お伽話に出てくるようなお姫様になりたかった。お気に入りの、幼いときに亡くなった母が語ってくれた物語。母の故国で語り継がれていて、亡国の王女が王様に見初められて王妃になるという、いかにも夢見がちな少女が好みそうなありえないような内容。
 母はほんとうにあった話よ、あなたにもその血が流れているの、と嘘だと決めつける私に言って聞かせた。
 そのお姫様になりたいと思う私も大概だけど、母は最期まで夢見る乙女だった。結婚して三人も子供を生んだというのに、いつまでたっても生娘のような雰囲気のひとだった。
 父はそんな母をだれよりも愛していた。ふたりが揃うと人前だろうがなんだろうが構わずいちゃついていて、当てられるこちらがいたたまれなくなるくらいだった。悪いことをしたら叱るし、作法に厳しくて子供にとっては怖いひとだったけど、謝って反省の色を示したらちゃんと許してくれたし、愛してくれた。
 母はいつも陰ながら見守ってくれていたし、父と同じくらい愛情を注いでくれた。
 ふたりの兄も過保護なほどに歳の離れた私を可愛がった。
 幸せを絵に描いたような家族だったと思う。みんなから愛されて、何不自由ない生活を保障されていた。それは父や母、兄が人格者で、多くのひとから慕われ敬われていたからだ。
「どうしてこうなってしまったのでしょう……」
 呟きはだれにも届かない。
 当然だ、この部屋には私以外いないのだから。
 夜の静寂が恐ろしいものだと知ったのは母が亡くなった日の夜。ひとりになってしんと静まり返ったとたん、無償に母が恋しくなった。最期を看取ったときは涙もでなかったのに、泣き叫んで母を呼んだ。泣き声を聞いて駆け付けた侍女に宥められても、父や兄がやってきても、泣き疲れて眠るまでずっと。
「フランチェスカさま」
 コンコンとノックする音のあと、侍女のひとりが私を呼ぶ。
 いつもよりも沈んだ声が、それでもはやくしてと促している。待たせてしまったことに申し訳なさを覚えながらも、もう少しここにいたいと思う気持ちが返事をするのを躊躇させる。十分なほど待っていてくれたというのに。
「すぐに行くわ」
 もう一度名を呼ばれれば、答えるしかない。
 口にした言葉は、驚くほど硬かった。心臓は早鐘を打ち、あそこの窓から飛び降りてしまえば楽になるとだれかが囁く。
 これから待ち受けるものを甘受しようとする気持ちとはうらはらに、逃げ出したい衝動に駆られる。だけど身体は竦んでしまってどっちつかずのまま。
 処刑場に向かう死刑囚はこんな気持ちを抱えながら引きずられて行くのだろうか。
 幸せな思い出はたくさんある。一日では語り尽くせないほどに、私は恵まれていた。その対価だった。きっと、今まで逃れてきた分の災難が、ここにきて具現化してしまったのだ。そう思わないと、現実を受け入れることができない。
 流行と私の好みをバランスよく取り入れた部屋をもう一度ぐるりと見渡す。これが見納めなのだと思うと涙が溢れそうになる。
 だけど、泣いていられない。上を向いて、王族の風格を以て臨まなければならない。
 なんとはなしに視線を逸らすと、窓から見える十五夜の月は紅い色をしていた。
 泣き叫んで充血した目のようにも、血を流しているようにも見えた。

 いつもなら爛々と室内を華やがせるシャンデリアに明かりは灯っていない。暗くなるだけでずいぶんと印象が様変わりするのだと、初めて知る。床に散らばるシャンデリアの破片を踏むたび、パリンと音を立ててさらに粉々になる。
 少し前を歩く騎士の足元を見つめながら、粛々と付いてゆく。
 私を連れていくためにやってきた騎士は、無表情ながら瞳には微かに同情の色を含ませていた。どうせなら侮蔑の視線でも投げかけてくれたら恨めたのに。腫れ物に触るような態度のせいで、私は感情の遣り場に迷っていた。
 一夜にして、何百年ものあいだで築き上げた栄光は失墜した。
 まさしく夢の城だった。
 幸福な未来への希望も一瞬にしてすべてを奪われる絶望も、この城は象徴している。長く続いた繁栄など、圧倒的な力の前ではなんら意味のないものだった。
 一歩を踏み出すごとに足の重りが増えていくようだった。ずしりとのしかかる圧迫感は、部屋全体、ひいては父の場所だったはずの玉座に我が物顔で座る人物から放たれている。
 ごくわずかな距離に侵略者とも呼ぶべき男がいる。
 それなのに畏怖の念を抱き、怯えている私がいる。王族の最後の生き残りとして、凜とした姿勢を見せなければならないというのに。
「顔を上げよ」
 立ち止まり、ドレスを持ち上げて礼の格好をしたままの私に、声がかけられた。
 淡々とした、なんの感情も篭らない言葉。だけどそれよりも、その男らしい声の艶やかさにどきりとした。美しいと思う。この声で口説かれたら、いや囁かれるだけでも女は落とされるだろう。
 ゆるゆると顔を上げ、目に入った男の、この世の者とも思えぬ美しさに息を呑んだ。
