「凜、いちご食べないの?」
 ショートケーキの上に乗っている真っ赤な果物を避けながら食べるぼくを、葵は物欲しげに見つめた。食べないなら、ちょうだい。瞳は何よりも正直に語っている。
 葵のお母さんがおやつにと持ってきたショートケーキは、すでに三分の一ほどになっている。果実の周りを削るような食べ方だったから、ぼくの皿の上には不格好な姿のケーキがぽつんと乗っていた。
 対する葵はいつの間にかケーキを平らげていて、氷の入ったジュースはグラスの半分ほどまで減っている。
「いいよ、ぼくはいらないから。葵にあげる」
「ほんとう!」
 やったー、と歓喜の声を上げ、ぼくの皿からいちごを奪う。危ういバランスを保っていたケーキは、華やかさを失ったことを歎いているかのようにぐらりと倒れた。
 葵が幸せそうに果実を口に運ぶのを横目に見ながら、見向きもされない哀れな残骸をフォークで突いた。



 大学から帰ってぼくがはじめにすることは、冷蔵庫を物色することだ。
 母さんに頼まれて昨日買った缶ビールは一ダース分まるまる入っている。カレンダーを見て、多分三日後にはなくなっているだろうとあたりをつける。その前にもう一ダース買いだめしておこうか。
 小学生の頃、それもまだ葵と遊んでばかりだったころは、冷蔵庫には必ずプリンやらケーキやら二人分のおやつが入っていた。あの頃はもっとごちゃごちゃしていたのに、今や最低限の調味料と缶ビールくらいしか入っていない。
 室温を28度に設定し、リモコンでチャンネルを変える。この時間帯は特に興味をそそる番組はないから、可愛いアナウンサーがいた最初のチャンネルに戻した。
 缶ビールの隣にぽつんと置かれていたコーラのプルタブを起こすと、プシュー、と音を立てて中身が少し零れた。
 母さんはビールをしきりに勧めてくるけれど、あいにくとぼくの舌は受け付けなかった。清涼飲料水ばかりを飲むぼくに、母さんは事あるごとにお子様だとからかう。
 母さんも父さんもビールが大好きだった。父さんは缶ビールは缶の味がして好かないと言ってビール瓶ばかり飲んでいたけれど。そんな両親のもとに生まれたぼくは、さぞかしビール好きになるだろうとの両親の期待を裏切り、ビールどころかアルコール飲料がまったく飲めなかった。
 大人になった息子と晩酌を交わすという両親の夢は呆気なく潰えてしまった。
 不意に携帯電話が震える。マナーモードにしていたから音は鳴らず、だけど振動はすぐには止まない。
 ストラップの一つもついていない黒い携帯電話をポケットから取り出す。サブディスプレイに表示されている名前を見て、息が詰まった。
 ――神田葵。
 それは紛れも無い、幼馴染みからだった。
 小学校に入ってしばらくすると仲のいい同性と遊ぶようになり、だんだん疎遠になっていった。最後に話したのは中学校の終わりだったか。家が近所でたまに顔を合わせてはいたけれど、高校は寮に入ったためそれまでのように話すことはなくなった。今では長期休暇の折に見かけても声もかけることはない。
 電話番号も、てっきり消しているものだと思っていた。
 なぜ、連絡してきたのか。幼馴染みといえど、もう関わりのない相手だ。
 ぼくはためらいながらも、受信ボタンを押した。

 懐かしい、声が聞こえる。
 家の中からビール瓶がなくなって、冷蔵庫の中は二人分のおやつが消えて缶ビールの量が増えていった。
 すかすかの冷蔵庫を開けるたび、ひどく物悲しい気持ちになった。
 母さんの缶ビールをこっそり飲んでみた。そうすれば、またこの家に活気が戻るんじゃないか。幼い時分の馬鹿な思いつきだった。
 まだ凜は飲んじゃいけないのよ! リビングで胃の中のものを全部吐き出したぼくが持っていた缶を見て、母さんは叱った。頭がぼうっとして気分の悪いぼくの服を脱がせ、蒸らしたタオルで体を拭くと、ベッドに横になっていなさいとぴしゃりという。汚物の臭いがまた気持ち悪くて、それを黙々と掃除する母さんを置いてふらふらと部屋に戻った。
 ビールを飲みきっても、何も戻らない。幼い頃にそう悟った。
 ぼくにとっての酒は、気分が良くなったり嫌なことを忘れるものではけしてない。
 すっかりしわがれて、だけど近くに若い人がいるからか妙に若々しい声が、ためらいがちにぼくの名を呼ぶ。
 幼馴染みの携帯電話から出たら、それはぼくのよく知る別人からの電話だった。その意味に気づけないほどぼくは愚かじゃない。
『久しぶりだな、凜。……元気にしてたか』
「まあね。ぼくも母さんも元気だよ」
 そうか、とつぶやく声にはよそよそしさしかない。十年振りに聞く声は、ぼくのそれによく似ていた。
「そっちは?」
「俺か? ……ん、まあまあだな。大学の方はどうだ。ちゃんと行ってるのか」
 なかなか核心を話さない相手に、ぼくは心の中でため息をつく。
 ぼくの近況を訊くよりもまず、もっと大事なことを告げるべきだろうに。相変わらず回りくどい人だ。ぼくの前からいなくなる時も、ずいぶん時間を要したものだ。だけど、今は懐かしがる場合ではない。
 このままでは埒が明かないと、携帯電話の持ち主に変わるよう告げる。まだ何か訊きたいのか言い淀んでいたけれど、渋々といった感じで電話を変わった。
『凜、実はあなたに報告したいことがあるの』
 言葉を切り、息を吸う音。緊張していることが電話越しからも伝わってくる。
「何?」
 告げられるだろう言葉に身構える。予想はついていても、実際に言われるのとそうでないのとではまったく違う。こちらの緊張を悟られないために平静を保つよう心掛けるけれど、いつもより言葉少なだ。
『わたしたち、結婚するの』
 おめでとう。発しようとしていた祝いの言葉は喉に張り付き、思ったように声が出ない。渇いた喉は潤いを欲している。飲みかけのコーラを一気に飲み干すけれど、余計に渇きがひどく感じる。
『凜?』
 訝しげな幼馴染みの声に、慌てて口を開く。
「おめでとう!」
 急いで出した声は裏返り、滑稽に響く。透明な雫が一粒、ぽろりと零れ落ちた。

