幸村の様子がおかしい(※シリアス注意)



雨の日のことだった。

「ねえ、私幸村くんのことが好きなの」

講義が終わって荷物をまとめる幸村へ机越しに降りかかってきたのは、何ということはない、ありきたりな告白の言葉。喧騒な講義室では誰もその場面を気にする者はいない。俯いて鞄を整理していた幸村の手がぴたりと止まったことに、誰も気付かない。目の前の女子学生ですら気付かない。

「彼女がいるって本当?」

幸村は答えない。女子学生はここでようやく不思議に思って顔を覗きこもうとするが、前髪に隠れて表情は分からない。しかし、机に視線を縫いとめたままの幸村の目は、僅かに揺れていた。「――、」音もなく吸った息も少し震えていた。

「...いるよ、だからごめん」

普段より低い声で口早にそう言うとペンや講義資料などを全て引っつかみ、逃げるようにして講義室を後にした。





外は雨が降っている。

しかし中途半端に荷物を抱えたままの幸村はくすんだ空を一瞥しただけで、構わずたっと駆けだした。鞄にしまう余裕もなく手のひらに握っていた講義資料のプリントが少しずつ滲んで萎んでゆく。それでも足は止まらない。少しふらついた頼りない足取りで、しかし確かな目的を持って地面を蹴る。

――何ということはない、ありきたりな告白の言葉。それが幸村には重い鉛となって圧し掛かり、心の中は今の空のようなくすんだ雲で覆われた。蘇るのは遠い日の記憶。今は心から想える相手もいるというのに、そのトラウマはまだ、ふいに幸村を苦しめるのだ。

「、はっ、はぁ...、」

ふと足を止める。それほど強い雨ではない。しとしとと、気付けば染み込んでいるような雨だった。幸村の艶やかな髪の一束から雫が落ちた。「...愛称、」ぽつりと零れた声は、静かな雨音に消えていった。

「――精ちゃん?」

はっと顔を上げると、目の前のアパートから名前が出てきたところだった。名前は幸村の姿を見て取ると僅かに瞠目し、急いで赤い傘を差しながら駆け寄ってくる。「愛称、」驚いたようにぼんやりとその様子を見ていた幸村だったが、傘を差しかけられるとふと視線を落とす。その視界に映るのは自分の濡れた前髪と、名前のお気に入りのパンプスと、ところどころ雨で濡れて色が濃くなった柔らかいスカートの裾と、名前の腕にかけられた水色の傘。今朝忘れて行った、幸村の傘だ。柄の部分が木でできていて、名前が今差しているものと色違い。

「今から迎えに行くところだったんだよ。そのまま帰ってきちゃったの?」

優しい声色に促されて再び顔を上げると、名前は空いた手で幸村の濡れた髪を横に流した。こめかみをつうっと雫が伝った。「――っ」幸村はなぜだか堪らなくなって、咄嗟に名前を抱きしめた。二人の間でプリントがくしゃりと音を立てる。幸村が抱きしめているのに、まるで縋り付いているかのようだった。

「......」

普段なら外でこんなふうにされたら嗜めて離れようとする名前だったが、今日はそうしなかった。傘もささずろくに荷物も纏めずに走って帰って来たところを見れば、何かあったことは目に見えて明らかだからである。しかし、普段冷静な幸村がここまで様子がおかしいのは初めてだった。名前は何かを考えるように、心配するように目を細め、そっと腕をまわして背中を撫ぜる。

「愛称、」
「うん」
「...名前」
「うん、精ちゃん」

しばらくすると、安堵するようなゆっくりとした、少し震えたため息が首筋にかかった。名前の首許は幸村の髪から滴る雫でしっとり濡れていた。

「風邪引くよ。帰ろう」
「...うん」

幸村は大人しく名前に手を引かれて、エントランスをくぐる。「プリントくしゃくしゃになっちゃったね」「今日講義なくて暇だったから、シチュー作ったよ」「食べる前にお風呂入らないとね」幸村は何も答えなかったが、名前の一言一言に少しずつ表情を取り戻していった。それでも家に着いてもしばらくは、手を離そうとしなかった。

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