ダイヤモンド 今日ねえ、音くんはダイヤモンドねってリンちゃんに言われたんだよ。磨けば光るってさ。 でもダイヤモンドって身を削ってカットしたほうが、少し小さくなるけれどもっと繊細に輝けるんだよ。複雑な輝き方を魅せるんだ。ねえ、トキヤ。知ってた? * 眠れぬ夜は何度も何度も十五歳の頃の音也の夢を見た。私の初めてはすべて彼が相手だ。キスも、セックスも(前も後ろも初めての相手は彼ですよ)、こんなに人を愛したことも。私は音也以外と付き合ったことがない。音也は私と別れた後、色々な女性と付き合っていたように思えるが。 年数を追う度に、思い出が増える度に、限界だと言われているような気持ちであった。十代の頃はただただ楽しかったのに、二十代になると一気に現実感が帯びていく。まわりで結婚だの何だの言われると尚更だ。だから、私は、 「早めに終止符を打とうとしたんですよ……んっ、ん、」 「あの、一ノ瀬さん少し飲みすぎ…」 「七海くん飲んでますか!?」 「いえ、私は明日休みではないのであまり飲むわけには…あはは…」 音也に居酒屋に誘われた後、私は逃げるようにして街に出た。どうにも心が落ち着かなくて家で一人酒を飲むのもどうかと思い、一人バーで飲むことにしたのだ。そして終電をなくし、そこからタクシーで行ける七海くんの家にお邪魔することになったのである。 「なのに、なのに音也は…はあ、昔はあんなにかわいかったのに今じゃ本当に生意気で…」 「大人になったってことなんですよ」 「大人ぁ?だから結婚してみせたんですか?」 「そうではなく…みんな昔のようにいられないということです」 「私たちもしますか」 「はい?」 「けっこん」 「え、いちのせさ…きゃっ!」 バスン!と彼女をソファに押し倒すと華奢な体は簡単に組み敷くことができた。思いのほか開いている襟ぐりからは柔らそうな胸が覗いている。 「あの、ちょっと本当に一ノ瀬さん酔いすぎ…」 「七海くん、けっこんしましょう」 「目据わってますよ!?」 「ほら、早く、イエスかノーで答えなさい」 ぐっと七海くんの白い手を引っ張り、そっと手の甲に口づけた。我ながら王子のようです。そうして、視線をそっとあげて彼女を見つめようとすると、 「えっ」 ぱしんと思い切り手を振り切れられた。しかし彼女はまるで表情を変えた。 「一ノ瀬さんって本当にドラマと一緒なんですね。きれいすぎて怖いぐらい」 「え?あの七海くん」 「感情がないからドラマと同じになるんです。音也くんの前のあなたはもっとかっこわるいんですよ。知ってました?」 くすくすと小さく笑う彼女は可愛いけれど、どことなくいつもと雰囲気が違う。もっと女の何かが眠っている気がする。 「一ノ瀬さん、私とあなたって決定的に違うんですよ。似てはいるんですけど」 「は、はあ」 「音也くんは一度あなたを受け入れているんです」 する、と七海くんの手が頬に伸ばされた。冷たい手だった。 「私はともちゃんに気持ちすら伝えてないから…私が、言う前にともちゃん男の人と付き合いましたし…」 その声に辛辣な響きが混じっていて、私はそっと胸を締め付けられる想いを抱いた。 「私と一ノ瀬さんじゃ、全然立場が違うんですよ。もっと自分にチャンスがあるってわかってください」 「でも…音也はもう別の女性と結婚を…」 「だからって私と結婚ですか?大人びているのにたまーに子供っぽいんですよねえ」 「なっ…」 おどけたような七海くんに内心驚きつつも、酔いはさめてきた。私はゆったりと彼女の上から去り、そっと彼女を起こした。今度はされるがままだった。ふふふ、と見上げながら笑う七海くんは、昔とはずいぶん違う笑い方をするんだなあと思った。 「その、手荒な真似をしてすみません…」 「いいえ?間近で一ノ瀬トキヤの演技を見れる良い機会でした」 「……」 「それに私、既婚者ですから求婚しても無駄ですよ」 「はあ!?聞いていませんよ!?誰と結婚したんですか!?」 がしっと肩を掴むと華奢な体は簡単に揺れた。くすくすと彼女は笑っている。そしてあの大きな瞳で私をじっと見つめて、 「音楽と結婚しました」 と、相当おもしろい冗談をかますように言った。 私はそれを聞いてぎこちない笑みしか返せなかった。 「か、帰ります」 「えっ?!でも、もう電車…」 「いいえ。タクシーで帰ります。女性の家に泊まるなんてやはり駄目です」 「でも一ノ瀬さんも私も…」 「一度でも私は君を襲ってしまいましたし、男って女を襲うと思えば襲えるんです」 「……」 「帰ります。酔いもさめましたし、無理を言ってすみませんでした」 コンビニの袋に自分の飲んだ缶はすべていれた。七海くんの飲んでいたミルクティーの缶はまだ少し入っていたので置いておいた。 コートを着込んで、そのまま玄関に向かうとパタパタと彼女は見送るようについてきた。 「一ノ瀬さんって、勝手」 「そうですね。勝手に君の家に来たりして、愚痴って…本当に最低です」 「そんなことじゃなくって…いつも決めつけてばかり…」 振り向くと、彼女はとても項垂れた様子であった。表情は暗い。 「誰が、どう迷惑とか、幸せとか、一ノ瀬さんは自分の物差しで測って、本当のこと知ろうとしていない」 「七海くん?」 「もっと、わかろうとしてください…」 七海くんに抱きつかれて、小さな胸が押しつけられる。女性の体はどこもかしこも柔らかい。音也の体とは全然違う。 「…私は十分やってきましたよ」 七海くんの体を振りきり、そのまま扉を開ける。 「女性の一人暮らしは危ないですから…用心してくださいね。それでは…」 彼女の顔を見ることもなく、私は扉を閉めた。 * 春は目前だと言うのに朝と晩は冷える。 夜中の飲み屋街は平日と言えども、静寂と喧騒の狭間だ。中に入れば賑やかだけれど、外はひっそりとしている。この三時という微妙な時間帯ではカラオケのキャッチや居酒屋のキャッチもろくにいない。とぼとぼと駅まで歩いて、やはりタクシーにでも乗ろうかと思った。そしてぼんやりと考える。 私のやってきたことは間違っていたのだろうか。 音也のためにも、自分のためにも別れることが一番大切だと思っていた。彼の一番ほしいものはいつだって家庭で、それは私には叶えられぬ夢だ。私の一番ほしいものは、家庭でも音也でもなく、きっと……。 「お兄さん!イケメンだね」 男性にしては少し高めな声で呼ばれ、一瞬心臓がぎゅっとして、振り向くと、そこには当たり前だが知らない男性がいた。自分と同じくらいか少し上くらいか。ダウンにリュックにデニムにブーツ。音也みたいな恰好しているなと思った。ただ彼のダウンは黒ではなく赤だったけれども。 「あれ、酔ってるのかな。聞いてる?ひとり?」 「は…?私に何か用ですか」 「おおー良い声してるねえ。芸能人みたい!」 暗がりでよく顔が見えない。だけど雰囲気も音也に少し似ている。 「ひとりなの?電車ないでしょ。これからどうするの」 「……」 「ねー俺も暇なんだよ、ちょっと遊ばない?俺さ…男に興味があって…」 「え…」 ぐっと肩を抱かれて、顔が近づいた。知り合いでもないのに髪を撫でられる。その感触にぞわぞわと震えが背筋に走った。 「俺、お兄さんならいけそう。だからよかったら…」 「さっ触らないでください!」 「へぶっ」 気付けば私は長年愛用のグッチのやたら大きく重いバッグで思い切り彼の頭を殴っていた。細い体は簡単に倒れ込んだ。だが心臓はバクバクとしたままだ。 「私は今いらついているんです!あなたのような男に…私はっ」 「ちょ、ちょ、ごめんなさ…」 「私が抱かれたいと思うのは、あの男音也、一人だけです!」 ぐっと熱いものがせり上がって、涙がボロリと零れそうになる。涙で歪んで見えない。色んなものが見えない。 「私のような男がそう簡単に……っ」 「ひ、ひィ…」 バコン!ともう一度バッグで彼の肩付近を殴りつけた。我ながら女みたいな攻撃の仕方だ。 「待って!」 もう一度、高めの男の声が響いた。仲間でもやってきたのかと思うと、今度は赤いダウンを着ていた。 「ごめん、この人俺の連れなんだよ……って」 「音也……」 街灯に照らされて判明したのは、まぎれもなく音也の顔だった。互いに驚いたように見つめあい、シン、と気まずい空間が流れた。その静けさをブツンと切るように男の呻き声が響いた。 「ああー…ったく、酔いすぎなんですよ」 「う、う〜ん……」 「トキヤ、俺この人タクシーで送っていくけどお前はどうする」 「え…」 黒いダウンの男の肩を抱えながら、上目使いで音也は聞いてくる。その触れ合いに少し嫉妬をしてしまった。 「友達と飲んでるって感じも、一人で飲んでるって感じもしないし…ていうか、帰ってなかったんだ。はは、だから一軒でもいいから飲みに行こうって言ったのに…」 「……それは…」 「こんな中途半端な時間だし。帰ろう。三人でタクシー乗ろうよ」 三人なら、まだ大丈夫だろう。私の頭にそうよぎった。音也も知り合いがいるなら、前回のようなことにならない。二人きりにならなければいい。三人なら…。 * 「雨ですね…」 「傘持ってる?」 「いえ…」 「俺も」 タクシーは助手席に私が、後ろの座席に音也と彼の友人が座った。当たり前だ。距離が離れていたし、特に話すこともなく、静かな車内の中、雨を蹴散らすワイパーの音だけが響いていた。 先に、彼の友人が降りた。ここからならすぐだからと、目を覚ましたようでうんうん唸りながら帰って行った。私にも謝っていた。 「トキヤの家行ってもいい?」 「はい?」 「もうこんな時間じゃん。それに帰りたくないんだ。あのマンションに」 「……」 ウィーガシャン。ウィーガシャン。ワイパーの音だけが鳴る。 ふと運転手さんがどうしますかと言った。私は本当に答えていいのかわからなかった。 「あ、いいです。そこ右折で」 「音也、本当に私の家にくるんですか」 「いいじゃん、泊めてよ。朝になったら帰るから!お願い!」 ねっと、音也のやけに明るい声が響く。私はもう助手席から体をねじることができなかった。 わかりました、と小さな声で言った。 音也のこういう些細なやり方は昔を思い出した。少し楽しかった。ウィーンガシャン。ウィーンガシャン。あ、そこは左折でお願いします。 * 雨は案外本降りで、タクシーを出てからマンションの入り口まで走っても、割と濡れてしまった。彼が家に入ってきたとき、玄関ですぐタオルを渡してやると、大人びた笑い方をした。 「あのさ、さっきはごめんね」 「はい?」 「トキヤにせまってたでしょ」 「…悪酔いでしょう」 「あの人ね、俺が男と付き合ったことあるって言ったら興味シンシンでさあ。男同士ってどうやるのって聞かれたから教えてあげたの。そしたら試したくなったのかな。最低だよね」 「は…?」 「いやまさかトキヤだとは思わなかったよ!普通思わないでしょ。確かにあのへん事務所の人よく飲んでるけどさ。まあトキヤが相手じゃなかったら止めなかったよ」 「他の人だったらそのままにしていたんですか」 「女の子じゃないんだし、男だったら普通に拒否できるでしょ。あの人細身だし。でもさ、興味本位だけで男と恋愛できるって思ってるのかな、この人って思うと俺カチンときちゃってさ」 ワシャワシャとタオルで髪を拭く音也の顔は見えなかった。いつもと同じ声のトーンだった。 「男同士のセックスも、全然入らないし、きついし、何が気持ち良いのかわからなかった。みんなにも、どういう人と付き合ってるかって言えないし、喧嘩とかしても相談できなくて…、ずっと秘密にしてるのが辛かった……っ」 「……音也は、私と付き合っているのが辛かったんですか…?」 彼の涙声と裏腹に私の声はやけにクリアな声色だった。べろんと彼の頭にかかっていたタオルをあげてやると、彼は泣いていた。思わずタオルでごしごしと目元を拭いてやる。 「辛かったよ、トキヤが好きだから、なおさら辛かったよ…!」 「おと……」 ぎゅっと濡れた体のまま音也は私に抱きついた。結婚式のときはやけに大人になったと思っていたのに私の前で彼はまだ子供らしい。背中を撫でてやり、どうしようもなく今この瞬間が嬉しいと思ってします。彼はまだ私のもののように思えるからだ。指輪など、制約など、約束など、婚姻も、何も意味ない。私たちには始めから何もなかった。 「うっうう…それでっ、トキヤいきなり、俺と別れるとか言うしっ…俺、辛いけどそれでも頑張ろうって思ってたのに…っ」 「あの閉ざされた世界で?」 「は…?せかい?」 抱きついたまま顔を上げる音也は本当に幼かった。ボロボロ流れる涙をすくってやる。 「あなたが私と付き合うことで夢を叶えられないなら、別れることが一番だと思ったんです。あなたが先ほど言っていたでしょう。誰にも言えなくて辛かったと」 「だってトキヤが誰にも言うなって!」 「ええ。言いました。あなたはそれをずっと守ってきたんですね」 「トキヤ…何が言いたいの?」 私は元来ウェットな性格だと思っていた。でも違う。本当はドライな性格だったようだ。 「私たちが付き合っていた長い間って一体何だったんでしょう。あなたは他の女性と結婚してしまうし…」 「俺、それについても話そうと思って」 ふいに音也の雰囲気が変わる。ぽたぽたと髪からまだ雨粒は滴っていたままだ。 「彼女と結婚したのは、確かにきっかけはトキヤだけど…でも、俺は俺なりに彼女のこと好きだったよ。だから結婚したんだ。この人となら家庭を築けるだろうって思った」 音也の言葉に、私は声を失った。心臓が握り潰されるかと思った。苦しさに声をあげた心臓は鼓動をばくばくと速めている。今、全身が震えている。 音也はあの女と結婚をしても、それでも彼にとって愛する人とは自分ただ一人だと妙な確信をしていたからだ。だって、式にトイレで抱いたり、今日だって、誘うような真似をしたりして、 「まあ、うまくいってないけどね。彼女は家に帰りたがらないし、俺も帰りたくないって思ってる。会話も減ったよ。彼女は絶対に仕事はやめないって言ってるし。なんか、俺何してるんだろうって…毎日、彼女から離婚届けを渡してもらえないかなって、勝手に妄想してるよ」 「……」 「俺も、お前も何しているんだろうね。もっとまともな恋愛したかったね」 「…私とはまともな恋愛ではなかったと?」 「でもこんなにも人を好きになったのはトキヤが初めて」 ふふ、と二人で笑いあったが、また泣いてしまいそうだった。こんな結果で物事は終わるのだろうと思った。 結婚式のあのときよりも、今ずっとずっと世界の終わりを感じている。私と音也の二人だけの世界が。 * 「ん……」 ローションをたらされて、局部を弄られ、女のような声をあげ、いいようにされて、プライドも何もあったもんじゃない。 「ここも、入りやすいようになったよね」 「ひ、や…」 「覚えてる?初めて二人でやったとき。一回目は入らなかったから、二回目が初めてってことになるのかな…」 「ど、どっちもいいです…っ」 「はは、そうだねえ。でも俺、いっぱい頑張ったよ。トキヤと気持ち良くなりたくって」 「…あのとき、すごく幸せでした。人肌が本当に心地よくて…」 「うん…俺も…トキヤいれるよ」 「あ、あ、あっ…」 今までで一番音也は私を抱いた。ありがとうとごめんねがつまっているようで私は快感と寂しさと悲しみに涙をずっと流していた。それに久々に音也に触れられて嬉しいという僅かな気持ちもあった。 これで終わりなんだ、これで終わりなんだ、本当にこれで終わり…? 「お、音也…っ」 「ん…何?」 ぎゅう、と彼の首に腕をまわして、鼻先を擦り付けあう。音也が一瞬動きを止めた。 「これで、終わりなんですか…?」 「…今、そういうこと言うのはダメ」 「ひぅ…っどう、して…っ」 「終わりにしたくなくなっちゃうから」 「……っ」 それでもいいと、私は思うけれど、理性をつかさどる私は、そうではいけないと言う。 あのときは互いに好きだからという理由で付き合うことにしたのに、今ではそれがすっかり難しくなってしまった。大人になってしまったからだ。 「はあ、は…トキヤ、出すよ…」 「ん、ん〜っ…な、中に…」 「馬鹿なこと言うなよぉ…っ!」 音也はなぜか直前で引き抜こうとしたが、私が脚を絡めてそれを止めた。その動きにも彼は感じたのか、結局中に出されてしまった。 「はあ、あ、音也のが…っ」 「…俺、トキヤの中に出す度に子供できないかなって思っちゃうんだ」 ずるりと音也が抜かれていく。だらりと白濁した液がシーツを濡らした。 「俺ずっと辛かったんだ…」 音也はまた泣いた。私もつられそうになったが、涙は出なかった。顔はぐしゃぐしゃだからそんなのはわからないけれど。 「…トキヤ、どこいくの」 「シャワーですよ」 「…そう」 以前だったら一緒に入ろうと言われていたのに。音也は曖昧に笑って、いってらっしゃいと言った。歩く度に、太股から音也の精液が滴った。 浴室ですべてが流れる。音也に出されたそれも、私の体液と共に排水溝に流れて行った。 この部屋からあがって、もしも音也がいなくなっていたらどうしよう。どうもしないな。これで終わったんだから。 ふとデジタル時計を見ると、日付は四月の三日を示していた。彼の誕生日まで約一週間だ。 |