>>淡水魚






「あの鯉はずっとあの池にいて幸せなのでしょうか?」


彼女がぽつりと呟いたその言葉に僕は全く耳を傾けずただ『またか』と思った。

時々彼女はふと思いついたように意味のわからない事を言う。

普段ぼーっとしている所為か彼女のそのような発言に驚くことはない。

だんまりを決め込む僕の袖をくいくいと引っ張り返事を請うので、答えることにした。


「幸せなんじゃないか?この池もほどほどに広いし。」

「でも、海のほうが広いです。」


確か鯉は淡水魚だから海では生きれないのではなかったか。

子供でも分かることだろうが、それすらも知らなかった彼女は余程の世間知らずだということだ。

それも仕様がない。彼女はこの大きなお屋敷の末っ子のお嬢様で、ずっと甘やかされてきた。

阿呆らしい発言も彼女らしいと皆は甘やかす。僕も然り。

そんな彼女が鯉が淡水魚だと知っていたら、逆に驚く。


「宗助様は私と婚約することで幸せになれますか?」


そう無垢な顔で聞いてくる彼女を愛おしく思う。僕はずっと彼女を見てきた。

生まれたときからずっと一緒でずっと大切にしてきた。


「当たり前だ。僕が幸せになると同時に君も幸せにしてあげよう。」

「ありがとうございます。」


にこりと笑う彼女に心打たれ、緩んでしまいそうになる口元を引き締める。

すっと視線を僕からまた池の鯉へと戻すと、だんまりとしてしまった。


「宗助様、私・・・あなたとの婚約を解消したいのです。」


一瞬僕は耳を疑った。彼女は今、なんと言った?

彼女は大きく息を吸って僕のほうへ身体を向けるともう一度言った。はっきりと、確固たる決意を秘めた目で。


「私は、宗助様と一緒では幸せになれないのです。」

「どういうことだ?」

「私はここに居る鯉とは違うのです。私は、・・・違うのです。本当に申し訳ございません」


深く頭を下げ、そして立ち去ってしまった彼女を僕は追いかけることが出来なかった。

翌日、彼女の家から伝達があった。


昨夜、彼女が家を抜け出したと。家のものが行方を追っているそうで、

必ず来月に控えた挙式にはなんとか間に合わせると。


だが、僕は思った。これが彼女が選んだ道なのだと。彼女は大きな屋敷に囲われた姫で、

大きな池で華麗に泳ぐ鯉と同じだった。彼女は同じでは無いと言った。


きっと彼女は僕の元には帰ってこない。

僕は父上と話し合い、婚約解消を取り付けた。

両家とも渋ってはいたが、当人達の意思を尊重するという事で

僕と彼女の婚約は無かった事になった。


数週間後、僕に届いた悪い知らせ。

山賊に襲われ命を落とした彼女。その彼女の懐から見つかった僕宛の手紙。

ただ一言、愛しています。とだけ書かれていた。


「幸、僕も君を愛していた。ずっと言えなかったな。」


小さく呟いた言葉と共に頬を伝うは涙。

歪む視界の先に映る色鮮やかな鯉を見て思った。

彼女はこの小さな池を飛び出して広い海へと飛び出したのだ、と。


『幸、君を愛している』

『愛しています、宗助様』



来世で会えたら色んな世界を見に行こう。二人で一緒に。

世間知らずの君にはしっかり者の僕が必要だ。

そして臆病すぎて言えなかったこの言葉を君だけに永遠に捧げよう。



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