恋をしている



思えばこの日は、いつになく虫の居所が悪かった。

「……ったく、厄日だな」

左之助はぶつぶつと呟きながら、夕暮れに染まる家路を急いでいた。

不機嫌な理由は、数日前から続けていた仕事に不備があり、そのせいで怪我人まで出たことや、帰る途中で出くわした母子連れがごろつきに絡まれているところを見かけて、胸糞悪くなったということにある。
母子連れの一件は、左之助自身が間に入って仲裁―――いや、ごろつきを叩きのめして退散させたのであるが、そういう話は日本から遠く隔てたこの地でも良くある話だと考えると、左之助の胸に暗澹たるものが広がった。
しかし、現実には手を広げれば何もかもを守れるなどというわけでもなし、彼は胸中に広がる暗い考えを振り払うと、早足で我が家へ急ぐ。

自宅には、可愛い妻が彼の帰りを待っているはずで、その事を思うと、自然と左之助の足は軽くなる。
明日は久しぶりに休みが取れるわけだし、千鶴との時間も存分に過ごせる。共に町に出るのもいいし、家でゆっくりするのも案外気楽でいいのではないか。そんな風に、男は明日の事に思いを馳せていたのだが―――

その後、家にいた千鶴の姿を見た左之助は、困惑を覚える事になる。



「左之助さん、おかえりなさい」
「……………おう、ただいま」

出迎えた千鶴からは、逆光になる左之助の顔は見えなかったはずだ。帰るなり渋面を作っている己の顔を見たら、この娘は一体どう思うことだろう。

しかし直前に見た光景は勘に触るもので、それについて左之助はどうにも取り繕えそうにない。
自宅の玄関で、左之助と入れ違いに出て来たのが、若くて割合にさっぱりした男だったこと。そしてそれを見送る千鶴の笑顔が、なんだか妙に可愛いらしく見えて―――左之助のささくれていた胸にまた一つ、影を落とすのだった。
心に浮かぶのは、自分でも扱いに困る、どす黒い感情。有り体に言えば、嫉妬だ。

「……………何だ、意外と誰にでもああいう顔、出来るんだな」
「え?」

口から出たのは、自分でも驚くほどに棘のある言葉だった。良く聞こえなかったのか、千鶴が怪訝な顔をするのが目に入る。それでも、いつものように笑える気にはなれなくて、替わりに皮肉げな笑みが口元を歪ませる。逆光のせいで、彼女からは気づかれなかったのは幸いだった。
続けて口走った言葉は、自分でも嫌になるくらいに素っ気ない響きになった。

「わりい、ちっと疲れちまってよ。晩飯まで軽く一眠りしてくるわ」
「そ、そうなんですか?じゃあ準備が出来たらお呼びしますね」

千鶴が戸惑いがちに左之助を見送ると、彼は廊下の、彼女に見えない位置まで進んだところで、がりがりと頭を掻いた。

「……くそ。振り回してどうすんだよ」

これではまるで、餓鬼の八つ当たりだ。一番大事にしてやりたい相手に向かって、何をやっているんだと、左之助は嘆息した。上手くいかない今日の自分が、酷くもどかしい。


その後、夕餉を終えた左之助は、改めて千鶴と向かい合っていた。

「さっきは、変な態度取っちまって、悪かったな」
「いえ」

ばつの悪い顔で左之助が謝れば、千鶴もまたぎこちなく頷きを返す。
まだ新選組に属していたころ、泣きながら出て行こうとした千鶴のことが、未だに心の奥に引っかかっている左之助は、早々に心の裡を彼女に見せることにしている。
しかし、

「でも、どうして?」

という彼女の囁きには、黙るよりない。

「あー……つまりだな、」
「?」

こちらを見つめる飴色の瞳は、あくまでも純真そのもの。その仕草に、左之助はさらに言葉を詰まらせる。
説明に困った彼は、気になっていた一件を逆に問いかけてみた。

「帰ってきた時にすれ違った奴、誰だったんだ?」
「あの人は、近所のお店の方ですよ」
「それだけか?」
「ええ」
「ふーん…………」
「…………えっと、もしかして、やきもち、ですか?」
「………まあ、そんなところだな」

憮然として、彼女から視線を外す。
柄にもなく頬に血が集まるのを感じた。

「お前が、他の男にあんまりいい顔してるからよ」
「あの、でも、私には、左之助さんだけです」

…そんなの、分かり切ってる。
上擦った彼女の声を聞きながら、左之助は内心で唸っていた。
身も心も自分だけのものだと、もう幾度も確かめたはずのくせに―――この女の笑顔が、他の男にも向けられると思うと、心を沸き立たせずにはいられない。一体己は、どれほど欲をかいているのだろうか。不意に露呈された独占欲とも呼べる感情に、自分でも戸惑うばかりであった。

「左之助さん…」

千鶴は、しばらく何事かを考えていたようだが、やがて、ためらいがちに左之助の肩に手を置いた。
そして―――

「ちづ、る…?」

ふんわりと、彼の頬に温もりが押し当てられる。その感触があまりに優しかったので、左之助は言葉を失った。
ついでに、毒気も奪われて、阿呆のように目の前の娘を見る。
彼女といえば、自分がしてしまったことに今更照れたようで、左之助と目を合わせようとしない。

「………その、嬉しかったんです」
「何がだ?みっともなく妬いただけだろうが」

言葉の意図を計りかね、千鶴の小さな身体を引き寄せて、その瞳を覗き込む。くすぐったそうに身じろぎするが、逃がしてはやらない。しばらくそうしていると、まるで定位置のように彼女の身体が落ち着いた。
まだ照れの残る顔で、千鶴がぽつりと囁く。

「左之助さんは優しい人です」

言葉を探すように、小さな唇が動くのを、左之助はじっと見つめている。

「ずっと、傷つかないように私の事を守ってくれて、困らせないようにしてくれるのが分かるから……だから、みっともないだなんて、そんな事」
「……お前は、すぐそうやって俺を甘やかすよな」

苦笑まじりで千鶴の身体を抱き込めば、彼女の目元が幸福そうに震えていのが見えた。それだけで、先ほどまでの暗い気持ちが、どこかに流れていくのを感じる。己の心の単純な造りに、笑みを深めるしかない。

「そんなだから、閉じ込めたくなっちまうんだよ」
「構いません。だって、大好きな人、だから」

見上げてくる瞳に、どうしようもないくらいに愛しさを覚える。頬に掌を当て、その柔らかい唇に口付けを落とす。先ほど彼女から送られたものと、同じくらいに優しければいいと思った。千鶴の甘やかな呼吸音が聴こえる。

「好きだ、千鶴」

言葉にすれば、頬を染めた千鶴が、花が開くような笑顔を見せた。それはおそらく、自分だけに向けられる微笑みだ。左之助は今度こそ、言葉を失う。

なあ、気付いてないかもしれねえが、俺の心を揺らすのも、満たすのも、お前だけなんだぜ。
だけど、何でもかんでも、嬉しそうな顔で受け入れるのはやめてくれ。
つけ上がりそうで、正直困っちまうんだ。

目眩がしそうな幸せと、同じくらいの戸惑いが、常に共存している。
千鶴とならそれも悪く無い日々だと、左之助は彼女の黒髪に顔を埋めた。


end.

2010/11/04

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