 太陽のような金の髪を持つ美丈夫。戦場を駆ける姿から金獅子と称される大国の皇帝。正統な後継者である異母兄から皇帝位を奪った纂奪者。数多の国に攻め込み戦場となった国を焦土にした戦狂い。そして父や兄を、この国の民を殺めた、侵略者。
 彼の皇帝についての噂は聞き及んでいた。たったひとつを除いて、良くない噂ばかりだった。
 悪い印象しか抱かせない噂はどれもすべて的を射ていると感じさせる。
 敵でなくとも竦み上がってしまいそうな、射抜くような鋭い眼差しと威風堂々とした王者の風格。見目麗しいと褒めたたえられるであろうかんばせは、精巧な人形のように少しも表情を変えない。
 そのどれもが皇帝から他者を遠ざけ平伏させる要因となっている。
 ――孤高の王。
 その表現がふさわしい。
 最期に恨み言をいってやろうと思っていた。王族の、王女としての品格などかなぐり捨てたなにもないひとりの人間として物申してやりたかった。家族の仇と懐に忍ばせた護身用の短刀で斬りかかってやろうとも。
 そのどれもが彼を目の当たりにしてできるはずもないのだと、己の浅はかさに気づかされる。
 仮にも一国を背負う皇帝なのだから、女が敵うはずもない。それでも隙があるのではと、近づいてきたときを狙って、この男に一矢を報いようと考えていた。画策と呼ぶにはあまりにもお粗末なものだった。
「ファニー、だな」
「気安く呼ばないでくださらない?」
 愛称を呼ばれて、びくりと肩が震えるのを我慢し、つんと澄ましていった。
 王女でも姫でもフランチェスカでもなくごく親しい者しか呼ばないそれで、この男から呼ばれることが信じられなかった。
 だからといって皇帝に親しみやすさを覚えるはずもない。
 より一層身体が硬くなるのを感じながら、皇帝を見据える。
 やはり顔の筋肉を少しも動かさず、しかし口許は微かに吊り上がった。些細な変化だったが、私は見逃さなかった。
「気の強いお姫様だ」
 くつりと笑ったのを見て、込み上げるのは恐怖だった。
 射殺しそうな視線でも残虐な感情を浮かべているわけでもない。ただ笑った。それだけだ。だからこそ、皇帝の恐ろしさが際立つ。
 あまりにも美しすぎるのだ。過度な造形美は見る者を圧倒させ、恐怖させるには十分すぎるほどだった。
 ただ笑っただけで引き攣るような恐怖感を与えるなど、このひと以外にはできないだろう。
 母が語ってくれたお伽話の王様なら、お姫様に恐ろしさを感じさせはしない。
 ここで皇帝がお伽話に出てくる王様のようなひとだったら、私はお姫様になれただろう。恭しく跪いて手の甲に口づけを落とし、求婚してくるのだ。そう――
「俺の妻になれ」
 思考の渦から引き上げたのは、紛れもない皇帝だった。
 耳を疑った。どう考えても求婚するような場面ではない。甘い雰囲気など少しもなく、殺伐としたものが支配しているのだ。
「聞こえなかったか? 俺の妻になれといったんだ」
 形式的にも同意を求めない、直接的な言葉で形成された命令。
 なにをとち狂ったのだろうこのひとは。
「……理由を、訊いても?」
 知りたいと思うのはしかたない。後ろに控える将軍らしき男もわずかに目を眇めたのだ。
 だれもが声もなく、息を呑んだ。皆が見守る中、皇帝は整った口唇を開く。
「気に入ったからだ」
「さきほど会ったばかりの女なのにですか?」
「ああ」
「私のことなどなにも知らないでしょう」
「それで不都合があるわけでもないだろう」
 それがなんだとばかりに皇帝は答える。
 いってもキリがない。彼は勝者で、私は敗者。この立場が覆されないかぎり皇帝に逆らうことはできない。それでなくても美貌の皇帝はひとを遠ざける雰囲気を纏っているというのに。
「わかりました。私はあなたのもとへ嫁ぎましょう」
 ――喜んで。
 お姫様は満面の笑みで王様の求婚の申し出を受け入れた。
 今の私は憧れたお姫様とは雲泥の差だった。なにもかもちがった。求婚者に一目で恋に落ちることも、その逆もなく。
 自分は今現在、お姫様とは最も程遠い存在なのだと実感する。
 喜べるはずもない。求婚者は家族の仇で私は廃国の王女。逆らうことなどできようか。
 生きていて良いことなど起きないと知っている。皇帝が私に恋情を抱くなど、万が一にもありえない。
 皇帝の緋色の瞳が私を射抜く。
 獣のそれだ。王者の目をしている。他者の悪意に惑わされることなくはねつけ、常に君臨し続ける者。
 今宵の月は紅い。
 敗者は屈し、勝者に跪く。その理は何百年ものあいだ変わらず蔓延っている。勝者は敗者をどうとでもできるのだから、彼の決断をとやかくいうことはできない。
 月に惑わされているのかもしれない。紅い、それも満月の夜は、どうにも不気味なのだ。
 血を流しているようにも、彼の瞳の色のようにも思える紅い月を背に、私は皇帝の妻になることを決めた。

提出:日々綴り
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