


the secret in Infirmary(音羽/微裏)

「音羽くん?」
「…………」

保健室のドアをそっと開けて中を窺う。
声を掛けてみるも、返事はない。

これは予想通り。

ベッド同士を区切る為に取り付けられたカーテン。
閉まっているのはひとつだけ。

ふたつ分の鞄はちょっと重くて、足元がふらつく。
目的の場所へ近づきながら、周囲を見渡すが、養護教諭は不在のようだ。

この部屋は、いつ来ても独特の香りがする。
病院っぽい、というか、ツンと鼻をかすめる刺激臭。
消毒薬の香りだろうか。

外からは、野球部の掛け声と、金属音が響いている。
窓から差し込む暖かなオレンジ色の光は、黄昏時を示していた。

「音羽くん、いるんでしょ?」
「…………」

相変わらず返事はない。まだ夢の中だというのだろうか。
閉まっているベージュ色のカーテンに手を掛けてそっと揺らすと、ようやく彼の姿を見つけることができた。

「音羽くん」
「………ん……」
「もう授業終わったよ?」
「う…ん……?」
「起きて?」

二つの鞄を傍らにおろし、そっとベッドに近づく。

真っ白いシーツの上には音羽くんが寝転がっていた。
…というよりは、実際眠っていたのだろう。
彼が声を発してから、長いまつげを震わせて眠け眼でこちらをぼんやりと見上げるまでに、数分を要した。

「やあ、きみか。おはよぉ…」
ふぁ…と口を開け、うっすら目に涙を浮かべる姿まで様になる、謎の美少年。


誰が言い出したかはわからないけど、彼は「謎の美少年」と言われている。
「音羽慎之介」という人物については、基本的なステータス以外はすべて謎。
学校に来ているのか、いないのかもあいまいで、あまり授業に出ている姿を見ることもない。
しかし、成績優秀。試験では常に上位をキープ。
教師が頭を悩ませているのは、出席日数、そして掴みどころのないふわふわとした彼の性格だけだった。

「もう授業終わっちゃったよ?」
「あれ。そんな時間なんだ」
目尻の涙を、服の袖で拭うと、パチパチと瞬きをして、驚いたような表情をした。

私は小さく息を吐いて、傍らの鞄に目線を移す。
「カバン持ってきたよ」
「先生に言われたから?」
「音羽くんが困ると思ったから。私が持ってこなかったら、置いて帰っちゃうんでしょ?」
「ふふ。よくわかるね。ねぇ、座って?それとも一緒に寝る?」
「寝ません」
「なんだ。残念」
彼はさして残念でもないように小さく笑った。
私はその反応にくすぐったい感情を覚えながら、彼が身体をずらして空けた場所に腰掛ける。


*


なぜだかよくわからないけど、私は彼に懐かれている。
今朝も「きたよ」と、一言だけ彼がメールしてきたから、彼が登校している事実を知ったのだ。
授業は1限めから欠席。お昼休みにも現れず、結局放課後になってしまった。
誰もいなくなった教室で、彼のロッカーを開けると、鞄がぽつんと置かれていた。
何も見なかったことにするのも気がひけたし、彼が登校していることを私に伝えてきたことを考えると、この鞄を届けた方がいいのかなと。そう思ってここにやってきた。


……なんていうのは言い訳。
本当は彼に会いたかったから。

朝、メールをくれたのも、
彼が私に会いたがってくれてるんじゃないかと、都合よく解釈してしまった。
それくらい、私は彼に夢を見ている。

彼は私を特別扱いしてくれるから。



「またお菓子こんなに持ち込んで…」

彼はお菓子を抱え込むようにして横になっていた。
お菓子に埋もれている美少年はとても画になる。

「よくわからないけど、お昼休みに知らない人がきて置いていったんだ」
「それ…音羽くんのファンの子じゃない?」
「そうなの?眠かったからよくわからないや」
「もぉ…」

彼が登校して居るときはたいてい保健室にいるから、ひとたび見つかると、その情報は瞬く間に広がる。
そしてこのように、甘党の彼に差し入れを持ってくるファンが少なくない。

「そんなに甘いもの沢山食べたら虫歯になっちゃうよ?」
「だいじょうぶ。ん…よいしょ…」
咎める私の言葉をやすやすとかわし、彼は身体を起こす。


ベッドに腰掛けた私と、ベッドで身を起こした音羽くん。
距離が途端に近くなった気がして、目眩がする。
夕陽が、彼の柔らかな髪を燃えるような色で染め上げ、翳った彼の表情がいつもと違って見えてしまう。


とても、ヘンな感じ。


不意に、ベッドに付いていた私の手の上に彼の大きな手が重なる。

高まる緊張感。

聞こえていた部活動の音がみるみるうちに聞こえなくなっていく。
代わりに、心臓の音が聴覚を支配していく。

「ねぇ」
「………な、なに?」
平静を装っても声が震えている。

見慣れた彼の顔が全然違う人みたいに見えて怖くなる。
柔和な表情は変わらないのに、視線が胸に突き刺さる様に獰猛で、怖くて動けない。

「舐めて?」
「えっ…」
「僕の」
「……えっ?」

重なった手に力が込められて、びくりと身体を震わせた。
それどころか、彼は手の甲に綺麗な指をそっと這わせてくる。

「……ダメ?」
眉根を寄せて、少し哀しげな表情を作ってくる。
混乱して頭が爆発しそうだ。

舐めて!?
僕の!?

