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心臓


※過度なグロテスク表現はまったくありませんが、人によって気味の悪い話かもしれないので気をつけてください。あと当たり前のように枕営業設定があります。描写はありません。


始め、私の右手を取ったのは社長でした。

―その歌声をもっと世界に広めてみたいとは思わないか。今は辛くとも、お前を世界へ連れていってやる。お前は必ず大物になる。
私は彼に一ノ瀬トキヤを渡し、代わりにHAYATOと言う名のキャラクターを手にいれました。

次に、私の左手を取ったのはマネージャーでした。

―お前の存在をスポンサーたちに刻み付けたいとは思わないか。かなりきつい仕事にはなる。けれど、これは仕事なんだ。割り切れ。しかし心だけは渡すな。プロ意識を持つんだ。汚い手か這いつくばろうとも、お前の心だけは高貴であれ。
私は彼に体を渡し、代わりにテレビへの切符を手にいれました。

今度は、目の前に七海春歌が現れました。私の頬をそっと撫で、その大きな瞳で覗き込みます。

―私はHAYATO様の歌に救われました。あなたの歌が好きです。あなたの曲をつくりたいんです。
私は彼女に瞳を奪われ、唇を請うようにパクパクしてしまう。心が揺れる。
彼女には歌声を渡し、代わりに一ノ瀬トキヤとしての曲を手に入れました。

最後に、背中から私を抱きすくめたのは音也でした。

―ねえ、トキヤ。一年楽しかった?俺はすごく楽しかったよ。ねえ、好きだよトキヤ。だーいすき。
私は音也に心を渡しました。代わりに得たものは何もありません。けれど、私は音也に一番大切なものを渡しました。
マネージャーにあれだけ、簡単に手放してはいけないと言われていたそれを音也に捧げたのです。



生々しくぬめぬめとしたそれは音也の手の上で生きている。
滴る血がたちまち彼の手を真っ赤に濡らしている。時々規則正しいリズムを崩し、びくんっと痙攣をする。浮き上がった血管が妙にリアルだ。

「これ…トキヤの?」
「はい」
「俺にくれるの…?」
「迷惑かもしれませんが…」
「そっ、そんなことない!すっげー嬉しいよ!」

うふふ、と小さく笑って音也は私の心臓に口づけた。血液が音也の唇を赤く濡らす。私は今、どうしようもなくドキドキしていた。すると音也が声をあげて笑う。

「ねえ、トキヤ今すっごくドキドキしているでしょ」

なぜわかったのかとますます心臓をドキリとさせてしまう。音也はまたおかしそうにケタケタと笑った。

「だって、俺は今トキヤの心臓を持っているんだよ?トキヤがドキドキするたびに、ここがびくびくする。トキヤのことまるわかりだよ」
「……っ」

途端に恥ずかしくなって私は一気に顔を赤くしてしまった。
あっますます鼓動が早くなった。
楽しそうな音也の声が聞こえる。私は身動きができなくなっていたし、口を開くにも緊張してしまっていた。

「恥ずかしい?トキヤ」
「…音也…」

音也がおもむろに私の心臓をポケットにしまいこんだ。デニムにじんわりと黒く血が滲んできている。
くいっと音也が私の顎をすくうように持ち上げた。ぬるぬるの血はすでに乾いている。

「トキヤの一番大切なものを俺にくれてありがとう。嬉しいよ」
「私は…キャラクターも、体も、歌声もすべて売ってしまいました…だから、あなたにあげられるものがこれしかないのです…」
「うん。でもすっげー嬉しい。他の全部が誰かのものであっても、俺はこれさえあればそれでいい」
「私がたとえ、心臓のみになっていたとしても?」
「そうじゃないよ。心臓だなんて入れ物なだけじゃん。俺はトキヤのハートを手にいれたんだ」
「私のハート?」
「トキヤを好き勝手にできる権利」
「ふむっ………んむ…!」

ばくりと噛みつくように音也は私に口づけた。キスと呼ぶにはあまりにも荒々しく、乱暴だ。口の中で歯を軽くたてられれば声が溢れる。
口づけの合間に、音也が囁いた。


「ねえ、俺のポケットの中でトキヤのすごくびくびくしてるよ」
「あっ…」
「触ってみる?」

音也に手をとられ、ポケットに触れさせられる。
確かにそれは血液どろどろの独特な濡れ方であった。

「あっ…濡れて、ます…」
「うん。それにびくびくしてるよね?」
「んん」
「あはっ!またびくんとした」
「はい…びくびくしてます…私の大事なものが…」
「うん、トキヤの大事なものがこんな俺の小さなポケットの中に入っちゃうの」

至近距離で音也が口を開くたびに、唇に彼の湿った吐息が当たる。餌を待つ雛のように、私は顎をあげ、口先を尖らせるのみだ。

「やらしい顔してるなあ…」
「音也…」
「はいはい」

くすりと笑って音也はまた口づけてくれた。そしてふいに、音也が私の臀部を撫でまわしたのだ。

「ちょっ…どこ触って…」
「ここ触るともっとドキドキするね」
「そんなわけ…」
「あるよ。俺には嘘ついてもダメ。俺はトキヤの心臓をポケットにいれているんだもん。今だってもっともっとって鼓動が早くなる。そのうち俺のポケットから溢れちゃいそう」
「んぐ…っ」

血液で乾いた指先が私の咥内に侵入した。血の味がする。乾いたそれを舐めまわすと、音也が恍惚とした表情で息をついたのがわかった。

「トキヤ…かわいい…」
「ん、んん…」
「俺がしゃべるたびに、これがびくびくするのが本当にかわいい。俺のこと本当に好きなんだね」

ずるりと、音也の指先は私の咥内から引きずり出された。私は垂れた唾液を拭うことなく、音也を見つめる。

「俺のこと好き?」
「はい、好きです…」

そう呟いた瞬間、ぐんっと右手が突如強く引っ張られた。男の手が私の手首を握っている。その手の持ち主は中年の男だ。

「HAYATOを捨てるのか」

それは社長だった。あの日、病院に運ばれたときと同じ顔色をしている。土色だ。
あ…あ…と、私が答えられないでいると、社長がゲホゲホと咳き込んだ。

「社長!」

右手を掴まれたまま、彼の傍へ寄る。病人のような目をした彼を見て、ぞくりとした。

「HAYATOを捨てるのか。お前を育ててやったのは誰だ」
「そ…それは…」
「歌えるようになったのは誰のおかげなんだ」
「社長のおかげです。社長のおかげで私はHAYATOを手に入れることができた」

私は、震える息を整えながら、静かに呟いた。社長の目の色は変わらない。
すると、今度は左手をそっと握られた。

「では、芸能界の切符を手に入れることができたのは?」

若い男の声だ。恐る恐る振り向くと、氷室マネージャーがいた。

「これでもHAYATOのためを思って、品定めをしてきた。中には、道具やら暴力を行うスポンサーもいる。でも極力、優しいスポンサーを選んできたんだよ。頭をさげたりしてね」
「マ…マネージャー…」

言葉、表情は柔らかくとも、私の左手を握る手はとても冷たく、そして力強かった。

「他のアイドルがもっとひどい枕営業していることも知っているんじゃないか」
「はい…」
「自分は二、三回で済んだ。社長と数人のスポンサーだけで済んだんだ。どう思う?」
「それは…ラッキーなことです…」
「単なる運じゃない。全部影で動かしてきた人がいるからだろう」
「…マネージャーのおかげです。マネージャーのおかげで、私はたくさんのテレビ出演をすることができた。レギュラー番組まで…芸能界の切符を手に入れることができたのはマネージャーのおかげです」

右手に熱い手に握られている感触、左手には冷たい感触。私は右にも左にも向くことができず、ついに俯いてしまった。
すると頭上から可愛らしい高い女性の声が降ってきた。

「顔をあげてください、一ノ瀬さん」

言われるがままに顔をあげると、そこには七海さんがいた。彼女はふんわりと笑い、私の柔らかな手で私の頬を挟んだ。

「ずっと辛かったんですね…。一ノ瀬さんの歌声を聴いていて、とてもきれいだけれど悲しげで胸が締め付けられる想いでした」
「七海さん…」
「私は一ノ瀬さんの歌声が好きです。あなたのために曲をつくりたい。だから…私にあなたの歌声をくれませんか?」
「私は…」

そっと七海さんが私の唇を白い指先でなぞる。それがいたずらに咥内に滑り込んでしまうのではないかと、私は時折心配になった。

「一ノ瀬さんにとって、私は何でしょう?」
「君は、私にとっての希望です…っ」
「希望とは?」
「君だけが…私の歌いたい曲をつくってくれる」
「なら、交換ですね。一ノ瀬さんが私に歌声を捧げてくださったら、私はあなたのための曲をつくります」
「七海さ…」

いつものあの可憐な笑顔で七海さんは笑い、私の唇にちゅっと音をたてて唇を落とした。それでも七海さんは私の頬を手で挟んだままだ。
右手は社長に掴まれ、左手はマネージャーに掴まれ、目の前には背伸びをした七海さんが私の頬に触れたままでいる。身動きができない。

「トーキーヤー」
「…っ」

そして、背後から音也が私をきつく抱きしめた。耳元で彼のいつもより少し低い声が響く。

「トキヤ、人にあげすぎ。じゃあ、トキヤには何が残っているの?空っぽなの?」
「君には私の心を捧げると言ったでしょう…」
「嘘。ここにはないよ」
「そんなことは…うくっ…!」

音也が乱暴に左胸をまさぐる。時折、彼の無骨な指先が胸の飾りに触れ、私は体を震わせてしまった。

「うーん。ないね」
「あなたのポケットに…」
「俺のポケットに?ああ、そういえば…」
「ひっ…」

これでしょ?と背後から伸びてきた手が、私の目の前に心臓を掲げる。相変わらずグロテスクなルックスだ。コクコクと頷くと、おおよかったよかったなんて言っている。

「でも、トキヤにはもう何もない。すべて人にあげてしまったね。それでもいいの?」
「ええ、いいんです。歌が歌えればそれで…」
「そうだね…。今までよく頑張ったね」

音也の声色が背中から伝わる。体温だけでなく声の振動まで伝わってきて、私はじんわりと涙が出そうになってしまった。喉の奥が痛い。

「よく頑張ったな」

右から社長が言った。そして少し名残惜しそうに私の右手を離す。今度は左手が解放される感触がした。

「よく頑張ったな、HAYATO」
「お疲れ様です!一ノ瀬さん!」

七海さんも私の頬をそっと離す。右手も左手も、すべて解放された。右を向いても左を向いても誰もいない。目の前にも誰もいない。ただ、後ろから抱きしめている男の存在以外は。

***

「夢…」

ふと、目が覚めるとそこは学園寮のいつもの自室の天井だった。隣には誰もいない。
そういえば、ライブが終わって打ち上げをして、私と音也はなだれ込むままベッドに寝て…。

「ああそうだ…」

思い出すだけで羞恥で死んでしまいたくなる。ライブでテンションのメーターが振り切ってしまったせいか、私と音也は互いを求めるがまま、初めてセックスをしてしまったのだ。まさか自分が女役とは…。
お互いの胸のうちはすでに知っていた。けれど決定的な線だけはいつも踏み切れずにいたのだ。それが昨晩すべて弾け飛んだ。どこか、ライブを成功させてから、そういうことをしようと決めていた節があったかもしれない。栓を捻った蛇口のようにそれはとまらなかった。

「あれ、トキヤ起きたの?」
「おっ…」

浴室から頭をがしがしとタオルで拭きながら音也がやってきた。どうにも音也がいつもよりもきらめいて見える気がする。恥ずかしくて仕方がない。無駄に心臓がドキドキする。

「へへー。見惚れちゃった?なーんて…」
「どうしてわかったのですか!?」
「えっマジ」

私の赤くなった頬につられるように音也も顔を赤くさせる。二人でゆでだこ状態だ。もう…と呟きながら音也がベッドに座り込む私の隣に腰掛けた。その表情はにやにやしたままだ。

「何、にやにやしているんですか気色悪い…」
「ふふっ!トキヤ今ドキドキしているんだろうなあって」
「な、何を言って…」

ん?と覗き込むように見つめられて、ますます息が詰まる。濡れた髪が滴って、シーツを濡らし、いまだに半裸の体が目に毒だ。ますます鼓動は早くなる。

「あははっ!もーっとドキドキしてる」
「根拠のないことは言わないでください!」
「えー?俺にはわかるよ。だって俺トキヤの心臓持ってるんだもん」
「はあ?」

顔を歪ませても、音也はにんまりと笑ったままで表情を変えない。ぽたぽたとシーツはますます染みをつくっていく。

「トキヤのハート奪っちゃったもんね」

にかっと笑って音也は私にキスをした。ますます心臓は鳴りやまない。確かに、音也が私の心臓の宿命を握っているも同然かもしれない。私はこんなにもドキドキとさせっぱなしだ。

「トキヤ…お疲れ様。今までよく頑張ったね」

至近距離で囁かれ、あまりの音也の優しい瞳と甘い声色に、私は思わず涙目になってしまっていた。その言葉がきっとずっと聞きたかったのだと、心の中で何度も呟いたのだった。