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※色々ひどいので何でもありな方向けです!春ちゃん絡みます


 幼い頃感じた母親への恐怖、プレッシャーからか私は男しか愛せない男になっていた。もちろん原因は本当にそれなのかはわからない。けれど女性を愛せないことは確かだった。

 初めて付き合った人は一回り上であろうマネージャーだった。私が十五の頃である。
 当時は、HAYATOと言うキャラクターには正直舌を巻いていた。四苦八苦して、試行錯誤を繰り返した故に生まれた人格であるそれを維持するには体力だけでなく精神力の消耗も激しかった。
 そんな時、支えてくれたのは氷室マネージャーだった。大舞台で歌うには、こんなことでくじけてはいけないと叱咤し続けた自分の体を一番近くで心配してくれていたのはマネージャーだったのだ。
「あまり頑張りすぎるなよ」
 そう言われて、まだ幼く、未熟だった私はそれをそのまま鵜呑みにしてしまった。そして彼の前で大号泣してしたのだ。ずっと優しく抱きしめてくれた。私は彼のことが好きになってしまった。
 初めて男に抱かれたときの相手も彼だ。聞けば彼も同性愛者だったと言う。けれどまさかこんな年下の子を好きになるとは思わなかったと大人っぽく笑った。
 彼との思い出は少しだけほろ苦く、甘く、苦しい。一気に大人への階段を駆け上った気がした。

 私が早乙女学園に入学してからは、めっきり彼との時間は減った。そのうちに私の心に淋しいという感情は減り、寮のほうが楽だと言う気持ちが芽生えてくる。
 やはり、私も子供だったのだ。大人との時間は少し疲れた。一つ下である音也との時間とのほうが自分らしく振舞えた。
 そしてハヤト引退と共に私はマネージャーと別れた。別れようかと切り出されたとき、私は彼と付き合っていたのかと内心少し驚いた。私も私なりに彼が好きだったし、彼も彼なりに愛してくれていた。
 私はそのころにはすでに音也に惹かれていたと思う。いいやもっと前かもしれない。彼との時間が居心地良いと思い始めた頃だろうか。

 音也が自分に友人以上の感情を持つことがないことは明白だった。彼はいつだってあの女優が可愛い、タレントが可愛いと騒いでいたし、何よりも七海春歌が好きだった。
「どんな子を見ても七海が一番魅力的に思える。可愛いって感情だけじゃないんだ、たぶん」
 音也がそういう度に私は胸を締め付けられる想いだった。可愛いだけじゃない。私にもそう感情を向けてはくれないかといつだって思っていた。
 学園を卒業し、寮での同室生活は幕を下ろした。一人部屋を与えられた私は狂ったように自慰に耽った。今までの気持ちを溢れ返すように、ひたすらひたすら右手を動かした。
 音也もまた一人部屋になり、彼女のことを思って手を動かしているのかと思うと鬱屈にはなるが、奇妙な興奮さえ浮かび上がるのであった。
 だが、七海くんと音也は付き合うことはなかった。正しくは付き合えなかった。
 七海くんは私と同じ属性の人間であったからだ。



「七海にふられちゃった」
その日は珍しく、音也が随分と暗い調子で私の部屋へ訪れた。どこか艶っぽい姿にどきりとしながらも招き入れると、何も言わずにベッドに座り込み、淹れてやったココアを大人しく子供のように飲んでいた。そしてやっと本題であろうそれを告白したのだ。
「…気持ちを伝えたんですか?」
 極めて冷静に声の調子を微調整しながら呟く。コクンと小さく頷く音也に私は気持ちがぐっと膨らんだ。そうなんだよお、と痛々しく笑う音也が愛しくて手を伸ばしそうになる。私はその気持ちを抑えるようにぎゅっとボールペンを握った。
 ギ、と椅子を回転し、また机に向かう。音也に今の顔を見られたくなかった。私は悪魔のような顔をしていることだろう。
「彼女は、なんて」
「他に好きな人がいるんだって」
 またなんて曖昧な返事を…。内心舌打ちをした。期待させてどうする。こちらの気持ちなど知らずに音也はそのまま口を滑らす。
「好きな人は渋谷友千香だって」
「…渋谷さんって」
「うん。うちのクラスの。赤い髪の女の子。そんでもって春歌の親友」
 ああやっぱりな、とそのとき思った。何か、私は彼女と近いものを感じていたからだ。彼女もまた届かない何かに恋焦がれてるのではないかと。
「でもさあ」
 音也が立ち上がり、私の背後に立った。微妙な仕草にさえドキドキする。
「そういうのってありえるの?」
 そして、肩に彼の熱い手がおりた。じわじわと生ぬるい体温が肩口に広がっていく。硬直したように身動きが取れなくなってしまっていた。
「そういうの、とは」
「女が女を好きになることだよ」
「…同性愛ですか?」
「そう!俺いまだにそれ半信半疑なんだけど」
「半信半疑…?」
「だって、七海今まで友達いなかったんだよ?初めて出来た友達が女の子の友千香だったんだ。七海は友情が恋愛だって勘違いしちゃったんじゃないかな」
 ペラペラと喋る音也に苛ついてくる。同性が好きだと言うだけで、この感情が否定されねばならないのか。なら、私はどうなる。
「だったら、彼女に聞いてみればいいんじゃないですか」
 肩に置かれた音也の手に自分の手を重ね、振り返る。音也は不機嫌そうな顔をしていた。彼女にふられたのが余程面白くないらしい。
「好きならキスできますかって」
 すっと手を伸ばし、音也の頬をなで、顎の裏をくすぐると音也はますます眉を潜めた。
「は…?誰が?誰に?」
「七海さんに渋谷さんにキスできるかって聞いてみたらいかがですと言っているのです。そしたら友情か恋慕か測れるでしょう」
「…っそんなの友達同士キスぐらいできるよ」
「へえ?なら、あなたは私にキスができるとでも?」
「……っなに、それ…」
 音也はもう涙目だ。苛ついたのも事実だが、彼のこと好きなのも本当だ。子犬のように濡らす瞳が愛しい。私はため息を盛大について、彼から手を離し、空になったマグカップを代わりに手にした。さてもう一杯コーヒーを淹れようかと、椅子を後にした。
「…意地悪が過ぎましたね。本来ならふられたあなたを慰めるのが友人の務めなんでしょう、け、ど……っ!?」
 ゴトン!マグカップが重い音を響かせた。
 私は音也にキスされていたのだ。
「んむ……っんん…!?」
 噛み付かれるようなキスだった。濡れた音が鼓膜を刺激し、下腹部がじゅんっと熱くなる。ただでさえ久しぶりのキスなのに、よりによって音也のキスだ。ずっと好きだった人からのキスにすべてを心もすべて濡らしてしまいそうになる。
 心臓が痛い。
「はっ…トキヤ……」
 口付けの合間に囁かれる自分の名前に心がかき乱される。
 稚拙な舌使いにそうではないと舌先をつい伸ばしそうになるがひたすら享受していた。荒々しい彼の舌の動きがびんびんにストレートに快楽を与えてくれるからだ。そんな、乱暴にされては感じてしまう。
「んんっんんん〜〜!」
 苦しげに呻くとやっと解放され、ぺたんと腰が抜けてしまった。音也は高い位置から私を見下ろしていた。唇を拭う様は今まで見たことのない男の音也だった。ぞくぞくする。
「友達とだって、こういうキスできるよ」
 見下ろす視線は温度も何もない。冷たい槍のような視線が私を貫く。犬でも少年でも何でもない、男としての顔である。
 友達と言う言葉に胸を痛めたが、音也とキスができて嬉しくて仕方のないことも確かだった。これ以上ない胸の高鳴りだ。


 それからの音也の荒れようはとんでもないもので、誘われればどんな女とも遊んでいるようだった。一度社長にも厳重注意を受けている。その際音也はファンには絶対に手を出さないと約束をしていた。そんな音也を見て翔はポツリとこう言った。「音也が一番芸能人になって変わったな」と。
 それにしても度が過ぎている。本当に誰でも良いのか。けれど私は意外にもそこまで切羽詰まってなかった。女ならばいいと、心のどこかで思っていたのだ。音也とキスをした男は私だけだと思うと、奇妙な優越感が支配した。

 恋人など二、三年いなくともなんとかなるものである。私はとにかくストイックに仕事をこなした。音也とも仕事をこなす時も勿論あった。あの日のキスなどなかったようにだ。互いにパンドラの箱としてあの日を深く埋め込む。
 音也が女遊びに耽るようになってかえってよかったと思う。そのたびに男は駄目だよと言われているような気持ちだった。男が好きな男は、そういう仲間同士で仲良くしていればいいんだよ、氷室マネージャーの言っていたことだった。私も割り切れた。元々諦めていた恋だったのだ。

 この二、三年で変わったことと言えば、私と七海くんが学園に在学していたころよりも仲が深まったことだろうか。
 私自身のこともカミングアウトすると、七海くんはそこまで大きく驚かなかった。やっぱり、と言いたげな顔をしていた。彼女はまだ友近さんのことが好きなようだった。けれど彼女には付き合っている男性がいると言う。それでも近くで見れれば幸せだし、私には音楽があるからと健気に笑った。うーん、それは私にも言えるかもしれない。私も歌があれば、なんとかやっていける。音也に対しての感情も薄れてきた。
 私たちはすっかり意気投合し、ときたま二人で食事にいったりお茶したりした。気づけば飲酒のできる年になっていて、私も彼女もあまり飲まないけれど食事の際に嗜んだりはした。
 一方音也とは距離が開いていく。七海くんも、そうだと言っていた。むしろあの告白があってからは口数も減ったと。当然のことだろう。
だが、事態は様々に変化していく。

 音也とドラマで共演することになったのだ。互いにそれなりに名の知れたアイドルとはなっていた。私たちはライバル役で、意外性を取り入れた結果なのか、音也は天真爛漫なふりして実はドライでクールな悪役。私は無口で冷たいように見えて、人情には厚い熱血探偵と言う役だった。それが少しおかしかった。

 奇妙なめぐり合わせと言うべきか。ドラマで共演をすることになってから今度は私と彼の距離は一気に縮まった。音也は昔の面影はあるものの、しっかりとした立派な青年だ。彼は二十一、私は二十二となっていた。

「ねえ、今日トキヤの家で飲みたいな」
「は?」
撮影の合間、自販機の前でコーヒーを飲んでいると音也がわふわふと尻尾を振って近づいてきた。相変わらずの愛らしい笑みを浮かべて。そしてそんなことを言ってきたのだ。
「明日オフでしょ?あっ俺は午後からあるんだけどね。いいじゃん!久しぶりに昔のDVDとか見たりしてさあ」
「構いませんけど…私は飲みませんよ」
「ええー!けち!ノリ悪いなー!」
「……来るんですか?来ないんですか?」
「うそうそ!いくいく!」
 がっと肩を抱かれて、距離がぐっと縮む。本当に大人っぽくなったのに笑顔は昔から変わらない。胸がちり、と痛んだ。
私は音也が去った後、コーヒーをがぶ飲みした。意識はしなかったわけではない。けれど若いときの過ちだと思えば気が楽だった。音也だって私に煽られてあの行為に至ったと思えばいい。



 音也は魅力的な男になった。私は今心の底から思った。
 昔、なぜ月宮先生に女遊びに盛りだした音也をアイドルとして放っておくのか聞いたことがある。すると彼はこう言った。

 シャイニーはねえ、オトくんをモンスターに育てたいのよ。ピュアで何も知らないような顔をしているけど、彼は野獣になれる可能性を秘めているの。悪い男になれる可能性よ。
 そういう男にどうしても惹かれてしまう女の子って少なくないわよお。いつか、誰もが彼のものになりたいと願ってしまう。そういうアイドルにシャイニーは育てたいの。イノセントなだけじゃだめなのよ。それが通じるのは十代のときだけ。悪い男になるには悪いことを覚えなきゃ。自分が動けば女も動く。自惚れた考えを植え付けるのよ。絶対的な自信を覚えた男って強いの。そして魅力的だわ。

 今、ビール缶を飲み干す音也を前にして、そんなことを思いだした。これが悪さを知った男か。そんなの、
「ん?どうしたのトキヤ」
 そんなのドキドキしてしまうに決まっている!
「いや、べ、別に…ってあー!」
「ああー!」
 音也に気をとられて、私はミネラルウォーターをフローリングにこぼしてしまった。ニットもびしょびしょだ。ただでさえ冬なのに冷たい。
「ちょっ…大丈夫!?」
「え、ええ…」
「もおー布巾どこ?ダイニングかな?」
「あっ音也、自分で…」
私の声を知ってか知らずに彼はスタスタとダイニングへ消えた。私はその間に黒いニットを脱いだ。
「は?何トキヤ脱いでるの?」
「何って…濡れたから着替えるんですよ」
「あ、あーそう、だね」
「?あっ布巾ありがとうございます。今着替えてくるので適当にしててください」
「うん…」
 音也の前だからスウェットなどに着替えずに、また新たにカットソーを着ることにした。それにカーディガンをかけるラフな格好だ。

「あれ?音也布巾持ったままぼーっとしてどうしたんです?てっきりフローリングを拭いてくれるのかと…」
「いや、俺はトキヤの体を拭いてあげようと思ったんだよ!」
「ふふ…何言っているんですか子供じゃあるまいし。ほら早く…しないなら私がしますので貸してください」
 何か言いたそうな彼から布巾を奪い取り、フローリングの水分を拭き取った。しかしどうにも視線を感じる。
「………音也?」
「トキヤの体ってきれいだよね。白くて、細くて筋肉もついてるし」
「は…?」
 何か雰囲気が違う。音也の声もワントーン低い気がする。何か、何か甘い雰囲気が急に出来上がってきた。
「ずっと、きれいだなって同室の頃から思ってたよ」
 ごまかすように音也がビールをまた一口飲んだ。私はそれを食い入るように見つめてしまう。喉が上下に動く生々しさにこちらもゴクリとしてしまう。
「あと、ちょっと抜けてるし」
「心外ですね。私のどこが抜けてると…」
「あはは!たった今水こぼしてたじゃん」
「うっ…それは…」
 あなたに見惚れていたからですとは言えなかった。
 自分は本来氷室マネージャーのような大人で知的で上品な男性がタイプなのだと思っていた。けれど音也に惹かれてやまなかった。あの頃の思い出が美化されて蘇る。やはり好きだったんだなと強く思う。
「でも、そういうギャップっていうのかな?かわいいってずっと思ってた」
「な……」
 どうして今、そんなことを。わざわざ二人きりでこんな飲酒なんてして。こんな絶好のシチュエーションでなぜ。
「な、なぜこんなことを今言うんですか」
「んー?なんかトキヤ見てたら色々思い出しちゃって…俺あの時が一番楽しかったよ」
 ぐい、とまた缶を飲み込んだ。ああっもうビールない!なんて言いだす。音也は近くにあったチューハイを手に取ったが、私はそれを奪った。飲まなければやっていられないし、今飲まないとダメな気がした。
「えっ!?トキヤ!?」
「ンぐ…んぐっ…ふう…ウッ」
「いや最後のウッて何!?」
「へ、へいきです」
 心臓が途端に早鐘を打つ。妙に胃のあたりが気持ち悪い。頭もほわほわしてきたし、頬も熱い。かーっと全身に熱が集まった。いつも七海くんと飲んでいるときはもっとゆったりとのんびりだからこんなに一気に飲み干した夜はそうそうない。音也が、音也がそうさせるのだ。急にそんなドキドキさせることを言うから。
「もう、顔真っ赤じゃん」
「別にそんなんじゃ…っ」
「真っ白だから目立つよ。本当にリンゴみたい…」
 ペチペチと音也が私の頬を叩く。音也はまた笑った。
「トキヤって飲むと幼くなるんだね。なんか可愛い」
「〜っ可愛いって言わないでください!」
「どうして?あっ格好良いって言われたかった?でも今のトキヤは可愛いよ」
 そう言ってにこやかに笑う音也のほうが断然格好良い。胸がまたドキンと高鳴る。彼がほしいと思ってしまう。
「あーもう…だから可愛いって言うなと言ってるではないですか…」
「うーん、だからどうして?教えてよ」
 さっきからなぜこの男は、男相手の私にやたら甘い雰囲気を出すのか。恋人のような声色で甘く囁く。私のなけなしのプライドの塔が崩れかけている。
「可愛いって言われたら期待するんです…っ」
「……」
 音也は大きな瞳をさらに開いた。私はそれを凝視した。酒の力って偉大だ。もう何も怖くない。すると彼は、すっと目をそらした。ずきんと胸が痛む。
「俺…あの日のキス、初めてだったんだ」
 先ほどよりもずっと落ちたトーンで呟かれる。時計の秒針が進む音だけがやけに閑散としていた部屋に響いていた。
「どれです。あなたの場合思い当たり節がありすぎです」
「もお。…トキヤとのだよ。今トキヤと話しているのに何で他の子が出てくるの」
 近い。大の大人の男がソファーにも座らずフローリングに座り込み、近い距離で話している。手を伸ばしてしまえば、どうにだってできそうな距離だ。どう見ても普通の友情ではない。
「トキヤは、あの日のキス初めてじゃなかったでしょ。やたら慣れてた」
「………」
「トキヤは、男が好きなの?」
「………」
 急に温度が冷えていく。酒の力はもう借りれそうにない。新たに缶を開けてしまおうかとも思ったが、これ以上はさすがに具合が悪くなりそうだ。私は意を決して小さく口を開いた。
「そうですよ。私は女性は愛せません。男性が好きです」
 彼は一瞬驚いたような表情を見せたが、またいつもの音也に戻っていく。
「じゃあ、俺のことは…」
「好きでしたよ」
 今度こそ目の前の顔は驚きに変わる。それは大きく余韻を残した。
「…過去の話です。別に今は…」
「そう…」
「あなたが男には興味なく、女性しか愛せないことなんて知ってますよ」
 音也が申し訳なさそうな顔をつくる。それを見ていて、胸が痛む想いだった。かえって切ない。泣きたくなる。それが答えだと言われているようなのだ。
「ごめん…俺、あんなトキヤの気持ち知らずに…」
「何年前の話しているんですか」
「俺、友達とならキスぐらいできるってあのとき言ったよね?でも、他の友達とはできない。きっとトキヤがきれいだから…トキヤならできると思ったんだ」
「……っ」
 その一言にひどく揺さぶられそうになる。あの頃の想いが再び溢れそうだ。本当に、本当に好きだったのだから。
「今、私がもしも……」
 もしも、付き合ってほしいと言ったなら。

「―…ごめん、俺明日午後から仕事なんだそろそろ…」
 音也の言葉にもぴしりと心臓にひびが入った。
「………」
涙も出やしない。これが答えだとわかったからだ。意識的な防衛線がよく見える。
 目を凝らさぬとも、見たくなくとも、その防衛線がくっきりと私たちの座り込むフローリングに色濃く引かれれているのだ。
 
 ガコン!
 私が空き缶を握り潰すと音也は呆気にとられた顔をしていた。構わず私はあたりにある空き缶をペシャンコにプレスしていく。
「終電はありませんよ」
 メキメキッ…カシャン。
「タクシーで…」
 グシャッ…。
「……仕事場は?」
 ガシャン、グシャ…。
「××スタジオ」
…グシャ!
「…泊まっていきなさい。別に何もしませんから」
「ちがっ…そうじゃ、なくって…」
 悪い男とやらは子犬に変化することもできるようだ。自信のかけらもなくシューンと耳をおろしてるように見える。
「ただし、あなたはソファーですよ。私は自分のベッドで寝ます」
「もちろんだよ!」
「あと…私は男同士でも女役でしたから、あなたを無理やり襲うことはありませんよ」
「トキヤ!」
「何です」
「ごめん…」
「………」
 悪いと思うならお詫びに抱いてくださいよ、だなんてヘテロの彼には出来ぬお願いだな。
 プレスされた空き缶がお上品にテーブルの上に整列されていた。空き缶の行進だ。うーん。我ながら几帳面な性格がよくでている。無意識にこれをやるとは。

 翌日彼は私が眠っている間に仕事場に出かけたようだった。メモ書きに昨夜はありがとうと書いてある。そして彼オリジナルの奇妙な音符のキャラクターが描かれていた。
「何ですかこれは…っ」
 私はなぜかその稚拙なキャラクターを見た瞬間、ぼたぼたと涙が零れた。
時間など巻き戻せない。あのとき、感情に任せてキスなどしなければよかったのだろうか。ずっと平行線を保っておけばよかった。氷室マネージャーと別れなければよかったのだろうか。こんなにも失恋したような気分になるのはなぜなのか。そんなにも私は彼が好きだったのだろうか。

「好きだったんでしょうね…」


***

 季節は何往復もし、秋が去り、冬が近づいていた。あたりはもうサンタを歓迎するムード一色だ。赤と緑のライトや飾りつけがめまぐるしい。そのサイトに照らされる中泣いている女性が時計台の下、ひとりいた。
「一ノ瀬さん…!」
 突然の呼び出しに私は慌てて彼女の元へ駆け寄った。七海くんはひたすら泣いている。
 私はもう二十六なっていた。七海くんも二十五なり大人の女性だ。
 話を聞いてみると、彼女の最愛の女性である渋谷さんが結婚すると言う。どうやら新たな生命を授かったからのようだ。
「手は届かないと知っていたんです!でもまさかこんなことになるだなんて…!だから、男性は嫌なんです、私ができないこと簡単にやってしまう!」
「七海くん…」
 いつも穏やかで柔らかな彼女がこんなに錯乱するとは思わなかった。私はさめざめと泣く彼女に胸が締め付けられ、思わずに彼女を街中だと言うのに強く抱きしめていた。
 まわりが一斉に私たちを見つめているのがわかる。ここは待ち合わせによく使われる駅の近くの時計台の下だ。けれど誰も私たちを咎めない。それが当たり前の事実のように受け入れる。男と女だから何もおかしくない。そう言われているようだった。七海くんはひたすら小さく収まっていた。何も言わなかった。
「七海くん、私と結婚してみますか」
「……一ノ瀬さん」
「もう私もあなたも十分苦労したでしょう」
「よく…私には、わかりません…」
「君にこれが救いになるかはわかりませんが言ってみたんですよ」
「…言ってみただなんて、一ノ瀬さんにしては随分と曖昧な言葉ですね」
 ふふふ、と小さく笑う彼女はとても可愛らしく感じた。
 あのとき音也が私に感じた可愛さってこういう可愛さなのかもしれないな、とふと思った。



 音也に七海くんと結婚をしたとだけ言った。詳しく話聞きたいから直接会って話したいと言われた。
 彼を私の家に呼ぶと、また音也の雰囲気が変わっていた。本当に大人の男になったんだなあと奇妙な親心のようなものが生まれた。
そして、開口一番こう言った。
「お前だって…お前だって結局女が好きなんじゃないか!」
「……っ」
 ぐらっと胸倉をつかまれ、そのまま私はフローリングに転倒した。音也はぼたぼたと涙を流している。その涙は何のためか。
「どうして!よりによって、どうして七海なんだ!どうして…どうして………っ本当は、トキヤと七海はずっと付き合ってたの?だから二人して男が好きだとか女が好きだとか言っていたの?ねえ、ねえ、ねえ!」
「………そんなことは」
「おい!何とか言えよ!言えよお……!」
 音也の涙が降ってくる。私はただ揺さぶれるだけだ。このまま手ひどく乱暴に犯されてみたいな、と頭の中によぎった。もちろん音也はそんなことしない。殴ったりもしない。ただ泣いて胸倉をつかんで私の頼りない体を揺さぶるのみだ。
 私が傷ついた分だけ、彼もまた傷つけばいい、と思いながら彼の首に腕をまわした。