次兄の思うこと |
夏休みに入り、どの部活動にも所属していない名前はのんびり過ごすことを決めていた。演劇の練習は高校総体に出場する生徒のことを考慮して一旦休止となり、夏休み後半から本格的に始まることになっているので、それまではのびのびできるのだ――とは言っても、宇佐見グループ総帥である筈が隙を見ては仕事を抜け出す父にあちこち連れ回されたり、長兄の出張に連れて行かれたりと今のところあまりのんびりすることはできていないのだが。 「いらっしゃい、名前ちゃん」 「お邪魔します」 名前は今、とある高級マンション最上階の部屋に遊びに来ていた。次兄とその同居人が暮らす部屋である。休暇を満喫するにはまず誰かのところへ遊びに行こうと考えたのだ。 「久しぶりだな、名前」 自宅にいるというのにシャツにネクタイ姿の兄、秋彦が階段を下りてくる。メゾネットのこの部屋は流石は売れっ子作家と納得の豪華さである。長兄の春彦とは異母兄弟だが、この秋彦と名前は実の兄妹で、それが関係するのか、あまり人と関わりたがらない秋彦も名前のことはよく可愛がっていた。「あれとはどうなんだ」「あれ?」「ほら・・・景吾だったか」「ちょっとウサギさん、名前ちゃんの許婚のことあれ呼ばわりって」秋彦を”ウサギさん”と呼んだのは、同居人の美咲。名前の二つ年上で、三ツ橋大学に通っている。 「景吾はテニスの全国大会で忙しくて会ってないよ」 「へえ、試合?名前ちゃん応援に行かないの?」 「うーん、関東大会は見に行ったし、あんまりお邪魔するのも悪いから」 美咲が出してくれた紅茶を飲みながら答える。親友の柳生の引退試合を見に行く予定はあったが、跡部の試合は先日の大会で見おさめたつもりでいた。こうして暫く世間話が続いたところで、名前がふいに「そういえば」と声をあげる。 「今年の海原祭でね、演劇に出ることになったの」 「・・・名前が?」 「そうなんだ!何の役?」 「ジュリエットだよ」 「ジュリエットってことは主役か?名前が?一体どういう風の吹き回しだ」 名前の性格をよくよく知っている秋彦は煙草を咥えたまま思い切り怪訝な顔をしたが、美咲は素直に「すごい!頑張ってね、俺絶対観に行くから!」と自分のことのように顔を輝かせた。 「ジュリエットってことは、ロミオとジュリエットやるの?」 「ううん」名前は顔合わせの日に貰って読んだ台本の内容を簡単に説明する。主役二人の名前を借りたあの有名な戯曲を含む、ありとあらゆる戯曲やおとぎ話のパロディを盛り込んだ脚本で、所謂笑いあり涙ありときめきありの、とにかく何でもありのストーリーだった。秋彦のような有名作家の前でこれを言うのは流石に気が引けるが、台本を読んだ時、幸村があれほど自信ありげだったのも頷けるような出来栄えだと感じた。所々学生らしい都合の良い展開が見られるところはあるにしても、それもまた勢いがあって面白いと思わせる要素のひとつとなっているのだ。 「やれるのか?パーティに出席するのだって俺より嫌がってるだろう」 「うーん、やってみる。これで頑張れたら克服できるかもしれないし」 秋彦は僅かに瞠目したが、やがて目を伏せると煙草の煙をふっと吐き出しつつ「・・・ま、頑張りなさい」とその大きな手で名前の頭をぽんと撫でた。 「名前ちゃんならきっとできるよ!」 「ありがとう、美咲ちゃん」 美咲と笑い合う名前を、秋彦はじっと見据えた。名前は幼少期に体が弱く家に籠りがちだったせいかとても内気で傷付きやすい子どもだった。イギリスで閉じこもってばかりの名前を心配して、秋彦は宇佐見家を出てからも折り合いの悪い父や兄には内緒でよく会いに行っていたものだ。成長するにつれて名前の体は少しずつ丈夫になっていったのだが、体だけではなく、心のほうもまた成長していたのである。もう小さくて弱くて、ただ守られるだけの妹ではなくなろうとしている。自分の道を、自分の足で歩もうとし始めている。いつまでも過保護で盲目的なまでに名前を愛している父や兄がそれを直視することは難しいだろう。常に独自の位置で名前を見守り続けてきた秋彦だからこそ、彼女がもう自らの殻を破る時を迎えようとしていることが分かったのだ。可愛い可愛い、たった一人の大切な妹。初めて笑顔を目にした日のことを、秋彦は一生忘れないだろう。 あの冷え切った宇佐見の家に最後に生まれてきた君は、ひとり凍えていた俺に、春の木漏れ日のようなあたたかさをくれた。それはとても返せそうにないほど大きなものだから、せめて――せめて、君のゆく道を阻むものは、この兄が退けてみせようではないか。それが例え、宇佐見という途方もなく大きな名前であっても。 「海原祭、お兄ちゃんも見に来てくれる?」 「・・・ああ」 「当日になって〆切忘れてたなんてことにならないでね」 「心配ない。俺を誰だと思ってる」 「ウサギさん現在進行形で〆切破ってるだろ」 自分の足で歩くのに”宇佐見”という名前が壁になる時が必ず来るということを、秋彦は密かに確信していた。 >>> back |