プロローグ



「――では宇佐見さんは、恋人ができたことはないのですか?」

廊下を歩きながら話の流れでそう尋ねた柳生はそれからはっとして眉を下げ、慌てて謝った。「すみません、無遠慮な質問でした」「ううん、恋人は――できたこと、ないよ」恋人”は”という名前の言葉に引っかかりを覚えた柳生が何かを聞きたそうな顔で口を開きかけたが、名前は続けて言葉を重ねる。

「というか、まだ誰かを好きになったことがないの」

「高校生にもなって、変かなとは思うんだけどね」苦笑すると、柳生は熱のこもった様子で首を振る。「何も変なことはありません、宇佐見さんには宇佐見さんの歩みがあるのですから」この紳士的で心優しい彼とは親友と呼べる間柄だった。イギリスで育ち高校から立海に入った帰国子女の名前を気遣いあれこれ世話をしてくれているうちに、いつの間にか仲良くなっていたのだ。

「ありがとう」
「あ――すみません、つい熱くなってしまって」
「ふふ、ううん。嬉しかった」

そもそも何故このような話になったかというと、事の発端は数日前にまでさかのぼる。







「学年劇?」
「そう、毎年海原祭で三年がやるの。知らない?」
「知らない」
「あのね、昨日実行委員のミーティングがあって――」

クラスメイトの栞乃――彼女もまた親友だ――の説明によると、つまり、その今年の学年劇のヒロインが名前に決定したということらしかった。「ん?」名前がうまく理解できずに聞き返すのも無理はない。本来ならば役を決めるのは推薦か自薦、推薦でも最終的に本人が頷かなければ役に決まることはない筈である。しかし栞乃は劇の実行委員で、名前の代わりにイエスと言ってしまったらしいのだ。”ヒロインをやってくれないか”ではなく”ヒロインに決まった”つまり決定事項である。事後報告である。

「え――えっ?」
「ごめんね名前、実行委員の中の投票で決まった後、あとは私が何とか説得するようにって委員長に言われて」
「すみません宇佐見さん、私もその場にいたのですが・・・」

栞乃は実行委員の衣裳係であり、柳生は既に他の役に決まっていたのでミーティングに参加していたのだ。「そんなわけなの。お願い」「待って待ってのんちゃん、私にはできないよ!」突拍子がなさすぎて今ひとつ話が呑みこめていなかった名前だが、このままだととんでもないことになってしまうと顔を青くしてぶんぶん首を振る。

「のんちゃんも柳生くんも、私が人前に出るの苦手だって知ってるでしょう!」
「うん、だからね、これがきっかけで克服できるんじゃないかなと思うの」
「克服・・・?」
「名前だってこのままじゃ駄目だって言ってたでしょう?」

「だからね、名前。頑張ってみようよ」「私たちも協力しますから」そんな親友たちの言葉にうるっときていとも簡単に心を動かされてしまったのは、名前が純粋あるいは単純であるせいかそれとも、栞乃の演技力のせいか。栞乃たちは、実行委員長から名前を説得するという任務を与えられているのだ。無論二人とも嘘をついたわけではないのだが、栞乃の場合少々大袈裟にものを言ったことは否めない。そんなことなど露ほども知らない名前は呆気なく心を動かされ――言いくるめられたとも言う――結局は頷いてしまったのだった。








そんな経緯があって、主人公と結ばれる役だと聞かされた名前が「恋人って私にはよく分からないな」とぼやいたことで冒頭の会話になったのである。と、教室の前で和やかに笑いあっていた二人にふと影が差した。

「柳生、少しいいか?週末の練習試合のことで話があるんだが」
「ええ、構いません。わざわざ来て下さってありがとうございます」

声をかけてきたのは、柳生が見上げるほど長身で細身の、伏し目がちな男子生徒だった。しゃんと背筋の伸びている凛とした立ち姿や、痛みのないさらりとした髪が印象的である。”練習試合”と言ったことから柳生と同じテニス部の人らしいと考えつつ名前がぼんやり見上げていると、ふと視線が合った。名前は柳生のことをよく美人だと評していたが、この彼も涼しげで綺麗な顔立ちをしている。その切れ長の眸から何となく目が離せないでいると、墨で引いたような眉がすっと上がった。

「すまない、話しているところだったか?」
「あ――ううん。そしたら柳生くん、先に戻ってるね」
「はい、すみません宇佐見さん」

我に返った名前は、相変わらず紳士な柳生ににこっと笑い、それから長身の彼に会釈をして教室に入った。

>>>

back
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -