思いもよらない



とうとう、海原祭演劇の顔合わせの日がやってきた。

「名前、心の準備はどう?」
「そろそろ行きましょうか」

放課後、少し顔の青い名前は柳生と栞乃と連れ立って隣の棟の最上階にある多目的室へと向かった。教室二つ分の広さのあるそこは、授業でというより行事で使われることの多い場所である。同じ階に被服室や美術室があって衣装や道具作りがスムーズに進められるから、と毎年海原祭の時期には演劇準備のための場所となっているのだった。名前は同じ階の空き教室に置かれたピアノをこっそり弾きに行くことはあったが、多目的室に来るのは初めてだった。

「結構集まってるわね」

履物を脱いで、三人は隅の方に腰を下ろす。名前は落ちつきなく多目的室内を見回した。机や椅子が無造作に積み上げられていて、暗幕カーテンがよれていたり壁に絵の具がこびり付いていたりと割と雑多な印象は受けたものの、カーペット張りの床や窓際に並ぶ年季の入ったソファを見るに、慣れれば居心地に良い場所になりそうだった。

「やーぎゅ」
「仁王くん」

今しがた入ってきた仁王が、三人のそばに腰を下ろす。名前が彼のズボンの後ろの部分から中途半端にシャツが出ているのを指摘すべきか迷っていると、仁王はふいに振り返った。

「宇佐見、主役に抜擢されたんじゃろ?柳生から聞いたぜよ」

お互いに人見知りなので、仁王が名前に声をかけるのは珍しいことだった。普段は、仁王がふらりと柳生のもとへちょっかいをかけに来ているのを見かける程度の間柄である。

「抜擢って、そんなすごいものじゃないよ」
「でもまあそんなもんじゃろ?頑張りんしゃい」
「、ありがとう。仁王くんは?」
「俺も演じる方なり。王子と姫の恋を邪魔する家臣の役」

「なんか上手そう・・・」栞乃が呟いた言葉に、名前も内心で同意した。仁王がペテン師と呼ばれていることは柳生から聞いてよくよく知っていた。しかし、仁王がこれほど積極的に声をかけるのはやはり珍しい。もしかしたら緊張しているのを見かねて話しかけてくれたのだろうかと名前は思ったが、気を使っているような素振りは全くない。

「みんな集まったかい?そろそろ始めるよ」

幸村が入ってくると、騒がしかった室内はぴたりと静かになった。彼が柳生のいるテニス部の部長であるということも、今回演劇の実行委員長をやるということも、名前は事前に知っていた。やはり人を纏めることには慣れているようで、てきぱきと皆を輪にならせて台本や練習スケジュールを配る様子は流石だ。

「今日は初めてだから、簡単な自己紹介をしようか」

マンモス校の立海では、同級生でも顔すら知らない生徒などざらにいるのだ。少しいびつな輪を見渡して、幸村は再び口を開く。

「まず俺からするね。実行委員長と脚本を兼任することになった幸村精市です」

そして彼が涼しい顔をして言ってのけた言葉はこうだ。「この前も話したけど、今年は今までにない、前年までの演劇と比べ物にならないくらいの傑作にしたいと思ってるから、みんなよろしく」そんな年の主役になってしまったことを今更ながら実感した名前の緊張はぐっと増すのだった。人前に出るのが苦手であることを克服したくて引き受けたが、正直学生劇なのだからクオリティは知れているだろうと思っていたのだ。幸村の表情は本気だ。親友の言葉にのって深く考えもせず頷いた自分を愚かだと思う。そしてその親友が言うにはここにいる実行委員たちの投票で決まったらしいが、傑作を作りたいというのになぜ自分が選ばれたのだろうと名前としては猛烈に謎だった。演劇部には上手な人が沢山いるだろうに、演劇経験が皆無である自分で大丈夫なのだろうか。

「次は副委員長の早瀬」

名前の心配をよそに、挨拶は順調に進んでゆく。照明、音響、大道具・小道具、衣装、スケジュール係、そして配役。じりじりと待っていた名前の口の中がからからになるまで緊張が高まった頃になってようやく、名前が呼ばれた。

「主役の一人、ジュリエット役の宇佐見さん」

ついに来た。一度だけ助けを求めるように栞乃を見てから立ち上がる。皆名前と係の他に一言何か言っていたのだが、名前は何も考えていなかった。何十人もの生徒の中で、自分だけが立って、注目を浴びている。こういう場はとても苦手で、これまでずっと避けてきた。今も、許されるならこの部屋を出たいと思ってしまう――けれど。親友に言いくるめられたとはいえ、自分はそれを克服するために引き受けた。それに、幸村をはじめとする演劇に関わる生徒たちは皆、本気で取り組もうとしているのだ。名前は、震える息を吸い込んだ。

「宇佐見名前です。私は、人前に出るのが苦手、だから」

そこで言葉を切ると、しんとなった。幾つもの視線が、じっと名前を見ていた。

「だから――人一倍、頑張ります」

視界の隅で目を見開いた栞乃と柳生が、一番に拍手をした。力が抜けたようにすとんと座り込む。「名前」二人が驚いたように笑っている。名前がどれほど勇気を出して今の言葉を言ったかを分かっているのだ。今の挨拶が、本気で取り組もうとしている彼らへの名前の精一杯の言葉だった。「ちゃんと、言えたかな」「しっかり言えていましたよ」「目線はキョロっとったけどな」柳生に励まされ仁王にからかわれてようやく余裕が出てふにゃりと笑った名前は、最後に立ちあがった人物へ目をやってはたと動きを止めた。先程までは自分の挨拶で精一杯で他のことを気にする余裕などなかったが、そう言えば、主役はもう一人いるのだ。

「それじゃあ最後、ロミオ役の――」

相変わらずの凛とした立ち姿で「やるからには良いものが出来上がるよう努めるつもりだ」と述べるその姿を、名前は目を見開いたまま見つめていた。知らなかった。こんな偶然があるのだろうか。ヒロインの恋の相手である王子役をやるのは、先日名前を助けてくれたあの柳蓮二だった。

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