きせきのあしあと



“そのような事をは侍女にでもやらせればよいのだ。お前は飯を炊くために連れてきたのではないのだから”

西の鬼の里に着いてきたとき、炊事をしようとして、風間に止められた事があった。
しかし、幼い頃から家事をこなすことで一日の大半を過ごしていた千鶴からしてみれば、それらを奪われれば生活のリズムが乱れるのは当然のことだったので、頑なに譲ろうとしなかった。

“楽をさせてやると言っているのに、相変わらず変わった女だ”

風間はそう言って呆れ顔をしたが、今となっては、それで本当に良かったと思っている。

「今、帰った」
「おかえりなさい、風間さん」

今晩の帰宅はずいぶんと早かったので、千鶴は顔を綻ばせた。嬉しそうに笑う彼女に、風間の表情もこころなしか緩んでいる。

「ちょうどいま、ご飯が出来たところなんです。召し上がりますか?」
「そうだな、もらおうか」

彼女としては、出来たての温かい夕食を風間に振る舞う事ができるので、より上機嫌になる。

風間と過ごすようになってからしばらくは、彼の食生活にまず驚かされた。ほとんど酒しか呑まない日が多く、そうでない時でも、魚や野菜を適当につまむだけである。
元来、食事をする事への執着心が乏しいようであったが、それで満足に栄養が摂れているかは疑問だった。
心配した千鶴が、風間の食事を毎食こしらえるようになったのだが―――

「どうですか?」
「……まあ、悪くはない」
素っ気なく言いつつも、今日もしっかりと出された料理に手を付けている。
それが、素直でないこの男の、遠回しの賛辞であることを知ってからは、何だか暖かい気持ちになるのだった。

「ところで、今日の合議は何か変わったことはありましたか?」
「ああ、喜べ。婚儀の日取りが決まった」
「え……」
「春先になる」

その言葉で、酌をしようとしていた彼女の手が止まる。きょとんとした顔で風間を見返すと、凪いだ表情で視線を受け止めていた。

「何だ、今さら驚くことでもあるまい」
「そ、そう…ですね」

もともと風間と婚姻する相手としてこの場にいるのだから、遅かれ早かれその話は出るはずであったが―――改めて日取りを聞かされると、心臓の鼓動が速まってしまう。

「どうした、奥方どの。顔が赤いようだが」

喉の奥でくく、と笑いからかってくるところは、昔の風間と変わりなくて、千鶴はそっぽを向いた。やっぱり、この部分は、少したちが悪い。

けれども、積み重ねる日々の中で、見えてきたものは沢山あって、それらが彼女の背中を優しく押している。
だから―――もう、答えを出してもいい頃だ。

「風間さんは、私の事が好きですか?」
「…………………気に入っていなければ、妻になどせぬ」
「私は、あなたのことを、とてもとても好きになりました。たぶんこの世界の誰よりも、あなたが大切です」

風間が目を見開くのが見えた。

「…だから、私を、あなたの隣にずっと置いて下さい」

微笑みながら、彼女にとって一番大事な願いを、風間に告げた。
他愛のない言葉かもしれないが、出来れば、彼がこの先いつまでも、覚えていてくれればいいと思う。

ややあって、男が感慨深げに口を開いた。

「そうか…………実に長かった」
「…す、すいません。その、お待たせして」
「だが、まあ…いい返事を聞けて満足だ」
「そうですか。…って、ちょっと風間さん、近くありませんか?」

千鶴が気恥ずかしさのあまり俯いているうちに、離れて話を聞いていたはずの風間が、いつの間にか彼女のすぐ隣に立っていた。それも、吐息のかかる位置である。

「ん?我が妻がようやく心を据えたのだ。一つどのような面白い顔をしているか、見てやろうと思ってな」

そのまま、顎を持ち上げられた千鶴の顔に、朱が上った。

「あ、悪趣味ですよ、風間さん……」
「そうでもない。お前を、選んだ」

高い位置から覗き込んで来る赤い瞳が艶を含んでいて、千鶴の胸の深い部分がきゅう、と甘く苛まれた。意地悪で遠回しなことばかり言う彼の癖は、この先も変わらないのだろう。

ただ、昔のように怖くないのは、きっと心を通わせたせいだと、千鶴は嬉しく思った。

ずっと遠くにいた人が、今はいちばん近くに寄り添っているということ。それはたくさんの時間と、お互いに向ける想いが結ぶ、奇跡だった。
そしてその奇跡は、いま、彼女の手の中にある。

「………大好きです」

愛しいと思う男の腕に、宝物のように抱かれながら、千鶴はもう一度、愛の言葉をささやいた。


end.


2010/10/24

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