輝かしい青春時代の象徴であり、そして墓場だった。

 電車から眺める景色は、故郷を離れたあの頃と変わらない。母親に連れ立たれて同じように電車に揺られていたのは、八年も前のことなのに。
 逆再生しているかのような流れる風景から目を逸らし、鞄からフューチャーフォンを取り出した。
 表面の塗装が剥がれてすっかりぼろぼろになったそれは、初めて携帯電話を買って貰った時から変えていない。付けているイルカのストラップは元は水色だったはずなのに、今ではその痕跡さえ残っていない。
 アドレスからこれから会う人の名前を呼び出そうとして、やめる。今日来るということは事前に伝えてあるし、もし家に本人がいなくても鍵を隠している場所は知らされているから、この寒さの中待たされることもない。
 ――それに。
 ゆかりはストラップの紐を弄りながら思う。家主が家にいないほうがこちらとしても気が楽だ。今更どんな顔をして会えばいいのか分からないし、相手のことを何て呼べばいいのだろう。
 無条件に愛を与えてくれていたあの人とは変わっているだろう。八年もの間、会うどころか連絡の一切も取っていないのだ。接し方もぎこちないものに違いない。
 ゆかりももう、あの頃の彼女ではない。
 絶大な尊敬と愛情を向けていた人にさえ、本当は会いたくなどない。誰も彼女を知らない土地に行きたかったが、貯金もない彼女に頼れる伝手は一人しかいなかった。
 たいした働き口も進学先もないこの町に留まっている小学校時代の同級生はきっと数えるほどしかいないだろうし、たとえ再開しても今の彼女を見てゆかりだと気づくこともないだろう。
 彼女がホームに降り立つと、電車の扉は音を立てて閉まる。乗客のいない電車はゆかりを置いて緩やかにホームから遠ざかっていき、やがて青々とした風景に融けていった。
 駅員のいない改札口を通り過ぎ、記憶だけを頼りにかつての我が家への道筋を辿る。
 途中の家屋に植えられている金木犀の煙るような香りにうっとする。あれはたしか、お菓子が好きで堪らなくてお菓子作りもするようになった女の子の家だ。彼女自身はつねに甘い匂いを撒き散らしていて、金木犀はその子のことを彷彿とさせる。
 ゆかりは不意に過ぎった記憶を振り払うようにかぶりを振った。
 思い出したくもない。過去の記憶など、ゆかりにとっては煩わしいだけの存在だ。
 小学校卒業と同時にこの地を離れると告げた彼女との別れを惜しんでいた級友で、今も連絡を取っている者はいない。それは彼女が望んだ結果であるし、彼等が都会へ引っ越した友人と疎遠になってしまうのは仕方ないことだ。
 もう戻ってくることはないだろうと思っていた。
 ここでの思い出が忘れてしまいたい苦い記憶であったなら、どんなによかったろう。確かに辛いことも悲しいこともあったが、あの頃は彼女が最も幸せで輝いていた時だった。
 だからこそ記憶から抹消してしまいたかった。そうすれば、彼女は不幸を不幸だと思わず生きていくことができただろう。
「あれ」
 間延びした、なんだか聞き覚えのあるような話し方の声が聞こえてきて、何気なく振り返る。
 ふじさき花屋と書かれた前掛けを着たゆかりと同年代の青年が、不思議そうに彼女を見つめていた。無遠慮に注がれる視線に彼女がたじろぐと、青年はあっ、と驚いたように目を見開く。
「もしかして、青木?」
 それが父親の――小学校時代までわたしが名乗っていた――苗字であると気づくのに、ほんの少し時間を要した。
 ふじさき、と音もなく唇を動かす。
 蓋をしていたはずの中からとめどなく溢れ出す記憶の渦で楽しそうに笑う花の香りを纏った少年が、目の前の青年と重なる。
 そうだ、なぜ思い浮かばなかったのだろう。どこかぼんやりとした、マイペースな少年。家が花屋で、よく手伝っているのだと言っていた。
「ちが、う」
「あれ、人違いだった……でしたか。すみません、ちょっと知り合いに似ていたもので」
 彼は気まずげに首を掻きながら謝る。あー、と視線をさ迷わせ、次の言葉を探しているようだった。
「違う」
 かぶりをふり、自分は何を言いたいのだろうかと戸惑う。
 誰にも会いたくなくて、けれど手持ちの金がなく行く当てもなかったため、かつての父親に助けを求めたのだ。ゆかりの事情を知っているらしい父親は、何も聞かずに彼女を受け入れた。
 母親が別れた夫に連絡をするはずがないから、おおかた祖母が教えたのだろう。母親にとって大切なのは今の家族だ。そこにゆかりは入っていないことに絶望するには、彼女は諦めすぎていた。
 目の前の青年に、自分がゆかりだと認めてどうしようというのか。知られたくなかったはずだ。誰にも気付かれずひっそりと過ごして、いずれそのままこの地を離れるつもりだった。
「今は青木じゃなくて、東雲、だから」
 本当はどちらで呼ばれようが構わなかった。だけど彼女はもう『青木ゆかり』ではないのだ。八年前にそれを選ばなかった彼女に、その名で呼ばれる資格はない。
 ふぅん、と藤崎は呟き、それからきょとんとした表情を浮かべ首を傾げた。
「あれでも、東雲じゃなかったよなぁ。もしかして結婚してるの?」
「わたしじゃなくて、親がね」
 合点したように頷いた彼は、そりゃそうだよな、とゆかりの左手を見る。その薬指には当然ながら銀色に光る指輪など嵌められていない。
 これからもないだろう、とゆかりは思う。彼女にはその資格がないし、何より誰かを愛することはもうない。一心に誰かを見つめては頬を染めて、たとえ挨拶でも声をかけられただけで舞い上がり、その日はずっと幸せな気分でいられるような、そんな気持ちを抱くことはありえない。
 そんな気持ちは忘れた。忘れてしまった。
 ゆかりにとっての『誰か』が、間延びした喋り方が特徴の少年だったことも、今となってはどうでもいいことだ。
 前髪を目が隠れるほど伸ばし、黒縁眼鏡をかけた彼女に、八年前の明るい少女の面影はない。どこからどう見ても暗い女であるというのに、彼は彼女の名を当ててみせた。
 どうして、気付いたりしたのだろう。
 気付く要素など、どこにもないはずだ。それが嬉しいことなのか悲しいことなのか、ゆかりは頭を過ぎった思いには気付かない振りをした。
「東雲はいつまでここに?」
 それは、と言い淀む。いつまでだろうか。俯いていると、あ、そうだ、とのんびりした声が降ってきた。
 顔を上げると、彼はきょろきょろと店内を見渡して何かを探しているようだった。
 ぼんやりと眺めていると、彼はばたばたと店の奥に消えていったかと思うと、右手に何かを持って戻ってきた。
「はい、これ」
 戸惑いながら手を差し出すと、ちょこんと乗せられたのは小さな鉢だった。
「知ってるかな。サボテンって刺々しいイメージだけど、綺麗な花を咲かせるんだよ」
「花、咲くの?」
 驚いて彼を仰ぎ見ると、うん、と頷いた。
「めったに咲かないし、咲いても一日しか持たないんだけどね」
 ふうん、とゆかりは手元のサボテンに目を落とす。
 綺麗という言葉とは程遠いようなサボテンから、どんな花が咲くというのか。ゆかりは純粋に興味を持った。
 触れてしまえばこちらが傷付いてしまいそうな鋭さを持った針が、けして触れさせないとばかりに威嚇している。それは相手を傷付ける剣であり、身を守る盾であり、遍くすべてを遠ざけているようでもあった。
 刺を纏うこのサボテンが今のゆかりのようで、藤崎はプレゼントをあげただけで他意はないだろうが、まるで批難されているような気がしてしまう。
 今も何かを話し続ける藤崎の声を聞き過ごしながら、緩やかに目を瞑った。



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