to | ナノ



飼い犬に手を噛まれる


 その日は雨も強く、寒い日だった。足元も、傘に入りきらないコートも濡れていた為、もはや歩くのも億劫なほどだった。しかし時刻は終電をまわっていて、街の明かりなど遠くに灯るコンビニエンスストアぐらいしかなく、街灯の明かりもおぼろげだ。それでも私はロボットのように足を踏み続けてた。呆けたまま歩いたせいか、びしゃりと水たまりを踏んづけてしまった。ますます苛立ちが募る。
 今日、私はHAYATOとしてのレギュラー番組を一つ降ろされた。お笑いアイドルの次は美少女アイドルを売り出すらしい。フレッシュな彼女の魅力に現場の人間はすぐさま虜にされた。ショートカットでボーイッシュな雰囲気なのに胸は豊満。華やかで元気が良く、いるだけでまわりが明るくなるような女性だ。あんな何もしなくても照らしてくれるような女性にこんな仮初のアイドルが勝てるわけないじゃないですか。
 お笑いアイドルなどやりたくないと思い続けていたのに、いざバラエティー番組を降板されると、とてもショックだった。HAYATOでさえいらないと言われているような気がしたからだ。そんなものにしがみついている自分が情けなかった。
 足取りが重い。何を糧にすればいいのかわからない。寮にやっとたどり着き、扉を開けると電気がついていた。小さく驚きながら、中の様子を覗き込むと、赤い髪がぴょこんと反応する。
「あっお帰り、トキヤ」
 音也がぱたぱたと駆け寄ってきた。時刻はもう日付を超えていて、いつもだったら就寝しているはずなのに起きていたようだ。そしておもむろにべたっと手を伸ばし私の頬に触れた。
「わっ、体冷たい!お風呂入るでしょ?沸かしておいたよ」
「どうしてこんな遅くまで起きているのですか…」
「トキヤを待っていたんだよ。今日もバイトお疲れ様!最近疲れていたみたいだから…少しでも俺にできることないかなって…」
 そう言って音也はエヘヘとはにかんで小さく笑う。まるで今日挨拶にやってきたグラビアアイドルのようだ。私を蹴落として新たにレギュラーとなった女性である。
 そういう人間は自然と人に好かれ、惹きつけ、アイドルになる器を持っている。いや自分はただ歌を歌いたいだけだ。別に、アイドルになりたいわけじゃないと心の内では言い訳をして、胸のむかつきが抑えられない。
「トキヤ…髪も少し濡れてる…傘は?持っていたよね?」
 する、と背伸びをした彼が私の長い前髪にそっと触れる。触れ方まであざとい。なんですかその上目遣い。
「君は…私の恋人か何かですか」
「えっ!?」
 皮肉を言ったつもりだったのに音也は顔を赤く染めてしまった。てっきり笑い飛ばされると思っていたのに予想外の反応だ。まさか、と私の心臓が痛く鳴った。
「まさか、君は…」
「ちょっ、ちょっと待って、それ以上はお願い言わないで、」
「君は私のことが好きなのですか」
「わー!バカー!」
 顔を真っ赤にして大声をあげる音也の口を思わず塞いだ。
「しっ!静かにしなさい!夜中です!」
「んぐっ…」
 ドアの前で立ち往生する私たちは滑稽であろう。叫びそうな音也の唇を抑え込むときゅむとその犬のような瞳が細められた。よがるような瞳がイラつく。
「何ですかその顔は」
「んん…」
 唇から手を離すと今度は少女のように呟く。思わず私は音也の手首を強く握ってしまっていた。ビクンと大きく体が揺れる。冷たい私の手には彼の腕はとても熱く感じた。
 また音也の瞳が私を見つめる。そして濡れた赤い唇は自然と尖っていくのだ。ぱちぱちとまばたきをする。くるくる丸い瞳が物欲しげに揺れている。
「キスしてほしいんですか?」
「…そんなっ俺、そんな…」
「君は本当に、はしたない…」
 そっと顎を支え、彼の唇に触れた。苦しげに息を吐いた瞬間を見計らって咥内に舌を忍ばせた。予想していたよりもずっと熱く濡れている。ぬめった空間が蠢いて私を誘い込む。夢中で貪った。
「は、はふっ…トキヤぁ、ときや…」
「ん…」
 甘ったるい声が鼓膜を刺激し、今度は自ら舌を動かした。ちゅっと濡れた音が響く。薄く目を開けば気持ちよさそうに目を閉じている音也の顔があった。
「音也、抱いてほしいですか?」
「えっ!?抱くって」
「私のを、君のここに」
「うわっ…!?」
 ぐっと彼の臀部を握り込むとまたもやびくびくした。何が何だかわからないと言った顔だ。そのまま撫で続けているとふるふると震えだす。私は無感情な声質のまま話を続けた。
「どうしますか?私のことが好きなんでしょう」
「それは…」
「私のことを想ってここを慰めた夜もありましたか?」
「…うっ…」
 今度はその手を前に持っていき彼自身に触れた。先ほどのキスで反応してしまっていたようだった。浅ましい。そんな想いを抱いて嘲笑をしてしまった。
「どうなんです音也」
 囁くように言ってやれば、また声にならない声をあげる。まるで動物のように。
「ごめん…俺、トキヤで…」
「私で?」
「トキヤで…」
「私でどんな妄想したんです?」
「あっ…!やだ、触んないで…!」
 すりすりと彼のスウェット越しにそこを撫で続けていると腰がガクガクし始めている。私の濡れた髪から滴った粒がシャツを濡らしてしまった。冷たいだろうにと一瞬思った。
「君の妄想の中で私はこんなことをしていたのではないですか?」
「うん、うん、してた…」
 きゅっと力なく私のコートを握り締める音也は本当に弱々しく思えた。
「なら、私に触られたいですか?抱かれたいですか?」
「俺、トキヤになら…何されたって…」
「そんなに私のことが好きなんですか?」
「あうっ…好き、好きだよぉ…」
 はあはあと吐息を繰り返し、音也の顔はさらに赤みを帯びていく。反対に私の体が冷えていき、薄暗い感情が支配していくようだった。
 音也も日が悪い。私は本日すこぶる機嫌が悪いのである。
「なら、私に抱かれたいと言いなさい」
 音也の頬を撫で、唇が触れ合いそうな距離で囁いた。音也の瞳がまた犬のように細められる。それ得意技なんですね。
「…トキヤが、もう一度キスしてくれたら、言うよ」
 ほお。生意気な。
「……いいでしょう」
 ちゅっと大きくリップノイズをたてて、唇を落とした。音也は冷たいであろう私にぎゅっと抱きつく。
「でも、俺、怖いよ」
 やっと絞り出した声はそれですか。
「……約束は守りましょうね、音也」
「……う、うん」
「では、どうされたいか言いなさい」
「………やっぱりトキヤ、俺…っうわ!」
 何か言いかけた音也の唇を荒々しく奪った。濡れたコートもそのままに私は彼のベッドに体を縫い付ける。愛撫もならぬまま彼のバックルもスウェットも下着もすべて放り投げた。
 女のように扱っても良いのかとか、どこに何をいれるのが本当にわかっているのかとか、冷たい私の体のままでもいいのかとか、様々な問題は駆け巡った。けれど、私は音也を乱暴に抱いた。彼は痛いとかやだとかああだのこうだの言っていただがすべて聞こえないふりをした。本当はもっと大切にできたのに、苛立ちと衝動にまかせて、勢いで抱いてしまった。
 それが始まりだった。

 音也と私は一度触れ合うと箍が外れたように求め合った。いや求め合うと言う言葉は語弊がある。私が都合の良いように彼を抱いていたのだ。
 音也は私の言うことなら何でも聞いた。学校では明るく元気に努めている彼も、ベッドの中では従順な少女のようだった。時たま命令を聞きすぎて恐ろしくなったときもあったが、彼は犬のように私に従順だ。
 歌が評価されなかった日、仕事がうまくなかった日は決まって彼を乱暴に抱いた。そんな自分の最低さに反吐が出る。

「トキヤ、泣かないで…」
 最中に涙を流すこともあったようで、そのたびに音也は私の頬に触れ、優しくキスをした。
「泣いてなど」
「あはは!じゃあどうしてこんなホッペ濡らしてるの?」
「あ、汗です!」
「ふふ、トキヤがそう言うならそうかもね?」
 音也がぺろりと私の頬を舐めた。飼い主を慰める犬のようだ。
「しょっぱい」
 一瞬顔をしかめたものの音也は舐め続けた。飼い主を慰めるようにだ。
「あなたは私がひどいことをしているという自覚はないのですか」
「そう思っているならそんな質問はしないんじゃない?」
 にこりと音也は笑った。私は驚いて彼の顔をまじまじと見つめてしまう。
「トキヤは俺にひどいことなんてしてないよ」
 なんと音也の笑顔の柔らかいことか。もう私は羞恥と情けなさで参ってしまいそうだった。かーっと全身に朱が走る。
「だって俺トキヤのこと大好きなんだもん」
「音也…あなたは、私を許すのですか」
「許すって?」
「私はあの日、無理矢理あなたを抱いたのに」
「うん…そうだね…」
「痛かったでしょう?」
「まあ、ね…でも大丈夫だよ。はトキヤのこと…んんっ!」
 繋がったまま、私は彼の唇を奪った。こんな優しく甘い口づけをかつて施したことがあっただろうか。音也は気持ちよさそうに目を細め、細かく息を吐き出した。
「ふぁ…トキヤの、キスきもちい…」
「音也、音也…」
「んっ…んう…っ」
 そのままゆったりと律動を開始するといつになく音也の内壁がきゅんきゅんと締め付けてくる。彼もまた感じてくれているのだと思うと嬉しくて仕方がなかった。突然泉のように愛しさが溢れていく。
「あっあっ、あ〜っ…はあ、トキヤ、トキヤぁ…」
「んっ、はっ、気持ちいいですか、音也…」
「うん、うん、きもちいい、はあ、トキヤのが俺の奥まで、入ってる、入ってるよお…」
 この夜は今までで一番幸せな夜だった。きっと一番気持ちがよかった。

 犬は学習したのか、次第に私を求めるようになった。いつだって尻尾を振って、私を求めてくる。夜中気づいたらしゃぶられていたこともある。それでも音也が可愛くて仕方がなくって、求められればこたえた。けれど限界と言うものもある。
 大体、彼は学校と練習のみだが私はそれにプラスして収録だってあるのだ。体がついていかない。気づけばオーディションだって近づいている。そんな暇ないと言うのに、私も音也も何をやっているのだろう。

 ある日翔とレンに同室の音也とはどんな話をするのかと聞かれた。私は咄嗟に何も答えられなかった。だってセックスしかしていない。
 その時私はとんでもなく自己嫌悪に陥った。遅すぎる。本当に何をしてきたのだろう。もう冬だ。何しにこの学園に入ってきたのだろう。もう冬ではないか!オーディションまで日がない!
