一年前のこと



宇佐見名前のことを知ったのは、演劇の主役に決まった時でも、商店街で助けた時でもなかった。名前の方は商店街で会った時に初めて認識したようだったが、柳の方は、実を言うと一年ほど前から彼女を知っていた。



「最近よく聞こえるけど、誰が弾いてるんだろうね」

幸村が言うのは、時折テニスコートの方まで風に乗って聞こえてくるピアノの音色のことだ。「音楽室ではなく西棟の空き教室のピアノだろうな」聞こえてくる方角を考えてそう答えた柳だったが、この時は別段興味があって場所を考えたわけではなく、ただの会話の返事として言っただけだった。その音色の主を知ることになったのは、それから数日後のことである。

「今日も聞こえるな」

生徒会室で仕事をしている時だった。今度は生徒会長がそう言って、柳は再び当たり障りのない返答をする―――しかし、最後まで残って作業を終え生徒会室を施錠する頃になってもまだ聞こえてくるので、柳の足は気付けばその音色の出元へと踏み出されていた。柳が予測を立てた空き教室と生徒会室は同じ棟にある。階段を上って最上階へ行けばピアノの音は近くなって、自分の推測は正しかったのだといういつもの満足感を抱きつつ廊下を進む。ガラス窓からそっと教室を覗き込めば、やはり、ピアノの前に座る女子生徒が見えた。俯いているせいで髪に隠れて、顔を見ることはできない。

「・・・―――」

テニス以外にも書道や茶道などの嗜みがある柳だが、ピアノは勿論音楽というものに触れた経験はないので、恐らく何年もピアノをやっているのだろうとしか腕前のことは分からない。しかしその音色は何となく、柳の足をそこに留めさせるのだった。と、ふと女子生徒が髪を耳にかけたことで横顔を目にして、ああ、と思う。

「柳生がよく一緒にいる女の子って、恋人なのかい」
「一緒に―――ああ、違います。宇佐見さんは友人ですよ」


宇佐見名前。度々柳生の話に出る女子生徒だ。あの宇佐見グループ本家の一人娘で、兄は有名作家の宇佐見秋彦―――純文学を好む柳だが、彼の新刊は気にかけている―――そしてイギリスからの帰国子女。テニス部員でもクラスメイトでもないので幸村と柳生の会話などから得たこの程度のデータしか持っていないが―――・・・

「もうこんな時間、」

ふいに音色が途切れ、腕時計を見た彼女がぽつりと呟く。片づけを始めたので柳は音もなく踵を返し、階段を下りた。



―――つまりそういうわけで、柳は名前を知っていたのである。しかしそれがきっかけで声をかけたわけでも、その後彼女についてのデータを集めたわけでもなかった。ただ少し気になってピアノを弾く人物を確かめに行き、それが名前だったというだけ。まさか一年後にはただの知り合いどころか一緒に帰ったり二人で出かけたりすることにまでなっていようとは、参謀と名高い柳にも予測できるはずはなかった。

back
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -