Novel
「どうしてそこにいるの」
金糸揺蕩う少年が聞く。
「ここしか居場所が無いから」
金糸揺蕩う少女が言う。
何の事はない、暗くもなく明るくもない海の底、忘れられた街で2人は話す。
(何の事はない、苦楽も無く上がりもしない膿の其処、忘れたことも忘れる街で僕らは話す。)
(いつから居たのだっけか)
(よく思い出せない)
ガスマスクから泡が漏れる、ごぽりごぼりと不快な音を立てて。
彼らは海面まで行けるのだろうか。少年は限られた視界から二酸化炭素を目で追った。
どちらにせよ君には確かめられないさ。
少年の隣、シュレディンガーさんの家の飼い猫が欠伸をしながらそう呟く。
「当たり前でしょう、この世界に確かめられる事なんて一つも無い」
少女は真っ直ぐに少年を見据えてそう言い放ったがしかし、先程のはシュレディンガーさんの飼い猫の言葉だ。少年はすぐに弁解しようと喉を震わせたが、漏れるのは無様な泡と呼吸音。ガスマスクが邪魔をしてるから。
(じゃあ僕はさっきどうやって)
脇に挟んだトルソーを抱え直して、彼女は少しだけ憤慨して目を逸らした。
「嘘は嫌い」
(僕もだよ)
(でもさっきのは本当に僕じゃなくて、)
猫なんだ、と、気泡を漏らすことしか出来ないガスマスクの王子は、最後には話すのを諦めて思うだけに留めた。
賢い良い子だね、と、シュレディンガーさんの飼い猫が居たそこに成り代わるように鎮座する人魚が彼を褒める。
パリパリと小気味良い音を響かせながら歩く不機嫌そうなお姫様がこちらへ。
敷き詰められたダイオードが彼女の足裏による柔らかな衝撃で割れ続ける。
歩く度キラキラと舞う破片で細く白い足が血塗れなのをぼんやり眺めて、猫の肉球は無事だろうかと的外れな心配をする彼は己の足も傷だらけなのに気付かない。
小さな音を立てて唇が触れ合った。
いつの間にか距離を詰めていた彼女と彼はどうやらキスをしたらしい、少年はこれまたぼんやりとガスマスクの存在を気にかけた。
(まぁどうでもいいか)
「それじゃまた明日」
「うん、また後で」
噛み合わない会話をしてから2人は目を瞑る。重力と、頭に乗っていた王冠が朽ちて落ちるのを、トルソーがずるり溶けて混ざるのを、確かに感じながら。
彼は目を開ける。開かない。でも見える。
どうして、そう喋ろうとする。喋れない。でも聞こえる。
あぁ、そうか、彼女は彼だものね。
呟く人魚に蝸牛が同意した。海水に蝕まれる蝸牛は余命たったの603年。悲しくなりながら紅茶を啜りながら人魚の涙を拭いながら砂糖を探しながら少女を起こしてやった。
見えた灰の扉と白い壁、コードで繋がる2人の頭は同じひとつ。
左手と右手は一生離れず、ダイヤモンドの指輪が縛りつけて許さない。
ここは深海シティアンダーグラウンド。
変わらず煌めくダイオードの星の下、少女と少年はいつまでも少女と少年のまま沈む。