 その晩も音也は例に漏れず私を誘った。風呂上がりの彼はとても魅惑的で、甘い匂いを漂わせている。私の首筋に口づけて、頬を寄せ、胸を撫で、そっとパンツのチャックを下ろそうとする。その行動が異様に思え、私は声を張り上げた。音也は少しだけ驚いたような顔をしていた。
「音也、そろそろやめましょう…そのこういうことは…」
「何で?どうしたの急に」
 音也は悪びれずにけろりとした様子で答えた。その愛らしい顔にほだされそうになるがぐっと堪えなければならない。
「オーディションまで日がないではないですか…だからそろそろ練習に力を入れないと」
「練習はちゃんとしてるよ!だーいじょうぶだって」
「あなたが大丈夫でも、私が大丈夫ではないんです!私はあなたと違って、時間がないんですから!」
 思わずヒステリックに声を上げてしまった。けれども音也は怯まない。ますます笑みを深くしていく。
「なに?えっち禁止ってこと?」
「……そういうことになりますね」
「どれくらい?」
「オーディションが終わるまでです」
「えっ何それ!?あと三か月も!?」
「そうです。節度を持って…」
「俺、我慢できないんだけどぉ…」
「んむ」
 音也は私の唇にそれを押し付けた。始めの頃に比べれば彼はとてもキスが上手になった。確実に快感を引き出す舌運びなのだ。
「は、あ、だめです、我慢しなさい」
「待てってこと?」
「…それに、私と音也のこの関係は異常です…こんなセックスばかり…」
 そのときレンと翔の顔が頭に浮かんだ。彼らはとても楽しそうにルームメイトの話をしていた。ケンカも多いが、一緒に歌を歌う時はとても楽しいのだと言う。私はそれがとても羨ましかった。
「でも俺は我慢できない、トキヤとしたい」
 お構いなしに音也は私の萎えたそれを取り出す。彼の指先に触れられればそれは反応しそうになってしまう。必死で振り切った。
「……っ私はあなたの性欲処理役ですか…!?」
「…今日は何したい?なめる?手でやる?しごきながら乳首舐めてあげようか?それとも俺の太股つかう?」
 音也のあられもない言葉の数々に私は一気に頭に血がのぼった。
「……っあなたは本当に…!」
 気づけば私は大きく音をたてて音也の頬をはたいていた。ふっくらとした頬がわずかに赤く染まっている。彼は呆気にとられたように頬に手をやっていた。その仕草に一気に体温が下がる。もう本当に私は何をやって、
「……お、おとや」
「トキヤ」
 普段と変わらぬ温度を持つ音也の声にビクリとする。彼の犬のような瞳は何も変わらない。吸い込まれるようにそれを見つめていると徐々にそれがゆったりと横に伸びていく。目を細めたのだ。
「トキヤって犬飼ったことある?」
「え…?ない、です」
「ほしいと思ったことは?」
「それは、ありますけど」
「お母さんに反対された?」
「………」
「犬を飼うなら、最後まで責任もって飼わないとダメよって言われなかった?」
 音也が私をそっとベッドに押し倒す。彼の顔は逆光でよく見えない。私の心臓は不協和音に鳴り響いている。
「トキヤが悪いんだよ…あのとき俺のこと無理やりやってさ」
「……っそれは」
「あはっ!まあ、確かに痛かったけどね?でも俺はトキヤのこと好きだったから別にいいんだよ。今じゃすっかり開発されちゃったから痛いのだってかまわないし」
 音也が私に馬乗りになってペラペラと喋っている。私はだんだんと恐ろしく感じてきた。たらりと冷や汗が流れる。
「でも、最後まで責任は持とうよトキヤ…俺をこんな風にしたのはお前だ」
 お前だと言う音也の言葉に私は首元をナイフで一刺しされたような想像を一瞬してしまった。息がしにくい。身動きがとれない。
「もう遅いよ…責任はとってね」
 音也はあのお得意のわんこスマイルをかました。でも今は怖い。いつもだったら可愛いと思うそれも怖い。そうこうしている間、音也は私にキスをした。本当に技巧たっぷりのキスだ。
「飼ったら死ぬまで面倒見ないとね」
それは犬が死ぬまで?音也の話?それとも私自身か?
静かな恐怖に包まれながら、私は音也にひたすらべろべろと舐められていた。