「美味しいよ?」
「えっ、あの…私……そういうことは…あまり…わからな」
「要らないの?僕のアメ」
「………はい?」
「はい♪」
さっきとは打って変わって無邪気な表情の彼が、棒つきキャンディーを差しだしてくる。

「黄色いからたぶんレモン味かな?」
「………音羽くん…」

野蛮な想像が駆け巡った私の頭。
悪い妄想を振り払うように、二、三度、大きく頭を振る。

そして大きく溜息を吐いた。

「あれ?その顔。もしかして他のこと想像した?」
一気に脱力した私を見て、見透かしたように彼はくすくすと笑う。
「もぉ!何かと思ったよ!」
「僕は舐めたいなぁ」
小首を傾げて、甘い声を出す音羽くん。


もう引っかからないからね。
「ざーんねん!私はアメなんて持ってませんから」

ふつふつとわき上がる小さな怒りをそのままに、あからさまに唇を尖らせてそっぽ向いてやる。
「あぁ……きみのアメだなんて言ってないよ?」
「じゃあ、チョコ?グミ?お菓子は何も持ってませんっ!」

ひとりでドキドキした私が馬鹿みたいじゃん!!
あー…もう…損した。彼を置いてさっさと帰ってやろうかな。


彼の手を振りほどいて、立ち上がろうとした瞬間、
「もぉ…違うよ」
その手を更に強く掴まれ、引き寄せられる。
「きゃっ…!」

支えを失ってバランスを崩した身体は彼の腕の中に倒れ込む。
目の前には彼の綺麗な瞳。

いつものにこやかな笑顔とは違う、悪魔のような頬笑みがそこにあった。
「ここ♪」
言葉を発する前に、唇を塞がれる。
柔らかな唇が私のそれを愛しげに食み、そして薄く舌を舐め取られる。
優しい雰囲気の彼の思わぬ強い力に身体は思うように動かせず、パニック状態だった。
彼が最後に口にしたのは、きっといちごのお菓子。
甘酸っぱい味がする。

「はぁ…やっぱり美味しい。ずっと美味しそうだって思ってたんだ」
少しだけ唇を離し喋る彼。甘い吐息がまつ毛を震わせる。

「きゅ、急にこんなこと…!」
「だめだった?」
「…………」
「だめだったら、あやまる……」
「……だめじゃない…」
「ふふっ、よかった。じゃあ、せっかくだから飴、はんぶんこしよっか」
「…えっ!?」

抱きしめられたまま、彼の行動を見守る。
ポケットから小さな飴を取り出した彼はそれを自分の口に放り込んだ。

それってもしかして…


「あの、音羽く……むっ…ん…ふ……」
数秒前の予想があっという間に現実になる。
重なった唇。蠢く熱い舌から小さな飴を渡される。
「ん…っ…」
ちゃんと味わいたいのに、彼の舌は出ていくことなく、
私の口内を動き回る。
この味は…ライチ?…いちご?……ブルーベリー?
「…っ…ふ」
「っ…ぁ……んっ…」
考えているうちに飴は消えてなくなった。
いや、考えて…なんていられなかった。
彼のキスはイメージと裏腹に情熱的で野性的で、意識が全部持っていかれてしまう。
私の身体を離さんとする意思が伝わってくる大きな手、
頬をくすぐるふわふわの髪。
時折、息ができなくなるくらいの熱いキス。

謎の美少年のベールがひとつずつ剥がれていく。
捉えどころのない温和な少年じゃない。
彼はきっと…

「ぁ…はぁ…ぁ…ん……はぁ、はぁ…」
解放された唇からは、苦しげな声が漏れた。
ようやく与えられた新しい空気を必死に取り込む。
視界が滲んで、彼の表情がよくわからない。
「ふふっ…可愛い。ねぇ、いまの何味だったでしょう?」
「はぁ…はぁ……わ、わからなかった……」
「えー。じゃあ、もう1回」
「え、ええ!?も…しかして、わかるまで…」
「そう。続けるよ」


彼はにっこりと笑って、新しい袋の包みを開けた。

勿論、私に見えないように。



2014.6.14.

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