全国大会前



「名前、今朝は随分とシケた球打ってたじゃねえか」

夕方になって寺の方へふらりと現れた名前に、足に引っ掛けた縄紐で怠惰に鐘を鳴らす南次郎はそう言った。今朝二人で打ち合いをした時のことを指している。「まだ関東大会の疲れでも残ってんのか?」「...べつに」ゴーン、とすぐ傍で耳を劈くような音が鳴っているにもかかわらず、名前は気にもせず縁に腰掛けて夕方の街を眺める。南次郎はそんな娘の背中を視線だけで見ていたが、すぐに手持ちの雑誌に目を戻した。遠くで、カラスが鳴いている。

「...お父さんは私が男の子だったらって、思ったことある?」
「んあ?何だって?」

暫く静かに流れていた沈黙をぽつりと破った名前の声は鐘の音の余韻にすら掻き消されるほど小さなもので、南次郎は顔を上げて聞き返す。しかし、名前は再び繰り返そうとはしなかった。

「...何でもない。先帰ってる」

身軽に飛び下りて家の方へすたすた歩いて行った名前の背中は心なしかいつもより小さく見えて、南次郎は「何だよ」とぶつぶつ言いながらも、娘の姿が見えなくなるまで目を離さずにいた。





『どうした、越前』

携帯の向こうでいつもと変わらない手塚の声が聞こえると、名前は何も言わずに息を吸い込んで、ベッドに背を預け座り込む床から夕陽の差しこむ自室の窓を見上げた。手塚が九州へ旅立ってからは他の先輩達やライバル達に「いつもより大人しいのは、やっぱり手塚がいなくて寂しいからかい?」「迷子の子猫みてえだな」なんてからかわれていたが、こうして名前の方から手塚に電話をかけたのは初めてだった。

「ただ、部長元気かなって思っただけ」

膝を抱えて座り、意味もなく傍にあったテニス雑誌をぱらぱらと捲る。『昨日もメールしただろう』呆れた声が返ってくる。「それもそうですね」ため息をつくように笑った後、少しの間沈黙が流れた。

『そういえば、メールでは伝えたが言葉ではまだ言っていなかったな。真田相手によくやった』

ふと、ページを捲る手が止まった。名前の脳裏に真田と戦ったあの試合が浮かんできて、言葉に詰まる。

『...どうかしたのか、越前』

黙り込んだ名前に、手塚が不思議そうな声をかける。「...べつに」『そうか?』「そうですよ。ところで部長いつ帰ってくるんですか」らしくもなく取り繕うようにして話を振ると、手塚は『全国前には必ず戻る』と言ってから一度言葉を切った。

『先日、越前が寂しそうにしていると不二から聞いたのだが...寂しいのか?』
「っ...べつに、そんなんじゃない」

不二が楽しそうに手塚に告げているさまが容易に目に浮かぶ。手塚は別にからかおうとして言ったわけではなく至って真面目に聞いただけなのだが、名前は自室で一人慌てふためいて否定した。『そうか?』「そうですよ。それじゃあ、もう切りますよ」『?ああ。大会前の大事な時期だ、体調管理はいつもよりきちんとするように』最後まで普段通りだった手塚との通話を終えると名前は携帯を投げ出し、ぼすんとベッドに横たわった。

”私が男の子だったらって、思ったことある?”

正直に言ってしまえば、他の先輩たちの”越前は手塚がいなくて寂しがっている”という指摘はまさにその通りだった。手塚のいない部活は張り合いがなくてつまらなかったし、無意識のうちにコートの中に姿を探してしまっていたし、大会だって少し味気なく感じていた。しかし寂しいからと言って連絡しようとするような性格はしていない。だからこれまで一度も自分から手塚に連絡せずにいたのだが、ここにきて電話をかけたのは、つまり、それだけの事情があるのだ。ただ寂しくてかけたのではなく、心に余裕がなくて無意識のうちに手塚に縋ろうとしていたのだ。名前は真田との試合で、ショックを受けていた。

「”さらばだ...越前名前”」

簡単に言ってしまえば、名前は今まさに大きな壁にぶち当たっていた。それは男女の壁である。越前名前は中学男子テニス界に突然現れた大型ルーキーとして注目され、周囲の予想を上回る形でこれまで躍進を続けてきた。強い男子選手に挑戦して勝ち続けてきた。しかしやはり、この年頃あたりから男女の力の差・体格の差というのは顕著に現れてくるのである。やはり性別の違いでは敵わないと、関東大会の決勝で真田と対戦して思い知った。

「”私は...あんたを倒して全国へ行く”」

その台詞は自分に言い聞かせているようなものだった。体格にも力にも恵まれた真田の迫力に圧倒されてしまっていた。がむしゃらに攻めて何とか勝ちはもぎとったが、全国では通用しないかもしれない。そんな考えが浮かんだ時、急に怖くなった。性別の差など名前が女に生まれてきた以上どうしようもないことなのだが、どうしようもないからこそ、歯がゆくて悔しかった。性別なんて関係ないと自分を鼓舞しようとしても、心のどこかで限界がちらついてしまう。らしくもない。生意気だとか傍若無人だとか人を食ったようなプレイスタイルだなんて評されている普段の名前からは想像もつかないほど弱気だ。しかし負けず嫌いで「勝ちたい」と強く思っているからこそ、同時に「負けたくない」という思いも強くなってしまうのだ。全国大会は直前に迫っているのに、名前は今一種のスランプに陥ってしまっていた。


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