 葵から電話があったこと、半年後に結婚することを伝えると、母さんはそう、と特に動揺した様子もなかった。
 離婚の際母さんはずいぶんと抵抗していたけれど、二年にも渡る離婚調停は母さんが折れるというかたちで終わりを迎えた。ぼくは母さんに引き取られ、父さんは家を出ていった。家中にあったビール瓶は跡形もなく消え、代わりに缶ビールが占領していく。専業主婦だった母さんは、辛い現実を忘れようとするかのように働きづめになり、家にはぼく一人になった。
 離婚の原因は、父さんの心変わり。不倫ではないと言い張っていたけれど、実際どうだかはわからない。離婚後すぐに付き合いはじめた人とはしかし、長続きしなかったという。
 葵の大学卒業後、すぐに式を挙げるのだと聞いた。一年という短い交際期間を経ての結婚に早すぎじゃないかというと、曖昧に笑って濁された。ほんとうはもっと長い付き合いなのではと思うが、言及しないでおいた。息子と同い年の、しかもおむつを穿いていた時分を知っている女性と結婚する父さんに向けられるだろう視線は、けして歓迎されたものではない。きっといろいろな風評が立つだろう。それでも結婚するというのなら、ぼくはどうこう言うつもりはない。
「昔は葵ちゃんとあんたが結婚するんだと思ってたわ」
「何それ。そんな関係になるわけないじゃん」
 笑って答えると、母さんはそうかしら、と苦笑を漏らした。
 ぼくの気持ちを見透かしたような瞳に、居心地が悪くなる。きっと気づいているだろうに、それでも何も言わない母に安堵していた。
 すでに話はご近所中に知れ渡っているのだろう。噂好きな主婦の好奇の視線が痛い。
 二つ家を挟んだ先の神田家に、葵がいる。
 母さんの行きつけだったケーキ屋のショートケーキが好きだった。純白のクリームに食べる者の目を楽しませる真っ赤ないちごが乗った洋菓子を持って、神田家の戸を叩く。
 短い誰何の後、ほどなく扉が開いた。ぼくを迎え入れたのは、今幸せの絶頂にいるであろう幼馴染みその人だった。
「改めておめでとう、葵」
 この前は気が動転していてちゃんと言えなかったから、と苦笑まじりに話すと、葵は緊張を解いたようだった。
 ほっとしたようにぼくを招き入れ、リビングに通す。十年振りに入る神田家は、あの頃と変わらなかった。
 ソファーに腰を沈め、差し入れと一緒にキッチンに消える葵を目で追う。黒かった髪は彼女の気持ちと同じく明るい茶色に変わっていた。
 ぼくが持ってきたホールケーキは、綺麗に分けられて皿の上に乗せられており、紅茶とともに目の前に置かれる。湯気の立ち込める紅茶を一口含み、ほっと息を吐く。
「懐かしいね、このケーキ。凜のお家に行くとよく出てきたの、覚えてる?」
 頷くと、葵はケーキを口に運んだ。うん、おいしい。嬉しそうに食べる彼女に懐かしさが込み上げる。つられて笑みが零れた。
「おばさんはどこのケーキ屋だったっけ」
「アンジェリカだよ。あそこのもおいしいけど、ここのはクリームが格別においしいの」
「ああ。でもチーズケーキはあそこのがよかったかな」
 真っ赤な果実を避けて食べるぼくを見て、あ、と葵は声を上げた。
「凜のその食べ方、変わんないなぁ」
 昔を懐かしむかのようにうっすらと目を細め、幼馴染みはしみじみとつぶやく。
「いつもいちごを残してるの。凜ってば、まだ嫌いなんだね」
「――違うよ」
 ふふっ、と笑う葵に、とびきりの秘密を打ち明ける。
 きょとんとしてぼくを見上げる彼女は、ほんとうに何もわかっていない。。
 ショートケーキのいちごも、弁当の卵焼きも、ラーメンのチャーシューも、一口分けてあげると言うといつも葵に食べられていた。葵からしてみれば、いつも最後まで残しているからいいと思っていたのだろうけど。二人で一つのものを分け合うだなんて幼いぼくたちには思いもよらないことで、ぼくはそのことに何も言えなかった。
 だから、いつもいつも大切なものは奪われてしまう。失ってはじめて、ぼくは後悔する。
「ぼく、好きなものは最後に食べる派なんだ」
 最後に残った真っ赤ないちごをフォークで刺し、一口で丸ごとぱくりと食べた。





※未成年の飲酒は禁止されています。
提出:日々綴り
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