ゆっくり、少しずつ



夏休み後半になって、本格的に演劇の稽古が始まっていた。オペラやミュージカルなどを観に行った経験はあっても、参加した経験は全くない。名前には何もかもが初めてで最初は緊張してばかりだったが、栞乃と柳生に読み合わせに付き合ってもらったお陰で、最近は徐々に慣れてきていた。

「いつか王子様が、私を迎えに来てくれるもの」

今日は配役のある生徒しか集まっていなかったが、それでも幾つもの目がある中で声を出すのは勇気の要ることで、「そこまで」と幸村が止める度に名前はどっと疲れるのだった。

「今日はここまでにしようか」

昼頃になって、解散の声がかかる。身支度を終えた名前は周りの生徒たちに控えめに挨拶を返しつつ、昇降口へ向かった。そのまま迎えの車を呼ぶことなく、校舎を出る。夕方まで練習のある日は迎えを呼ばなければならないのだが、早く終わった日には歩いて帰るようにしているのだ。柳生の家は反対方向、今日は栞乃も来ていないので、一人である。まだまだ夏の終わりそうにない日差しが、名前の肌をじりじりと刺す。

「宇佐見さん」

振り返ると、幸村と柳がいた。彼らも今帰るところらしい。「お疲れさま。宇佐見さん、最初に比べてすごく声が出るようになったね」幸村が隣に並び、柳もその隣を歩く。

「そ、そうかな?ありがとう。幸村くんもお疲れさま」
「確かに、初日に比べて32パーセントも声量が上がっている」
「32パーセント・・・?」

「ああ。自主練習をしているのだろう?」柳がノートを捲りながら言うのでその内容が非常に気になったが、やはり褒められるのは嬉しい。自分でやると決めたのだから、頑張らなくては。

「幸村ー!」

そろそろ門が見えてくるところまで来た時、校舎に残っていた生徒が窓から顔を出して、大声で幸村を呼んだ。幸村につられて二人も振り返る。「どうしたんだい?」「ちょっと戻ってくれないか?」幸村はやれやれと言った様子で二人から一歩離れた。「ちょっと行ってくるよ。ああ、先に帰ってくれて構わないから」そのまま小走りで校舎の方へ去ってしまった。名前が状況を理解しかねていると、柳が口を開く。

「宇佐見、迎えの車はもう来るのか?」
「あ・・・今日は呼んでないよ」

名前が門の前に停まった車に乗るのを見たことがあるのだろう。名前が首を振ると、柳はしばらく思考するように沈黙してから、「家はどっちだ」と聞いた。え、と思いながらも、おずおずと答える。

「・・・帰るか。差し支えなければ、だが」

どうやら方向は同じらしい。ひょんなことから、名前は柳と二人で帰ることになった。





「一人で歩いて帰ることを許されているのか?」
「うん、遅くない時間なら」

蝉が鳴いている。先ほどまで幸村のいた真ん中の隙間がそのままで、二人の間には何とも言えない距離があった。ちらりと隣の柳を見上げると、柳はきちんと背筋をのばしていて、名前の歩幅に合わせるためにゆっくり歩いてくれている。その姿に、名前は同級生の男の子たちとはとても同い年に見えないなあとぼんやり思った。何とも言えない沈黙が続いて何か話さなければと考えた名前はふと思いついて「そうだ」と声を上げた。

「どうした」
「あの、この前の引退試合、お疲れさま」
「宇佐見たちも見に来ていたのだったな。ありがとう」
「うん、柳くんの試合も見たよ」

あの試合を見た時に感じたことを伝えたくてもしっくりくるような言葉が浮かばずに、再び沈黙が流れる。毎日練習で顔を合わせていて少しずつ慣れてきたとはいえ、まだまだ柳生や栞乃といる時のような自然な間の取り方はできなかった。

「それでね、その――・・・」

柳生たちは名前が口下手なのを知っているので口を開くのを気長に待ってくれるのだが、関わるようになって日の浅い柳に対して、名前は言葉を紡ごうと少し焦ってしまった。

「焦らなくていい」
「え、?」
「ゆっくりで構わない」

思わずぱっと柳を見上げると、柳は前を向いたままで、その表情は相変わらず読めなかった。「・・・ありがとう」どうして分かったのだろうとぼんやり思ったが、前に視線を戻してふと気付けば焦りは消えていた。すとんと気持ちが落ち着いて、名前は自然と口を開く。「あのね、」「ああ」名前が話したかったのは、柳がテニスをしている姿を見て素直に感じたこと。

「柳くんって、テニスが大好きなんだね」

「――・・・」視界の隅で、柳がはっと息を呑んだのが分かった。照れくさいことを言ってしまったと名前は少々気恥ずかしくなる。柳生のように豊かな言葉で感情を繊細に表現することが名前にはできなくて、いつでもストレートな一言になってしまうのだ。柳が何も言わないことにじわりと頬が熱くなって「あの」と言いかけた時になって、柳はようやく口を開く。

「・・・ああ、その通りだ。宇佐見はしっかり見てくれていたのだな」

普段の淡々として冷静な物言いではなく、どことなく嬉しそうに聞こえた。再び柳を見上げると、今度は簡単に表情が読めた。微笑っていた。ふっと口許を緩めた程度のものだったが、柳が笑ったのを見たのは初めてだった。そっか、こんなふうに笑うんだ――頭の隅の方で思った。

「ありがとう」

目を見て言われたその声色は少しくだけた、親しみのこもったような声だった。名前はぱちぱちと瞬きをして柳を見つめ、それから前に視線を戻す。蝉が鳴いている。さっきより、頬が熱くなっていた。

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